ガンダム」と「ジブリ」作品の共通点とは?(写真:amnachphoto/iStock)

『機動戦士ガンダム』のアニメーションディレクターとして知られる安彦良和氏。今年NHKで放映されたアニメ『機動戦士ガンダム THE ORIGIN 前夜 赤い彗星』に心揺さぶられたファンは多いだろう。

一方で、安彦氏は専業マンガ家に転身以降、近代の東アジアを舞台に「暴力と戦争」を描く歴史作家としても人気を博している。安彦氏はなぜ、日本・中国大陸・朝鮮半島という舞台を選んだのか。

東アジアのこれからを考えるうえでのヒントを探すべく、安彦氏へ20時間に及ぶ取材を行い、その記録を『安彦良和の戦争と平和 ガンダム、マンガ、日本』にまとめた杉田俊介氏と、安彦作品の愛読者であり、『アジア主義 西郷隆盛から石原莞爾へ』という著作をもつ中島岳志さんが「アジアと安彦良和」について語り合った。

前回:「機動戦士ガンダム」から40年経て語られる真実

宮崎駿アニメに見いだされる「満州の影」

杉田俊介(以下、杉田):安彦良和作品にも関連して、ジブリ作品についての話も少し聞かせていただければと思います。『宮崎駿論』では宮崎駿さんの全キャリアをたどり、物語に埋め込まれた宮崎さんの「家族」「自然」「労働」といった思いを浮き彫りにしようと努めました。

以前、中島さんがこの本の書評を書いてくださってとてもうれしかったんです。中島さんはそこで、「この世界の希望は、普遍的に『魔女の宅急便』に収れんするのではないか」と書いていました。宮崎作品のなかで何がお好きですか。

中島岳志(以下、中島):やっぱり『魔女の宅急便』がいちばん心地がいいというか、いちばん好きです。

杉田:ほかに何か気になるジブリ作品はありますか。

中島:『千と千尋の神隠し』はすごくコンセプチュアルな作品で、宮崎さんがそういうものを描きたいという意図は何となくわかるけれど、あまりにもいろいろなものがパッチワークになりすぎている、という印象を持ちました。

杉田:油屋にせよ神々の住む町にせよ、モダンなものとアジア的なものがごった煮になって、どこか満洲国っぽさがあるように感じます。

中島:そうですね。


(左)杉田俊介氏、(右)中島岳志氏(撮影:編集部)

杉田:日本の戦後のサブカルチャーには、戦前戦中の大日本帝国、大東亜共栄圏、満洲国の「夢」を取り返そうとする、という不穏な欲望があり続けてきた、とよく言われます。

実際に、宮崎駿・高畑勲が若い頃に働いた東映動画には、満洲(満映)の「夢」が流れ込んでいて、ジブリの作品にも至るところに「満洲の影」が見いだされます。気になるのは、ジブリ作品にはアジア的なものへの奇妙な誘惑と否認が見られてきたことです。


杉田 俊介(すぎた しゅんすけ)/1975年、神奈川県生まれ。法政大学大学院人文科学研究科修士課程修了。文芸誌・思想誌などさまざまな媒体で文学、アニメ、マンガなどの批評活動を展開し、作品の核心をつく読解で高い評価を受ける。著書に『宮崎駿論』(NHKブックス)、『ジョジョ論』『戦争と虚構』(作品社)、『長渕剛論』(毎日新聞出版)、『無能力批評』(大月書店)、『非モテの品格』(集英社新書)などがある(撮影:編集部)

『千と千尋の神隠し』の油屋は、スタジオ・ジブリの似姿でもあるし、あるいは原子力によって動いているのではないかという説もあります。もともと宮崎さんの作品では、『となりのトトロ』の懐かしい昭和30年代の田舎的な村とかも、いろいろな要素を寄せ集めたパッチワークであり、モダニズム的な欲望に基づいているんですね。

『となりのトトロ』は保守主義者のノスタルジーを満たすような穏やかなものがありましたけれども、「カオスな寄せ集め」が前面に出たのが『千と千尋の神隠し』で。でもそれが非常にグロテスクなのか、郷愁を誘うのかがすごくわかりにくい、というかね。ある種アジア主義的なものが行き着くところまで行き着いたような感じがするんですね。

中島:『となりのトトロ』の世界はちょっときれいすぎというか、あまりにも完結的な世界になっている気がして、僕はちょっと違和感があるんですね。けれども『魔女の宅急便』の世界観は、そういう違和感がほとんどないんです。たとえば物語の後半で、キキの魔法が使えなくなっていくじゃないですか。あれが僕はすごい好きです。

