「安保法制違憲論」で一躍有名になり、現在は二つの憲法系学会の長を兼任する長谷部恭男・東大名誉教授。だが国際政治学者の篠田英朗・東京外国語大学教授は、「長谷部氏のいう立憲主義は日本国憲法の精神の対極に位置するものであり、むしろ権威主義といったほうがいい」と主張する--。

※本稿は篠田英朗『憲法学の病』新潮新書の一部を編集部で抜粋・再編集したものです。

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2015年6月4日、衆院憲法審査会で参考人として意見を陳述する早大法学学術院の長谷部恭男教授(中央)。 - 写真=時事通信フォト

■「自衛隊は合憲、集団自衛権は違憲」の根拠とは

長谷部恭男・東大名誉教授は、2015年に衆議院憲法審査会で「安保法制は違憲だ」という意見を述べて有名になった憲法学者である。憲法調査会を取り仕切っていた自民党の船田元議員は、長谷部教授が特定秘密保護法案などに賛成してくれていたので油断した、などと述懐した。しかし長谷部教授は、長きにわたり、集団的自衛権を違憲と論じる者であった。

長谷部教授は、『憲法と平和を問いなおす』(2004年)で、護憲派の立場を維持しつつ、自衛隊合憲論を打ち出した。東大法学部憲法学のエース・長谷部教授の自衛隊合憲説は、当時の憲法学に衝撃を与えた。しかし、今日、憲法学者が口をそろえて「自衛隊は昔から合憲なので改憲の必要はない」という立場で、「アベ政治を許さない」ために大同団結できるのは、長谷部教授が打った布石のおかげだ。

「安保法制は違憲だ」という発言で、俗にいう長谷部教授の「失地回復」が果たされた。発言後、長谷部教授は、2015年10月に全国憲法研究会代表に就任し、さらに2016年10月には日本公法学会理事長にも就任して、憲法学者が集う二つの学会の長を同時に務めるようになった。長谷部教授が自信満々で「国民には、法律家共同体のコンセンサスを受け入れるか受け入れないか、二者択一してもらうしかないのです」と述べるようになったのは(注1)、憲法学界の権威を信じる者にとっては、裏付けのない行動ではない。

このような背景を持つ長谷部教授の集団的自衛権の違憲論は、長谷部教授の愛する「立憲主義」によって、どのようにして説明されるのか。「立憲主義」の概念をかかげて憲法の平和主義を説明したことによって、国政にも甚大な影響を与えた長谷部教授は、果たしてどのように「立憲主義」を駆使して、自衛隊は合憲だが、集団的自衛権は違憲だ、と論証したのか。

全く不明である。なぜなら、長谷部教授は、立憲主義と集団的自衛権を、結び付けていないからである。

■憲法解釈は憲法学者に委ねよ?

長谷部教授は、「日本の憲法学者は、法律学者が通常そうであるように、必ずしも、つねに剛直な法実証主義者として法文の一字一句に忠実な解釈を行うわけではない」などと主張した。そのうえで憲法の「解釈適用は、最後は専門の法律家の手に委ねられる」と平気で主張した(注2)。つまり、長谷部教授好みの「穏健な平和主義」が正しいのは、文言解釈にはとらわれない憲法学者の解釈に憲法解釈を委ねることが、憲法学者が信じる最も正しい憲法解釈の方法だからである。こうした主張をへて、長谷部教授は、自衛隊の合憲性を導き出そうとした。

それでは集団的自衛権はどうか。実は、長谷部教授は、立憲主義の観点からは、集団的自衛権の違憲性を、全く説明しない。集団的自衛権違憲論は、長谷部教授の「立憲主義」とは、実は、関係がない。

長谷部教授によれば、立憲主義は、「公」と「私」を区分し、「公」が「私」に介入しないようにすることから、生まれる。価値規範が多様なリベラル・デモクラシー=立憲主義体制においては、「私」の意見の内容を、「公」が決めることができない。そこで「公」による「私」の領域への介入を不当なものとして禁止するのが、長谷部教授が説明する立憲主義の本質である。「公」が担当するのは、社会を維持するのに必要な「調整」問題だとされる。

「立憲主義は、大雑把にいえば、憲法を通じて国家を設立すると同時に、その権限を限定するという考え方です。限定することがなぜ必要かと言えば、多様な世界観を抱く人々の公平な共存を可能にするために、公私を区分し、国家の活動領域を公のことがらに限定するためだと言うことができます」(注3)

長谷部教授は、絶対平和主義にもとづく自衛隊違憲論を排する。なぜなら、絶対平和主義が一つの特定の価値観を他人に押し付ける行為だからだという。そこで「私」の領域の多様性を守るために、最低限の自衛権の行使が認められる。これが、長谷部教授が説く立憲主義的な平和主義であり、護憲派の自衛隊合憲論である。

だが、そこからどうやって集団的自衛権の違憲性が導き出されるのか? 集団的自衛権を合憲と考えると、「公」による「私」の侵食が生まれ、立憲主義が崩されるということになるのか?

