浄土真宗の僧侶・釈徹宗氏(左)と芸人・哲夫氏(ⓒ尾鷲陽介)

チクチク嫌味を言ってくる上司に、感じの悪い隣人、マウンティングしてくるママ友……。誰しも1人や2人くらい「苦手」「嫌い」と感じている人がいるのではないでしょうか。仏教マニアのお笑い芸人、笑い飯・哲夫氏によると、「人を嫌うこと」は、四苦八苦で言うところの八苦に入るほどの苦痛なのだとか。

そんな大きな苦痛とどう向き合うべきなのでしょうか。NHKをはじめ多数のテレビ番組に出演し、河合隼雄学芸賞も受賞した浄土真宗の僧侶、釈徹宗氏と、哲夫氏との往復書簡『みんな、忙しすぎませんかね?』から、嫌いな人との付き合い方を考えてみます。

108の煩悩があるから四苦八苦が生まれる

哲夫:諸行無常で考えます

高校の先生に四苦八苦のお話を教えてもらった時の衝撃は、今でも忘れることができません。幾度となくその話をパクって人にしゃべっておりますが、いつもあの時のような衝撃を与えることができております。

その先生がおっしゃったのは次のとおりです。「苦しみの原因は煩悩で、苦と煩悩は因果関係にある。煩悩は108あって、108の煩悩があるからこそ四苦八苦が生まれる。四苦八苦を読んだとおりに数字で書いてみると、4989になる。ここで、4×9、8×9と掛け算してみる。すると、36と72になる。これを足すと、108になるでしょ」。教室内に「うおお」と歓声が上がりました。

大人になって調べてみると、このおもしろい話は、お釈迦さんがおっしゃったことではないのだとわかりました。そもそもお釈迦さんは日本人ではないので、四苦八苦をシクハックとは発音されていませんよね。でも、おもしろいからこの話は後世に伝えていきたいと思っています。

またその先生は、四苦とは生、老、病、死だと教えてくださいました。そして大人になっていろいろ調べてみると、八苦とは、四苦に愛別離苦(あいりべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐぶとっく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)の4つを加えたものを指すのだと知りました。

やっぱり若いときに教えてもらったことが興味深いことであれば、それがきっかけとなっていろいろ深追いしたくなるわけですから、子どもたちにおもしろい話を教えてあげるのって大切ですよね。

嫌いな人に会うのは、なかなか強い苦しみ

さて、八苦の中の怨憎会苦とは、大まかに説明しますと、嫌いな人や物に会ってしまう苦しみのことです。大きな8つの苦しみの中に、嫌いな人に会うことがノミネートされているのです。高校野球でいえば甲子園の準々決勝まで残った高校に匹敵する「苦」なわけですから、嫌いな人に会うのは、なかなか強い苦しみということになります。

確かに生活を営んでおりますと、いろんな場面で嫌な人に遭遇しますよね。バイトの先輩にいびられ、その人を嫌い、それでも会わなければならない日々もありました。着てる服からは半乾きの悪臭を放出し、両脇からは目の痛くなる尖った刺激臭を発散させ、なおかつ口から腐臭を噴出させる人と話さなければならなかった時間もありました。電車の中でじろじろ見てくるやつに会ったこともありました。

ただ、バイトの先輩はやがていいおじさんになり、楽しくおしゃべりができるようになりました。臭い人はメンテナンスを始めてそこまで臭くなくなり、清々しく呼吸をしながらおしゃべりできるようになりました。じろじろ見てくるやつは、見てくれなくなりました。つまり、嫌な人って一時的なものなんですよね。これこそ諸行無常ですよね。

だから、いつも人を嫌いになった時には自分に言い聞かせています。言い聞かせている文言は次のとおりです。「この人のことめちゃめちゃ嫌いやけど今だけやし」。

このように、諸行無常を自身の観念に少し取り入れることによって、だいぶ生きやすくなると思っています。財布を失ったときも、諸行無常をしがむことによって、かなり楽になりました。ただ、はかないことを大前提とする教えですから、捉え方によっては誤解を招くかもしれません。

悪く生きようと思ってる人が諸行無常の感覚を取り入れると、どうせこの便所の戸もはかないものなんだから、いつかは壊れるわけだし、今ここでパンチして壊しても構わないだろう、となるかもしれません。それはいけませんよね。それが、よく生きようとしてる人なら、この便所の戸は大切なものだから本当に機能しなくなる最後の瞬間まで大事に使おう、となりますよね。

