■かれこれ40年、不眠が続く

書けるうちに書いてしまおうと思うのが、物書きです。書き続けて、疲れたなと思ったら、倒れる。それでうんとお酒を飲んで、寝入って、でも喉が渇いたりして夜遅くに目が覚める。またつらつらと構成などを考えているうち、否応なしに目が覚めてくる。そしてまた書く。すると疲れて、行き倒れのように寝る。生活のローテーションとしては、この感じがいいようなんです。

作家 椎名 誠氏

ただ、いつもすんなり寝入ることができるとは限りません。かれこれ40年、不眠との付き合いが続いています。僕はうまく考えを整理できない人間で、頭のなかでも書いているんです。布団に入って横になっても、頭は動いている。考えるエンジンのスイッチが切れない。すると眠れない。そこに焦りが入ってくるわけです。「明日から旅行なのに、用意もできていない、原稿も書き終わっていない」なんて。物書きはそう悶え苦しんでいる人が多いですね。

布団に入っても頭の回転が緩まないときは睡眠薬を飲みます。最初は5、6種類の睡眠薬と抗不安薬を、医者に言われた通り全部飲んでいました。今はこれまでの“人体実験”の成果で自分に合う量がわかっていますからね。量は減っています。それでも足がふらついたり、おかしくなっちゃいますから、習慣にするのはよくないなと。

■精神科で処方されたのが、睡眠薬だった

もとはといえば、20代のころにサラリーマンをしていて、心配事でノイローゼになったのが始まりです。自分で勝手に腎臓病だと思いこんで、妻に「これから入院する」と宣言しました。そしたら妻が「いい病院を知っている」と。しかし病院に行くと、内科を通り越して、外科を通り越して、連れていかれたのは精神科だった。「大病院は、まず精神科に診断してもらって、それから専門科を紹介されるのよ」と説明されて、僕もバカですから「そうか」と納得して。その精神科で処方されたのが睡眠薬だったんです。てきめんに効きました。睡眠薬による、甘美なる眠りの世界を知ってしまった。その後、物書きになってからは、ときおり睡眠薬を飲むようになりました。

不眠といっても、僕のは「いいかげんな不眠」で、日によって軽重がありますし、40年といっても連続しているわけではないんです。ただ、油断すると不眠に陥る。きっかけは「考えすぎ」ですね。明日締め切りの小説が全然書けていない、間に合わなかったらどうしよう、そんなときです。これを予防するには、締め切りに余裕を持つこと。仕事は前倒しにして、早めに終わらせること。まあ、それができれば苦労はしませんが(笑)。困ったことに、締め切りギリギリのときにいいものが書けたりするんです。特に小説は枚数が決まっていませんから、書けるときにはどんどん、書いてしまうんですね。すると寝るタイミングを逸して、白々と夜があけていく。

睡眠薬以外にも、自分なりに対策を講じています。あるとき、風呂に塩を入れる「ソルト風呂」がいいと聞きまして。それもフランスのブルターニュの海水を結晶化させた塩がいいんだと。僕は程を知らないから、たくさん塩を入れたらたくさん眠れるだろうと思ったんです。そうしたら、浸透圧の関係で体からどんどん水分が出ていって、尿酸値が高くなり、痛風みたいな症状が出た(笑)。反省して、塩の用量を守り、水もたくさん飲むようにしたら、不眠はかなり改善しました。

古今亭志ん朝の落語CD●志ん朝の落語の中でも「廓噺」が好きで、寝る前に聞くとか。(落語名人会1 古今亭志ん朝「明烏」「船徳」/ソニー・ミュージックレコーズ)

落語にも助けられています。ヘッドホンで周りの音を遮断して笑っていると、頭のなかのスイッチが切れて、いつの間にか眠ってしまいます。お気に入りは古今亭志ん朝。最高傑作は廓噺ですね。「明烏」に「付き馬」。それから町内の若い衆が集まって馬鹿話をして、きざな若旦那に腐った豆腐を食わせるという「酢豆腐」もいい。もうずいぶん聞きすぎて「このあと咳払いするんだ」とわかるぐらい覚えちゃったんですが。

振り返ってみると、何かに夢中になっている時期はよく眠れるんです。それも、小説みたいに頭を使う夢中じゃなくて、体を使う夢中。僕が目黒考二と2人でつくった『本の雑誌』を、自分たちで担いで書店に届けていたころや、ボクシングや柔道をやっていたころは、疲れ果てて不眠どころじゃありませんでした。仕事でオーストラリアのグレート・バリア・リーフで毎日潜っていたときも、よく眠れた。サメがウヨウヨしているなかを泳ぐんだから、恐怖心はあるんですよ。でも小説の締め切りよりは、サメの恐怖のほうが、よく眠れるから好きですね(笑)。

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椎名 誠(しいな・まこと)
作家
映画監督。1944年、東京都生まれ。辺境の旅人としてルポの執筆、ドキュメンタリー番組などに出演。90年『アド・バード』で日本SF大賞受賞。『ぼくは眠れない』(新潮新書)など著書多数。
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(作家 椎名 誠 構成=東 雄介 撮影=栗原克己)