■英米法に連なる日本国憲法をドイツ国法学で解釈

長谷部教授は、立憲主義を駆使して、集団的自衛権の違憲性を説明することはしない。むしろ突然、国家の「合理的な自己拘束」が集団的自衛権違憲論である、と話を変えてしまう。そして一度自らを拘束する規則を作ったのだから、それを守っていかなければならない、という「法的安定性」に話を持っていく。「アイスクリームを食べる権利は誰にもあるが、自分は健康のことを考えて食べないことにするというのが背理でないのと同様に」、集団的自衛権は、「合理的な自己拘束」として、違憲だという。

そして「いったん有権解釈によって設定された基準については、憲法の文言には格別の根拠がないとしても、なおそれを守るべき理由がある。いったん譲歩を始めると、そもそも憲法の文言に格別の根拠がない以上、踏みとどまるべき適切な地点はどこにもない」という理由で、集団的自衛権も違憲にしておかざるをえないのだと主張する(注4)。

この長谷部教授の議論は、少なくとも「公」と「私」の区分による長谷部教授自身の「立憲主義」とは、全く関係がない。

国家が自らを自己拘束する、というのは、まったく19世紀ドイツ国法学的な観念論である。実際の言説は、せいぜい内閣法制局の役人によって書かれたものにすぎない。いちいち国家が自己拘束しているなどと大げさなことを言う観念論は、あたかも何か実質的なことを語っているかのような印象だけを作り出そうとするものだ。

「国家は仮想の人格であり、人為的構成物である。生身の個人とは異なり、仮想の人格は自己保存への権利を持たない」としたら(注5)、なぜその人工構成物が自己拘束などをすることができるのか? なぜ『憲法と平和を問いなおす』は、150頁以降に「立憲主義」が登場しなくなってしまうのか?

長谷部教授は、あるときは「国内的類推(国家を擬人化して国際社会を捉える発想)」を拒絶しながら、集団的自衛権は違憲だと主張するときだけは密かに「国内的類推」をしのびこませている。それは「国内的類推」のダブル・スタンダードであり、そもそも「立憲主義」のダブル・スタンダードである(注6)。

■「法律家共同体」の根拠なき特権化

長谷部教授は、立憲主義について二つの異なる観念を持っている。一つは、「公」と「私」の区分という一般的原理にもとづく「立憲主義」である。もう一つは、(内閣法制局と憲法学者からなる)「法律家共同体」が決めたことは「法的安定性」のために変更してはならない、という「権威主義」と言い換えるべき「立憲主義のようなもの」である。この第二の立憲主義あるいは立憲主義のようなものが、「政府を制限するのが立憲主義だ」といった野党受け・団塊の世代受けするスローガンで脚色されたりするので、いっそう混乱が広がる。

集団的自衛権は違憲だという見解を内閣法制局が正式に表明したのは、1972年である。団塊の世代が学生運動を起こし、成人した時期の直後だ。団塊の世代の弟のような1956年生まれの長谷部教授が属する世代からすれば、10代後半からずっと、集団的自衛権は違憲だった、ということにはなる。

しかし、ただ、それだけのことだ。団塊の世代を中心に法律概念を組み立てることには、「さしたる合理的理由がない」。むしろ冷戦体制が終焉すれば、見直しが必至となるのが、当然だったのである。

■現代憲法学の底流にある「アメリカ不信」

さらに言えば、結局、憲法学において最も重要なのは、アメリカに対する不信である。アメリカを信用しないからこそ、長谷部教授は、最後の最後には、他の護憲派の人々と大同団結できる。

「自国の安全が脅かされているとさしたる根拠もないのに言い張る外国の後を犬のようについて行って、とんでもない事態に巻き込まれないように、あらかじめ集団的自衛権を憲法で否定しておくというのは、合理的自己拘束」(注7)だ、という長谷部教授の説明は、集団的自衛権の法理が予定しているわけではない状況を、日本が常に直面する状況であると言い替えてしまう説明である。政策的分析・判断で対応すべき状況を、集団的自衛権の違憲性それ自体の根拠として主張してしまう操作的な議論である。

