松江城(島根県松江市)を訪れるのは、6度目、3年ぶりのこと。以前『城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術』という著書を出版した際、国宝指定されて間もない松江城天守を取材させてもらったのです。松江城天守は平成27年(2015)、5つめの国宝天守に指定されました。国宝天守の誕生は実に63年ぶりでした。

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松江城の天守 ©志水隆/文藝春秋

 実は、日本の城は謎だらけで、犬山城(愛知県犬山市)や彦根城(滋賀県彦根市)の天守も、国宝だからといってすべてが解明されているわけではありません。松江城天守の国宝指定は、調査・研究の賜物。放射性炭素年代測定(ウィグルマッチング法)による部材の年代測定調査など最新の調査方法も導入されており、天守解明の新たな1ページがめくられたといっていいでしょう。

苦肉の策で編み出された天守の構法

 国宝化の決め手のひとつは、独自の建築技法が明らかになったことです。建築上の最大の特色は、通し柱の使い方。下の図にあるように、地階と1階、1と2階、2と3階、3と4階、4と5階、というように、2階分の通し柱を交互に配することで天守を一体化しています。姫路城(兵庫県姫路市)の天守は地階から6階の床までを貫通する2本の通し柱(心柱)が支えているのに対し、松江城天守は2階ずつを通し柱で支えて均一に荷重をかけているのです。

 2階分の通し柱をずらすように配置することで、天守の荷重が下の階に直接かからないしくみです。逆Tの字のように、荷重を外方向へ分散させながら、下方向に伝えます。おそらく、姫路城天守ほどの長大な通し柱が調達できず、代替策としてこの方法が編み出されたのでしょう。

 松江城天守の構法は天守の発展にも大きく影響し、その後の丸亀城(香川県丸亀市)や宇和島城(愛媛県宇和島市)の天守などでも採用され、やがて大坂城(大阪府大阪市)や名古屋城(愛知県名古屋市)の天守にも用いられるようになったと推察されています。

どのように完成年を明らかにしたのか?

 完成年が証明されたことも、国宝化の大きな決め手となりました。天守の完成年代の特定は、実はとても難しく、一筋縄ではいきません。古材が転用されているケースがあるため材木の年代や柱の加工技術だけでは断定できないからです。また、犬山城天守のように、下層部と上層部で建造時期が異なることも少なくありません。

 松江城の場合、歴史的な価値を証明する決定打となったのは、再発見された2枚の祈祷札でした。赤外線調査により大半が判読でき、うち1枚には「慶長拾六年」「正月吉祥(日)」、つまり慶長16年(1611)正月に大般若経600部を転読した(はしょって読んだ)ことが記されていました。大般若経600部の転読は建物の完成を祝う儀式で行われるもので、祈祷札が用いられるのは天守の完成を祝う儀式。よって、祈祷札は松江城天守が少なくとも慶長16年正月以前に完成していた証となったのです。

  祈祷札は、天守地階中央から1階の通し柱に打ちつけられていました。通し柱に残る釘の跡と祈祷札を打ちつけた位置が、ぴったりと合致しました。化学分析によって、錆から出た柱のシミと祈祷札の裏側に付着した錆も一致しています。現在はその柱に祈祷札のレプリカが展示されているので、ぜひ注目してみてください。

信長と秀吉に仕えた名将の築城術

 重要なのは、こうした天守が当時誰でもつくれたわけではない、ということです。豊臣秀吉のもとで実戦経験を積み、城づくりの技術を磨いた重臣の堀尾吉晴だからこそ、立派な天守が建つ見事な石垣の城が築けました。これが、松江城の最大の魅力でしょう。  

 吉晴は織田信長と秀吉に仕え、秀吉の家臣として天正10年(1582)の備中高松城攻めをはじめ天正15年(1587)の九州攻め、天正18年(1590)の小田原攻めと数々の武功を挙げてきた武将です。豊臣政権においては、中村一氏や生駒親正とともに要職を担い、もちろん、秀吉の城づくりにも携わってきました。慶長4年(1599)に子の忠氏に家督を譲りましたが、忠氏が急逝。跡を継いだ忠晴が幼少だったため、吉晴が後見人となり、実質的に城と城下町を整備して松江の礎を築きました。

全国でここだけにしかない恐ろしい迎撃の工夫も

 天守から付櫓に向けた「狭間」や「隠し石落とし」、天守地階の井戸の設置など、松江城天守に軍事的側面が強いのも、こうした築城の背景があるからです。徳川の世に変わったことで城づくりにも将軍家に対する配慮が見え隠れしますが、毛利輝元が関ヶ原合戦後に築いた萩城(山口県萩市)とそっくりな黒壁の天守から、秀吉政権の栄華と憂いを感じずにいられません。

 天守は四重五階地下一階の望楼型で、付櫓が付属する複合式。総床面積は約1700平方メートルと、現存する天守では姫路城に次いで2番目の規模を誇ります。近年、天守内の展示が撤去されてその広さを体感できるようになったのがとてもうれしい。天守内を見渡して、その広さを実感してみてください。外観は下見板の黒色や巨大な破風の存在感もあいまって、どっしりとしたかっこよさが魅力です。

