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「メンタルヘルス・スラング」とは何か

コミュ障、メンヘラ、アスペ、プチうつ…聞きなじみがある言葉も、初めて目にした言葉もあるかもしれない。これらはいずれも、厳密な意味での医療用語ではないものの、その出自自体は、メンタルヘルス産業の現場などで用いられてきた言葉だ。

これらの表現は日常生活においても、若者を中心に流行語的に用いられており、ある人が第三者を指して「あいつはコミュ障だ」などと言う場面に出くわすことがある。しかし注目すべきは、少なくない人が、「自分はコミュ障だから…」、「私、メンヘラだけど…」というように、自らについて説明するためにこれらの表現を用いている点だ――こうした用法は、特にtwitterなどSNS上で多く見られる。

もしかしたら、この文章を読んでいる方のなかにも、「コミュ障」や「メンヘラ」、「アスペ」などの言葉を使って自分自身を捉えたり、こうした言葉で自己紹介をしたことがある人がいるかもしれない。

しかし、「コミュ障」にしても「メンヘラ」にしても、決してポジティブには捉え難い言葉ではなかったか。いずれも「コミュニケーションに苦手意識がある」ことや、「対人関係でトラブルを持ちやすい」ことを示す言葉だ。なぜ敢えて、こうした「メンタルヘルス・スラング」――精神疾患や精神障害、メンタルヘルスに由来し、流行語的に用いられている言葉――を使って自己認識したり、自己紹介したりするのだろうか。

以下では、「メンタルヘルス・スラング」が若者の間で実際にどれほど使用されているのか、そして、どれほどの若者が、どのような理由でメンタルヘルス・スラングを用いて自己認識・自己紹介しているのか――つまり、「自称コミュ障」「自称メンヘラ」であるのか――についての調査を紹介する。その上で、コミュ障やメンヘラを自称することが抱える危うさを考えてみたい。

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6割が「メンヘラ・コミュ障」の自称経験アリ

実際、どれほどの若者がメンタルヘルス・スラングを見聞きし、実際に使っているのか――。筆者が2016年に、ある女子大学の学生を対象に調査したところによると(分析対象者:455名、回収率42.1%)、対象者のうちほぼ全員(98.0%)が「コミュ障」という用語を、90.8%が「メンヘラ」という用語を見聞きしたことがあると回答していた1。

また、以上のような表現を「実際に使ったことがある」と回答した学生は全体の7割を超え、「自称することがある」と回答した学生も全体の6割近くに上った。彼女たちはメンタルヘルスに関する事柄に関心があったからでもなく、精神的不調経験があったからでもなく、本当に満遍なく広く、メンタルヘルス・スラングを用い、且つ自称していた。

果たしてこのような使い方がされるとき、本人はどのような意図でそう説明しているのか。そう自称することにどれだけの必然性がありうるのだろうか。

注意が必要なのは、メンタルヘルスに関わる用語は繊細な取り扱いが必要だということだ。目に見えにくい障害は、自覚することが難しい。精神疾患や精神障害はその最たる例である。実際には診断名が付くような状態であっても、病識を持つに至らないまま、自分のありように違和感を持ち一人苦しみ悩み、問題が悪化してしまうこともある。

だからこそ、そうした違和感に「名前を与える」ことは大切であり、それゆえメンタルヘルス・リテラシーを持つことはとても重要だ。問題の渦中にある人が、自分自身の直面している問題や困りごとは「どうやら“名前”がつくものらしい」と知ることは、本人に安堵をもたらすともいう2。

しかし他方で、後述するように、メンタルヘルス・スラングを用いて自己規定することがむしろ自分を苦しめることにつながる可能性もある。だからこそ繊細な取り扱いが必要なのだ。

メンタルヘルス・スラングと一言で言っても、その言葉で自分自身を名乗るまでにどのような経緯があったか、その言葉にどのような思い入れを持っていたか、ということは、よくよく吟味しなければならない論点の一つである。

そうした前提の上で、筆者は、メンタルヘルス・スラングを使って自分自身について捉えようとすることが、その本人にどのような影響を与える「傾向を持つ」のか、という点に関心を持って調査を行った。そこから見えたのは、メンタルヘルス・スラングを自称することが、ときにその人の物事に対するチャレンジングな姿勢を損なうことがある可能性だ。

SOC=「首尾一貫性」とは何か

物事に対するチャレンジングな姿勢。筆者はそれをSense of Coherence(首尾一貫感覚;SOC)と呼ばれる概念を用いて測定している。SOCとは、ホロコーストという悲惨な環境下に置かれながらも、精神的な健康度を保って暮らす女性たちの姿に衝撃を受けたアーロン・アントノフスキー博士によって、1970年代に提唱された概念だ3。