しかし、よく生きようとしてる人でもめちゃめちゃ漏れそうで、やっと駆け込んだ便所の戸が閉まっていて、いくらノックしても返答がなく、いよいよ門の辺りに顔を覗かせるかという苦痛に迫られたときは、戸を壊すかもしれません。

結局はみんないい人になってしまう

だから、いつでも漏れそうなんだと思って、その時に自分はどういう行動に出るかと予想して、そのうえで反省するのがよりよい反省なのかなと考えています。結果的に想像上の自分はいつも悪人になるんですよね。

対人もそうで、自分が究極の苦痛に見舞われたときに、横にいる嫌いな人はどんな行動に出るのかと予想して接するのがいいと思っています。大概の嫌いな人は、想像上でちゃんと助けてくれるんですよね。結局はみんないい人になってしまうわけです。自分は悪人なのにですよ。これが、想像するだけで嫌いな人にちょっと優しくなれるイメトレだと考えています。

釈:精神的に離れましょう

このお題は、まさに「怨憎会苦」の問題ですねえ。哲夫さんの言うとおり、八苦の中の1つです。八苦に代表されるような根源的な苦は、生きている限り必ず出会うものなのです。怨憎会苦も避けられません。自分の好きな人ばかりに囲まれて一生を送る人はいません。大なり小なり、誰もが好きでもない人と付き合いながら暮らしています。

好きになれない人との付き合いですが、例えば『論語』に「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」(子路第十三)という言葉があります。「立派な人は、周囲との和を保ちながら、けっして付和雷同はしない。器の小さな人は、付和雷同しながら、周囲との和が保てない」といった意味です。

「和して同ぜず」とは、なかなか味わい深い言葉ですね。安易に同調はしないし、意見も言うし、議論もするけど、争いはしません、協働していきます、そんな内容の言葉です。儒教というのは社会実践について深い思想をもっていますので、こういう視点の言葉が多くておもしろいです。

さて、仏教はどのように説くのでしょうか。中世の念仏者・親鸞聖人は、生きる方向性が異なる人からは、「つつしんで遠ざかれ」と説いています。同じ方向を向いて生きる人と歩みをともにするのは、私たちにとって大きな喜びです。しかし、向いている方向が違う人もいます。そういう人からは「離れろ」ということです。離れるのが仏教の基本的態度となります。

まあ、「離れたくても、同じ職場なんだからどうしようもないよ」という人もいるでしょうが、そこは精神的に離れるように工夫してみましょう。哲夫さんの手法である、「この人のことめちゃめちゃ嫌いやけど、今だけやし」「そのうち腹立たんようになるんやし」とやり過ごしています、といった態度はかなり参考になると思います。堪忍(耐え忍ぶ、他者を許す)の実践を心がけましょう。

所詮独りと理解すれば誰とでも付き合える

最初期の仏典『スッタニパータ』には、「四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦難に堪えて、恐れることなく、サイの角のようにただ独り歩め」とあります。私、この言葉、好きなんです。つらく苦しいとき、この言葉を口にすると、ふつふつと体の奥底からわき上がってくるものがあります。

インドでは、2つの比喩に"牛の角"を使い、1つの比喩に"サイの角"を使うことがあるようです。アフリカのサイとは違って、インドのサイは角が1つですからね。仏教はとてもクールな宗教ですので、「つきつめれば、人は独りで生きて、独りで死んでいかねばならない」ことを強調します。このことを本当にしっかりと自覚することができれば、むしろイヤな人や嫌いな人ともつき合えるわけです。だって、所詮独りだ、と理解しているのですから。


この理解のうえで、おつき合いするのです。ということは、好きな人とおつき合いする時も同じになってきます。どれほど好きな人がいても、"つきつめれば独り"なんですね。「愛別離苦」です。これも避けることができません。

また、さらに哲夫さんは「この便所の戸は大切なものだから、本当に機能しなくなる最後の瞬間まで大事に使おう、となりますよね」とも書いておられます。そのとおりです。独りで生きる覚悟というのは、自我を肥大させて、自分勝手に生きろということではありません。逆です。とてもはかない人間関係だからこそ、みんなで大切に扱わなければならないのです。すべての存在も現象も、刻々と流れていきます。だからこそ自ら手を添えてケアするのです。