杉田:なるほど。それはちょっと中島さんらしい。

中島:彼女は魔法使いの女の子から、ああやって日常的な暮らしに降りていくわけです。『魔女の宅急便』は、子どもが大人になるにつれて、生活に着陸していくという物語。悲しさもあるけど、否定的じゃないんですね。そこがいいと思うんです。

「ふつうの人間」への愛着

杉田:それを聞いて『機動戦士ガンダム』(『ファーストガンダム』)のシャア・アズナブルのことを思い出しました。アムロとかララァという超能力をもった人物たちに対して、シャアはニュータイプによる革命を思想化して、同志になることを呼びかけるんだけど、カリスマ的な存在だったシャアが、実はニュータイプとしては大したことのない凡人だった事実がだんだん明らかになっていく。

安彦良和さんは、原作の『ファーストガンダム』を読み替えて、『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』を容赦なく描いていく。結局シャアは自分に特別な超能力がないかもしれない、という不安に追い詰められ、さらに暴走して、最終的には怨恨と復讐の心にのみ込まれてしまう。

杉田:それに対して、『魔女の宅急便』のキキは特別な魔法の力がなくなっても、現実の町の暮らしに軟着陸して、新しいコミュニティーの中に根を下ろして、ちょっと変わった女の子として生きていくみたいな、そういうところがあるのかもしれないですね。


中島岳志(なかじま たけし)/1975年大阪府生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。北海道大学大学院准教授を経て、現在は東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年『中村屋のボース』で大佛次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。著書に『ナショナリズムと宗教』『インドの時代』『パール判事』『朝日平吾の鬱屈』『秋葉原事件』『「リベラル保守」宣言』『血盟団事件』『岩波茂雄』『アジア主義』『下中彌三郎』『親鸞と日本主義』『保守と立憲』『超国家主義』『保守と大東亜戦争』ほか(撮影:編集部)

それは、もしかしたら安彦さんが『THE ORIGIN』でシャアの結末と対比して描いた、アムロの最終的な着地点にちょっと似ているかもしれない。アムロはニュータイプとか、特別なヒーローであることをだんだん捨てていって、無名な1人の青年、かけがえのない個人として、改めてこの世界で生きようとしていく。

中島:告白しておくと、僕のなかには2つの欲望がたぶんずっと拮抗しているんですね。1つは、安彦作品のロマン的な感覚にシンパシーを持っています。というのは、私もまたそのような心情を持った人間だからなんです。

一方で、ロマンでもってみんなを包み込んでしまおうとする、そういう欲望をつねに戒めていなければならない。つまり、ブレーキとしての保守思想にも強いシンパシーがありますね。

杉田:そういう分裂を自分の中に感じたのは、いつ頃のことですか。

ロマン的な感覚と保守思想が共存

中島:いつからでしょうね。なぜ両方に惹かれるんだろう、という自分でも不思議な気持ちがありました。理知的には保守に惹かれて、感情的にはロマンなほうに持っていかれる。どっちを自分の指針とするべきなのか、それに悩んだ時期もあったんですが、結局、今もそれら両方が混在というか、共存しているんです。

そういう意味で、『魔女の宅急便』は僕にとって保守の感覚なんですよ。僕なりの居心地のよさなんですよね。それに対して『千と千尋の神隠し』や、安彦さんの『虹色のトロツキー』のような作品にも魅かれている。それら2つの拮抗状態という感じでしょうか。

宮崎さんの場合、コンセプトが先立って過剰になると、映画としての魅力が落ちるという感じがします。『もののけ姫』は、正直やっぱりしんどかったですね。なんかいろいろな思想や観念を引っ張ってきて、それをくっつけているのが何か透けて見えて。

杉田:高畑勲さんの作品は、あまり見ませんか。

中島:いくつかは見ていますが、正直、あまり魅かれません。

杉田:宮崎さんの自然観というのは、人を寄せ付けない過剰な原生林みたいなのがすごく強い。自然と人工が混在して新しい生態系をつねに作り出すような。

それに対し、高畑さんは、つねに宮崎さんに対する批判的な応答をしていたんですけれど、里山的な、人間の手がちゃんとほどほどに入って、そこで自然が豊かに育っているみたいな方向が理想だった。その意味では、高畑さんのほうが保守思想のマインドに近いような気もしますけれども。

中島:きっと、そうなんですよね。しかし、なぜか高畑勲の作品には全然魅力を感じないんですよ。どうしてでしょうね。

杉田:その辺りには重要な何かがありそうですね。

中島氏の考える「保守」とは

中島:それはたぶんこういうことだと思うんです。僕の考える保守って、おそらく、「里山的なもの」からはむしろ遠いんです。やっぱりずっと大阪の真ん中で育ってきましたし、小林秀雄が言うよな「故郷を失った」人々が見いだすような保守性なんです。