「過酷な経験をしていながらも、精神的な健康を、なぜ保ちつづけることができるのか」という問いは、当時の「疾病発生」の因果理解、つまり「なぜ疾病が発生するのか」という理解に、根本的な問い直しを迫るものでもあった。

ふつう、疾病というものは、「リスクファクター」(ウイルスやストレスなど外部からの脅威をイメージしてほしい)があって生じると考えられている。「疾病生成論」と呼ばれる考え方は、この前提に立つので、リスクファクターの除去・緩和に努めることを重視する。

しかし、アントノフスキー博士が見た現実は、リスクファクターにもなりうる過大なストレッサーを前にしながらも、健康でありつづける人々の姿であった。人の健康は、リスクに注目した疾病生成論のみで捉えることができない、それとは逆に、人をより健康なありようへと向かわせる「健康生成要因」があるのではないか--そんな気づきから生まれたのがSOCである(こうした考え方を「健康生成論」と呼ぶ)。

SOCは、3つの構成要素から成っている。ストレッサーがどのようなものかといった事態を見極める能力を指す「把握可能感」、その問題に対して自分自身が対処していくことが可能かを見極める「処理可能感」、最後に問題に対処していくこと自体にやりがいや意味を見いだす力を示す「有意味感」だ。

ここでいう問題対処とは、決して自力での問題解決だけを意味しない。周囲の人の助けを借りたり、お金を使ってもよい。これまで学んできた知識や経験--この問題対処を支えるような、周囲にあるあらゆる資源のことをアントノフスキー博士は「汎抵抗資源(Generalized Resistance Resources; RGGS)」と呼んだ--をうまく動員させながら問題に対処することを指す。

すなわち、SOCとは、周囲の資源をうまく利用しながら、問題を把握し、対処可能性を見いだし、そのプロセスに意義を見いだしながら取り組む力とみなすことができる。SOCがストレス対処能力と称されるのも、SOCが以上のように構成されているとみなされたことによる。

加えてSOCの考え方で重要な点は、SOC概念が「ストレッサーは、生きていく上であって当然のもの」という認識を前提にしていたということだ。「疾病生成論」の立場では、リスクファクターにもなりうるストレッサーは「排除すべきもの」に他ならない。しかし「健康生成論」においては、ストレッサーが存在するのは前提で、その対処経験を積んでいくからこそSOCが育っていく、と考えるのだ。

「自称メンヘラ」の落とし穴

では、調査の結果を見ていこう。2016年に実施したメンタルヘルス・スラングの使用とSOCの関連性を測るための量的調査からは、メンタルヘルス・スラングを使って自身を捉えたり、それを自称する経験がある者のSOC平均得点は、対照群と比較して有意に低い、という結果が示された4。

つまり、メンタルヘルス・スラングで自称する者のほうが、事態を把握し、対処可能性を見いだし、そのプロセスに意義を見いだしながら問題に取り組む力が低いという結果だ。さらに、精神的不調経験の影響、現在のストレスの有無の影響を取り除いても、メンタルヘルス・スラングを使って何らかの形で自称している者のSOC得点は対照群よりも低かったのである。

実は、今回の調査はある一時点の状況を把握することを目的とした横断調査として位置づけられ、実際の因果関係を明らかにするものではない。言い換えれば、確かに「メンタルヘルス・スラングの使用とSOC得点の低さには関連がある」のだが、「メンタルヘルス・スラングを用いるからSOCが低くなる」のか、「SOCが低いからメンタルヘルス・スラングを用いる」のか、については明確に何かを指摘することができたわけではない。

しかし、筆者は「メンタルヘルス・スラングを使用すること」と「SOCが低くなること」は、相互に作用しあう悪循環の関係性があるのではないか、と考えている。

調査結果から言えることは、メンタルヘルス・スラングを使って自称する者のSOC得点は低い、ということであった。つまり、「自称メンヘラ」の人々は、対照群と比べて「問題を把握し、対処可能性を見いだし、そのプロセスに意義を見いだしながら取り組む力が低い」ということになる。換言すれば、「問題から目を逸らし、対処可能性を見いだすことに至らない/至りにくい」ともいえる。

「メンヘラ自称」と「嗜癖」の近さ

実はこの発想には、「嗜癖/アディクション」の議論と通じる側面がある。どういうことか。嗜癖/アディクションとして知られる問題行動の中には、自傷やアルコール依存、薬物依存があるが、こうした行動に至る背景として、しばしば当人が受けている大きなストレスの存在が挙げられている。