自衛隊を合憲とし、相対主義的法律観を徹底しながら、それでも長谷部教授が、集団的自衛権はそれ自体として違憲だ、と断定できるのは、同盟国アメリカが日本を騙(だま)す悪い国だということが判断基準として確立されているからである。もし、アメリカがそれほど悪い国ではなかったら、万が一、ほんの時折でも、アメリカが合法的で正当な国である可能性があったら、長谷部教授の集団的自衛権違憲論は、説得力を失う。

はっきり言えば、このような長谷部教授の議論は、アメリカを中心とする第2次世界大戦戦勝国=国連加盟国=平和愛好国を「信頼」して、自国の「安全と生存を保持」する「決意」を表明した日本国憲法の精神の対極に位置するものだ。少なくとも反憲法典的であり、言葉の素直な意味で、立憲主義的でない。さらに言えば、「国家の自己拘束」なる観念論を語り、日本国憲法典の国民と政府の間の「厳粛な信託」を語らないのは、全く立憲主義的でない。

■「憲法学者であるか否か」で人々を二分

そもそも長谷部教授の「立憲主義のようなもの」、つまり「法律家共同体」が「法的安定性」の守護神であることが至高の合理性を持っており、「法律家共同体」は絶対に否定されてはならない、という信念は、立憲主義というよりもむしろ、単なる権威主義に近い立場だろう。

実際、憲法学界の「隊長」と称される長谷部教授の著作では、徹底した他者否定と自己肯定が繰り返される。際立つのは、他者と自己を区別する基準が、「憲法学者であるか否か」という点にあることだ。世界は二つの種類の人々に二分される。憲法学者と、憲法学者ではない人々だ。

通常、長谷部教授は、自分が批判する相手の議論を引用したり、具体的に参照したりもしない。ただ侮蔑する。「不思議な議論がここ数年つづいているので、まともに法律を研究している人たちや、憲法学者たちはみんな、まじめに耳を傾けるべき話なのか、正直なところ、とまどっているわけです」(注8)。

長谷部教授の議論にはおなじみのレトリックである。こういう場合、長谷部教授は、なぜそう言えるのかを、説明しない。具体的な議論に引き込まれる余地を作ることも避ける。ただ、一方的に高みに立とうとする。

長谷部教授は、憲法学者を、憲法学者であるという理由で、称賛する。わざとらしく引用という形をとった、もったいぶった言い方で、長谷部教授は、次のように言う。

「(シモン・サルブランさんによれば、)日本において憲法学者というのは、ほかの国にはない知的指導者としての位置を占めている、これはなかなかないことである。典型は樋口陽一である……。そうかもしれないと思うのは、イギリスにしてもアメリカにしても、ほかの国では、厳密な意味での憲法問題についてしか、憲法学者の意見が求められることはないということです。その点、日本は少しちがいます。厳密な意味での憲法問題でなくても、憲法学者はどう考えているのか意見を聞かれることがある。そこは他国と少しちがう、日本の特殊なところかもしれません。ですから、憲法のきらいな人からみると、憲法学者がいばりすぎだ、口を出しすぎだ、と頭にくることがあるのかもしれない。もっとも、自分だって目立ちたいのに、というただの嫉妬心からかもしれませんが」(注9)

長谷部教授によれば、憲法学者が憲法以外のことを語るのは、憲法学者が「知的指導者」だからである。他方、憲法学者ではない者が憲法について語るのは、憲法学者に「嫉妬」しているからである。

この徹底した憲法学者絶対主義を肯定するために、長谷部教授は、驚くべき主張をする。憲法学者だけがなぜ「知的指導者」なのかと言えば、それは憲法学者だけが「良識」を持っているからだというのである。

■ガラパゴスという言葉では足りない

たとえば憲法9条2項の「戦力」禁止規定で、自衛隊の保持は認められないのか、と疑問に感じる時が、「法の解釈が求められる典型的な場面」、つまり専門家としての憲法学者の専門性が問われる場面だ、と長谷部教授は主張する。そこで憲法学者は何をするのか? 「良識」を働かせるのだという。日本が攻撃されても政府が何もしないのは「非常識なこと」である。「あまりにも良識に反します」。そこで憲法9条2項にかかわらず、自衛隊は合憲になるのだという(注10)。

篠田英朗『憲法学の病』(新潮新書)