少し前からはやっているような里山的なものをあんまり理想化されたりすると、それはちょっと違うな、という感じが正直ある。いや、普通に年も重ねていくと自然に囲まれてホッとする、ということはあるとは思いますが、じゃあ自分がそこに暮らしたいかというと、そういう欲望はまったくありません。 

杉田:さっきも話に出ましたけれど、中島さんの場合は、きっと過去の伝統や自然を絶対化するタイプの保守主義じゃなくって、いわば再帰的な保守思想なんでしょうね。いろいろな場所を転々としていますし、デラシネ(根無し草)というか。でも、実際にある場所に住んでみると、経験や時間が積み重なって、そこがトポス(意味のある場所)になっていく。

中島:そうなんですよ。だから、『魔女の宅急便』みたいに、たまたま降り立った町が本人にとってのトポスになっていけば、それでいい。そういう考えですね。

杉田:そう考えてみると、物語が終わったあとにキキがあの町にずうっと住み続ける必要もとくになくって、何年かしたらまた別の街に引っ越したりしながら、転々と暮らしていけばいい、新しい町や人と出会っていけばいい、という感じなんですかね。

中島:そう、僕にとってのトポスってそういう感じです。例えば僕はインドのデリーに戻っても、札幌に戻っても、等しく懐かしいと感じるんです。妻からは厚かましいって言われるんですけど。どこにいても、そこが昔からの自分の地元みたいな顔をしているから。

杉田:そうすると、高畑作品でいえば、『おもひでぽろぽろ』みたいな、美しい田舎の自然の光景とかは、ちょっとわざとらしく感じたりしますか。

中島:そうですね。あの作品は、途中で見るのをやめてしまいました。

杉田:高畑さんは『おもひでぽろぽろ』の制作前に、しかたしん(児童文学作家、劇作家)の『国境』3部作の第1部を原作として、日本による中国への侵略戦争・加害責任の問題を扱うという企画を進めていたんですね。

残された企画書によれば、それは失踪した友人の行方を尋ねて、京城(現ソウル)から旧満洲に旅立った1人の日本人少年の視点を通して、大日本帝国の植民地としての満洲国の風景や現実をアニメとして再現する、というものだったそうです。

けれども1989年の天安門事件の余波をうけて、企画そのものが流れてしまいます。高畑さんはその代わりに、塩漬け中になっていた『おもひでぽろぽろ』の制作を再開した。

高畑さんはなぜ、満洲や内モンゴルの歴史を描くプランから、日本の東北地方の有機農業を描く映画へとシフトしていったのか。この曲がり角には何があったのか。その後の高畑さんがそれまで以上に「日本的」に見える長編映画を作り続けていたことの意味も含めて、気になります。

アニメで描かれるトポス

中島:でも、『耳をすませば』はすごく好きでした。

杉田:近藤喜文さんという、若くして亡くなった方が監督した作品ですね。ただ、もとは宮崎駿の企画で、2人の関係が複雑に絡み合って作られていますけれども。


『耳をすませば』は、いわば故郷なんてもうない、カントリー・ロードなんてないんだ、という作品です。少女たちがカントリー・ロードをコンクリート・ロードというふうに替え歌にして、それが自分たちにとっての生きる場所であり、そこがこれからの自分たちが生きるトポスになっていく、という作品なんですよ。

中島:なるほどね。そのせいなのかな、僕はああいう世界観のほうがすごくしっくり来る。

杉田:他方で『耳をすませば』は、非モテたちの世界では劇薬と言われています。中学生同士が恋愛して最後に結婚しよう、と宣言する話ですから。感情を逆なでされるみたいで。まあ自虐を含めた愛情をもって楽しんでいる、という感じでもあるんですけれど。

中島:僕はジブリ作品でいうと、『耳をすませば』と『魔女の宅急便』の2つが圧倒的に好きですね。

杉田:根拠地としての故郷もすでになくて、特別な才能や能力があるわけでもない日常的な女の子たちがその土地に――人間味のない都会だろうが、コンクリートの街だろうが――根付いていくというか。

軋轢などもありつつ、人間関係をうまくつくりながら。ジブリ作品の根幹のところにある過剰さ(宗教的な超越性とか、社会革命とか、エコロジーとか)を、なんとか穏やかなところに落とし込んでいくような。これがやっぱりジブリ作品の1つの魅力になっているんでしょうね。保守主義思想から読み解くジブリ作品、というのはもっと聞いてみたいですね。

(次回につづく)