本来であれば、ストレッサーに対して建設的に対処すべきところを、あまりにも過大なストレッサーを前に、そして絶望的に孤立した状況を理由に、「その場しのぎ」的に自傷行為に至ったり、お酒を飲んだり、薬物を使用してしまうことがあるという。苦痛や困難を、簡便に、かつ一時的に解消することができるので、飲酒や薬物使用などの問題行動は繰り返される。

しかしそれが習慣化すると、本来の原因であった自らの問題や苦痛を自覚することができなくなっていき、結果的に苦痛に無自覚なまま嗜癖へと至ってしまう5。

メンタルヘルス・スラングも、嗜癖と限りなく近いメカニズムを持っているとはいえないか。ストレッサーを見極め対処を試みるよりも、メンタルヘルス・スラングを使って自称することは、簡便に、困難に陥った状況を説明できてしまう(ような錯覚をもたらす)。

メンタルヘルス・スラングの自称は、現在の自分が「本来あるべき姿」と異なっていても、それは「仕方のないこと」として正当化できてしまうという機能を持つ。それゆえ、大きな困難を前に、口癖のようにメンタルヘルス・スラングで自称することにもなりかねないのである。

経験が言葉に回収されてしまう

メンタルヘルス・スラングで自称することは、一見、自身の問題を積極的に捉えようとする姿勢にも映るかもしれない。確かに、もしメンタルヘルス・スラングが、自身の問題と真摯に向き合った末に自称され、用いられていれば、それは大変建設的な行為ともいえるかもしれない。しかし、そうとも見なしきれない。なぜか。

それは、あまりにも広く、メンタルヘルス・スラングが流行語的に定着しているがゆえに、その言葉が人々の体験と行為をその人も気づかぬうちに型にはめてしまう物語(ドミナント・ストーリー)として機能している可能性があるためだ6。

「コミュ障」にしても「メンヘラ」にしても、その言葉が生まれた背景や厳密な意味を知らないのに、簡単に他称・自称することができてしまう。それは、それぞれの言葉に一定のイメージがあり、他人や自分自身をそのイメージにはめて説明している状況、とはいえないか。

自分自身の独自の経験や感じたことを重視するというよりも、強烈なインパクトのある定型的なストーリーを含み持つメンタルヘルス・スラングに引き寄せられ、むしろ個人の経験がその言葉に回収されていってしまう――。定型的なストーリーには吸引力がある。独自の経験を簡単にそれらしきものとして説明できてしまうのだ。

メンタルヘルス・スラングは、厳密な意味の共有がされずとも、 「なんとなく」言いたいことのイメージを共有することのできる便利な言葉なのかもしれない。しかしここまで見てきた通り、流行語であるがゆえに簡便に自称に用いられ、結果的にストレッサーに向き合う機会を逸し、ストレス対処経験そのものが得られないまま、SOCは育まれない、という悪循環が起きている可能性がある。

メンタルヘルス・スラングがどのような思い入れを持って用いられ、どのように使われているかは、多様であるので、これらの用語を使うことを一概に非難することはできない。その本人にとって、メンタルヘルス・スラングが自分の困難や苦痛を一番表現しやすいのであれば、その言葉を奪うことは本末転倒になりかねない。

ここでは言葉狩りをしたいわけでは決してない。重要なことは、こうした言葉をめぐる啓発活動の在り方を考えることと、問題に直面した人が、少しでもその問題に向き合ってみようと意欲を持つことができ、困難を乗り越え、成長していくことができるような社会資源の調整や環境の整備を目指していくことではないだろうか。

*1 「"メンタルヘルス・スラング"を定義する―都内女子大生を対象とした横断研究より ―」『津田塾大学紀要』49 号(2017 年 3 月)197-216 頁。
*2 松崎良美「女子大学生における “メンタルヘルス・スラング” の使用―健康生成論の発想からの考察―」『総合人間学』13(2019年6月)131-144頁。
*3 アーロン・アントノフスキー著, 山崎喜比古・吉井清子監訳『健康の謎を解く―ストレス対処と健康保持のメカニズム』有信堂高文社, 2001年
*4 松崎良美「女子大学生の“メンタルヘルス・スラング”使用と首尾一貫感覚(SOC)」津田塾大学大学院国際関係学研究科, 博士論文, 2018年
*5 松本俊彦『自傷行為の理解と援助 「故意に自分の健康を害する」若者たち」日本評論社, 2009, 83頁。
*6 野口裕二『物語としてのケア ナラティヴ・アプローチの世界へ』医学書院, 2002年。