松江藩から土蔵を譲り受けた廻船問屋が今は……

 さて、今回の楽しみにしていた「國暉(こっき)酒造」の取材へと向かいます。松江城内にあった土蔵を仕込み蔵として使用していると聞きつけ、やってきました。  

 まず、酒蔵の立地に心がざわめきます。江戸時代の城と城下町は同心円状または階段状に配置されるのが基本構造で、城の外側に武家屋敷(侍町)、町人町(町人地)、寺町(寺社地)が置かれます。國暉酒造があるのは松江城の外堀にあたる京橋川の南側で、町人町の中でも武家屋敷や城に近い場所。そして、大橋川が宍道湖に通じる喉元にあり、水上交通を利用した商売をするにはかなりの好立地です。

 話を伺うと、なるほどと納得でした。國暉酒造は明治7年(1874)の創業ですが、江戸時代にはこの地で廻船問屋や藍染業を営んでおり、なんと松江藩から名字帯刀を許されていたそうです。松江城は明治6年(1873)の廃城令後、天守だけは落札後に地元の有志により買い戻されたものの、天守を除くすべての建造物は明治8年(1875)までに払い下げられ、撤去された経緯があります。

 國暉酒造の仕込み蔵が松江城のどこに建っていた土蔵かはわからないそうですが、受け入れる余裕があった廻船問屋が、役目を終えた土蔵を松江藩から譲り受けたようです。  

「松江城でつくられた酒」が飲める!

 國暉酒造では、ほとんど「島根K1」という酵母を使っていますが、培養した酵母が働くのは速醸法でも6割程度で、4割は蔵に住みついた酵母が働くという研究資料があるそうです。つまり、國暉酒造の酒は松江城内の土蔵に住み着いた酵母なくしては味わえない、ということ。酵母そのものに味があるわけではないですが、「松江城でつくられた酒」と言われれば、城好きなら理屈抜きで興奮してしまいます。

 悩んだ末に購入したのは「不昧公」の特別純米。島根県産の酒米を100%使用し、仕込水は島根半島の硬水。大吟醸の酒母を用いた、芳醇でまろやかな旨味のお酒です。喉越しがよく、食中酒によさそうです。

 出雲神話に登場する伝説の酒、八塩折の酒を再現した古代酒「八塩折仕込」にも感激しました。日本酒のルーツは出雲にあるともいわれ、八塩折の酒は『古事記』や『日本書紀』に出てくるのです。須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)に八塩折(やしおり)の酒を飲ませ、酔わせて退治したという伝説があります。濃厚な味わいで、30年モノの紹興酒のような芳醇さ。熟したメロンのような独特の香りと味わいで、濃厚でありながらさわやかでキレのいいお酒でした。

かつて信州からやって来たそば職人たち

 ほろ酔いになったところで、美食の時間です。松江といえば、「出雲そば」の一択で、多くの名店が軒を連ねます。全国各地で食べられているそばは、諸説あるものの信州を発祥とするのが一般的。遠く離れた松江の名物になったのは、寛永15年(1638)に国替えによって松江城主となった松本城主の松平直政が、信州からそば職人を引き連れてきたからとされます。松江の風土に合い、気候や水の違いによって改良されながら出雲そばへと発展しました。

 出雲そばは、「割子」という3段重ねの丸い漆器に盛られたそばに、そばつゆを直接かけていただきます。割子はお弁当箱がルーツで、連と呼ばれる趣味人たちが野外でそばを食べるために考え出し、四角から小判型、そして丸型へと変化したといわれます。弁当にそばとは驚きますが、それほど日常的な食べものだったのでしょう。

食べごろはわずか30秒間!?

 今回訪れた「神代そば」は、連休ともなれば行列ができる名店。「写真撮影はうれしいですが、お出ししたらぜひすぐに召し上がって」とご主人。つなぎ不使用の十割そばは伸びやすく、ほんの30秒でベストのおいしさが失われてしまうのだそうです。「まさか、30秒程度で」と疑わしく思いましたが、本当に一瞬のうちに、明らかに目に見えて麺の表面が変化しました。そばにも鮮度があるのか、と驚いた瞬間でした。

 出雲そばは甘皮まで挽くため、色が濃く香りが高いのが特徴です。神代そばの割子そばは製法上さほど黒くなりませんが、香りはとにかく豊か。香りを邪魔するわさびは添えられません。まず1枚目はそばだけを味わい、次にそばつゆ(神代そばでは「だし」)をかけ、さらに薬味や卵を追加して味の違いを楽しむ。残った「だし」を、2枚目の割子にかけていただきます。

そばと茶の湯を浸透させた7代目藩主

「喉越しを楽しむのではなく、よく噛んで風味を楽しむのが出雲流です」とのご主人の言葉通り、しっかりとした食べ応えで、喉を通った後に口の中に残る芳醇な余韻もたまりません。ほどよくコシもあり、噛みしめると「だし」が絡まって、旨味が口いっぱいに広がります。濃いめの「だし」は、出雲地方に古くから伝わる伝統的な料理酒「地伝酒」をみりんの代わりに使用した特製だそうです。

 庶民の食べものだったそばを大名までもが食べるようになったのは、茶人でもあった7代藩主の松平治郷(不昧)がそばを好み、茶懐石で用いたからといわれます。茶会ではそばを使った菓子なども出すなど、治郷は大好物のそばとお茶を同時に楽しんでいたとか。松江が全国屈指の和菓子処なのも、茶の湯文化を浸透させた治郷の功績です。「食文化を知ることができるのも城めぐりの楽しみだな」と実感しつつ、私は松江を後にしたのでした。

撮影=萩原さちこ

※松江城をめぐる旅の模様は、「文藝春秋」9月号のカラー連載「一城一食」にて、計5ページにわたって掲載しています。

(萩原 さちこ/文藝春秋 2019年9月号)