ということは、憲法学者ではない普通の人々が誰でも「良識」を働かせて、同じ結論に至るということなのか、と思うと、そうではない。なぜなら「良識」にもとづいた「法の解釈」ができるのは、長谷部教授のような憲法学者だけだというのだから。

なぜ憲法学者だけが「良識」を知っているのか? と聞くのは、野暮(やぼ)である。憲法学者だけが「良識」を持っているという確信こそが、「良識」そのものなのであり、そのように信じない者は、つまり「良識」がない者なのである。

日本の憲法学は、まさに世界で唯一の、他に一切類例のない、ものすごく特別なものである。あるいは「ガラパゴス」などという言葉では、まだ足りないかもしれない(注11)。

(注1)『朝日新聞』2015年11月29日朝刊、3面。
(注2)長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、142、173〜174頁。
(注3)長谷部恭男『法とは何か──法思想史入門』(増補新版)(河出書房新社、2015年)、101頁。
(注4)長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』、162、163、173頁。
(注5)長谷部『憲法と平和を問いなおす』、157頁。
(注6)「国内的類推」の陥穽については、篠田英朗「『国際法学の国内モデル思考』批判の射程:その可能性と限界」中川淳司・寺谷広司(編)『大沼保昭先生記念論文集:国際法学の地平──歴史、理論、実証』(東信堂、2008年)所収、などを参照。
(注7)長谷部『憲法と平和を問いなおす』、162頁。
(注8)長谷部恭男『憲法の良識──「国のかたち」を壊さない仕組み』(朝日新書、2018年)、25頁。
(注9)長谷部『憲法の良識』、198〜199頁。
(注10)同上、35頁。
(注11)ところで私が『ほんとうの憲法』を公刊し、9条1項の「戦争(war)」放棄を国際法に沿って解釈し、9条2項の「戦力(war potential)」不保持や「交戦権」否認も国際法に沿って整合性のある形で解釈すべきだ、と主張したのは、2017年7月のことであった。なぜか長谷部教授は、その後、「war potential」といった概念や、国際法を参照した憲法9条解釈を強調している。2017年10月のウェブサイト記事において、長谷部教授は、それまで見られなかった9条解釈を披露した。「戦力ということばは、いろいろに理解できることばである。歴代の政府は、このことばを『戦争遂行能力』として理解してきた。war potentialという条文の英訳(総司令部の用意した草案でも同じ)に対応する理解である。9条1項は、明示的に『戦争』と『武力の行使』を区別している。『戦争遂行能力』は『戦争』を遂行する能力であり、『武力の行使』を行う能力のすべてをおおうわけではない。そして、自衛隊に戦争を遂行する能力はない。あるのは、日本が直接に攻撃されたとき、必要最小限の範囲内でそれに対処するため、武力を行使する能力だけで、それは『戦力』ではない、というわけである」。長谷部恭男「その10 陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2017年10月23日)。しかし、長谷部教授の解説にもかかわらず、日本政府が「war potential」という概念を参照して、自らの9条2項解釈を説明した記録はない。長谷部教授は、さらに2019年1月刊の岩波文庫『日本国憲法』に寄せた「解説」において、次のように述べた。「『戦力(war potential)』の保持を禁ずる二項前段も、『決闘』としての戦争を遂行する能力の保持を禁ずるものと理解するのが素直である……。一項と二項を分断した上で『戦力』『交戦権』など個別の概念に分解して解釈する手法は、条文全体の趣旨を分かりにくくする」(長谷部恭男「解説」『日本国憲法』[岩波文庫、2019年]所収、171頁)。2017年以前の長谷部教授の言説に、このように国際法を強調しながら「war potential」概念を参照するようなものはなかった。新しい長谷部教授による国際法を参照した自衛権合憲論の議論は、もちろん私としては歓迎だ(もっとも国連憲章だけは絶対に参照しないのは、いただけないが)。ただし同時に、果たして長谷部教授は、それにもかかわらず、集団的自衛権違憲論を維持できるのか、疑問に感じる。

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篠田 英朗(しのだ・ひであき)
東京外国語大学教授
1968年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程修了、ロンドン大学(LSE)大学院にて国際関係学Ph.D取得。専門は国際関係論、平和構築学。著書に『国際紛争を読み解く五つの視座 現代世界の「戦争の構造」』(講談社選書メチエ)、『集団的自衛権の思想史――憲法九条と日米安保』(風行社)、『ほんとうの憲法―戦後日本憲法学批判』(ちくま新書)など。
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(東京外国語大学教授 篠田 英朗)