鉄砲、怖い…。相模の獅子と呼ばれ恐れられていた北条氏康、実はめちゃ臆病者だった

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北条氏康(ほうじょう うじやす)と言えば、甲斐の虎である武田信玄や越後の龍と呼ばれた上杉謙信と渡り合った関東を代表する戦国武将です。後北条氏の中興の祖として活躍したことから「相模の獅子」と呼ばれ、恐れられてきました。

しかし、意外なことに幼少期の氏康はかなりの臆病者でした。今回は氏康が臆病者を克服し、関東を代表する戦国武将として生まれ変わったエピソードをご紹介します。

北条氏康像/Wikipediaより

鉄砲が怖い…それくらい氏康は臆病だった!

永正12年(1515)に生まれた氏康は幼少期には伊豆千代丸と呼ばれていました。父には「勝って兜の緒を締めよ」の語源となった5か条の訓戒で有名な北条氏綱。

北条氏綱像/Wikipediaより

祖父には最初の戦国大名として後北条氏を興した北条早雲だったので、伊豆千代丸は家臣たちから将来を有望視されていました。

北条早雲画像/Wikipediaより

そんな家臣たちを裏切るように伊豆千代丸はかなりの臆病者であり、12歳の時にとある事件が起きます。

その時は小田原に伝来した鉄砲を上手に扱えるよう家臣たちが練習をしており、伊豆千代丸はそれを見学していました。しかし、鉄砲の放つ轟音によって伊豆千代丸は気を失ってしまいました。

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目が覚めた伊豆千代丸は家臣の前で醜態をさらしたことを憤り、自害しようとします。

その時、伊豆千代丸のお世話係だった清水吉正が「初めて見るものに驚くのは当然のことなので、恥ではありません。何事も事前の心構えが重要なのです。」と諭されます。

この言葉によって伊豆千代丸は常に心構えを持ち、堂々と振る舞うようになりました。

顔に刻んだ傷は誇りとなった

程なくして伊豆千代丸は氏康と名を改めます。やがて氏綱から家督を継いで、後北条家の3代目当主となる頃には逞しい武将へと成長していました。

家督を継いだ氏康は今川義元、武田信玄、上杉謙信といった関東を代表する戦国武将たちと領土争いに明け暮れます。生涯を通して36回の戦では決して背を見せることなく戦ったそうです。

もちろん氏康の受けた傷は全て前面にあり、特に顔に受けた2ヵ所の傷は「氏康の向疵(むこうきず)」と称されるようになりました。

臆病者こそ真の勇士なり!

日本には「世に恐ろしいのは勇者ではなく、臆病者だ」という名言があります。これは徳川家康が残したもので言葉の通り、臆病者が一番恐ろしいことを家康は言っています。

臆病者ほど失敗しないように色々と考えるもので、元来臆病者だった氏康は戦に勝つために試行錯誤したことでしょう。

常に心構えを持って敵と対峙してきたからこそ、氏康は信玄や謙信たちの強豪ひしめく関東の地で盤石な地盤を築けたのだと思います。