自分の育った環境と酷似した結婚生活になってしまい、結婚にピリオドを打った女性の気づきとは?(写真:bee/PIXTA)

多かれ少なかれ育った環境が、その人の結婚観をつくる。「両親のように仲睦まじい夫婦になりたい」と思う人もいれば、「いがみ合う両親を見ていると、結婚に夢や希望は持てない」という人もいるだろう。

仲人として婚活現場に関わる筆者が、毎回1人の婚活者に焦点を当てて、苦悩や成婚体験をリアルな声とともにお届けしていく連載。今回は、「親の呪縛から解き放たれて、理想の結婚像を模索し始めた女性」のストーリーだ。

彼の少ない稼ぎは私が補えばいい

国家公務員として働いている岩崎静枝(38歳、仮名)が、面談にやってきた。36歳のときに、大手結婚相談所で知り合った2歳上の大島正道(仮名)と結婚をしたのだが、結婚生活は1年足らずで終わったという。


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「相手を間違えただけで、結婚自体に失望したわけではありません。離婚して1年間1人で生活してみて、“やっぱり結婚したいな”と思いましたし、離婚を経験したことで、私が本当に結婚に求めることが何かもわかった気がしています」

こう言う静枝は、婚活に極めて前向きだった。

では初めての結婚は、なぜ失敗に終わったのか? 離婚によって学んだこととは何だったのか?

2人の関係を最初にギクシャクさせたのは、収入の格差だったという。静枝の年収は、中堅メーカーで働く正道の2倍ほどあったのだ。

「結婚相談所って、男性は年収の欄に記入が必須。でも、女性は任意ですよね。私は入れていなかったのですが、漠然と国家公務員の私の年収のほうが高いというのは、彼もわかっていたと思います」

そんな自分を選んだのだから、女性のほうが稼いでいることには抵抗がない人なのだと思っていた。また静枝も、そこは気にしないようにしていた。それよりも大事なのは、“いかに血の通ったコミュニケーションが取れるか”だったから。

「当時、マッチングアプリと相談所を並行して婚活をしていたのですが、普通にコミュニケーションが取れる人が、本当に少なかったんです。

マッチングアプリで出会った方は、1回か2回の食事をすると、その後は連絡が来なくなるパターンが多かった。相談所の方は、お見合いの後に交際になっても、なかなか会おうとしない。やっと会えたかと思うと、次に会うのが3週間先とかで。距離も縮まらないし、話もまったく盛り上がらない人ばかりでした」

そんな婚活を半年続けて、正道に出会った。

「収入が少ないのは気になりましたが、話をしていても、一緒に出かけても楽しかった。見た目もタイプでした。結婚後に彼の収入だけでやっていくのは厳しいだろうから、私も働けばいい。私は仕事が好きだし、公務員は産休や育児休暇もある程度取れるから、2人で力を合わせていけば生活していけると思ったんですね」

結婚してみたら、理想と違っていた

ところが、いざ結婚をしてみたら、描いていた結婚生活とはいろいろな面で乖離が出てきた。

「家計はきれいに折半して担いました。でも、家事は8割方が私。食事を作るのは、すべて私でした。彼は、料理を一切しない、お湯も沸かさない人でした。

私がインフルエンザで高熱を出して寝込んだときには、帰りにコンビニ弁当を買ってきてくれたのですが、その代金も家計費から出していました。暑い日に自分が飲むジュース1本を買うにも、彼は家計費を使う。そんな姿にだんだんカチンとくるようになったんです」

年収450万円の中でアパートの家賃を払い、一人暮らしをしてきた正道は、食品や日用品を買うにも、一つひとつの値段を気にする生活をしてきたのだろう。

「スーパーに買い物に行って、おいしそうな有機大豆のお豆腐をカゴに入れると、『こっちのほうが安いよ』と、いちばん安い値段のお豆腐に取り替えられてしまう。外食は、滅多にしない。したとしても、値段が安いことで知られているファミレスのみ。

入籍して2カ月経った頃に私の誕生日があったのですが、『おめでとう』の言葉はあったものの、プレゼントもなく、外に食事に行くこともなくスルーされました」

そんな生活を続けているうちに、正道の男としてのプライドを傷つけることなく、なんとかうまく結婚生活を送っていこうと気を遣っていた自分に疲れを覚えるようになった。

「どんなに遅く帰ってきても私が食事を作らないといけないというのが、だんだん腑に落ちなくなりました。結婚って、何だろう。我慢して生活することなのかなと、思うようにもなりました」

気持ちが後ろ向きになっていくと、ささいなことでのけんかも多くなっていった。

「けんかは嫌だし、疲れるじゃないですか。だから、怒らせないようにしていたところがあったんです。でも、あまりにもいろんなことに我慢をしていたので、私の中で、“この結婚は幸せなの?”という気持ちが生まれた。感じる不満を口にするようになったら、彼がキレるようになったんです」

ある日のこと。静枝が残業で10時過ぎに帰宅すると、コンビニ弁当を食べ終えた残骸がテーブルの上に残されており、正道がテレビを見ていた。その日の夕食は自分の分だけをコンビニで買い、静枝の夕食は何も用意されていなかった。

「自分の夕食だけ買ってきたの? 私が残業で遅くなるってわかっていたよね!」

語気を荒らげて言ったのがしゃくに触ったのか、正道はさらに大きな声でかぶせてきた。

「2つ弁当を買ったら、その分金がかかるだろう。外で買ったものの金を請求すると静枝が嫌な顔をするから、今夜は自分の小遣いで弁当を買ったんだよ」

そう言うと見ていたテレビを消し、そのリモコンを壁に投げつけた。リモコンは壁に当たり裏側のふたが外れて、中の電池が飛び出した。その後は、バタンと力任せにドアを閉めて、寝室に行ってしまった。

「疲れて帰ってきてお腹も空いていたけれど、そんな態度を取られて食欲もなくなりました。テーブルの上に置きっぱなしになっていたお弁当のプラスチック容器をゴミ箱に捨てて、その日は、夕食は取らずシャワーを浴びて、彼とは別の部屋に布団を敷いて眠りました。布団に入ってからも、涙が止まりませんでした」

新居を構えたときに、寝心地のいいベッドを新調したかったが、「ぜいたくはいけない」と思って、布団を2組買った。

「あの日を境に、別々の部屋で寝るようになったので、今思えばベッドではなく布団を買ったことが正解でした」

関係がギクシャクし出すと、正道のキレる頻度も多くなっていった。

子どもの頃に育った環境と同じ状況に

静枝が冷房の利いている部屋を出るときにドアをキチンと閉めずに半開きにしたりすると、チッと舌打ちしながらドアをバタンと閉めにくる。水道の水を出しっぱなしで洗い物をしていると、「もったいないだろう!」と声を荒らげて止めにくる。使ってない部屋の電気をわずかな時間でもつけておくと、「電気代!」と大声で叫びながら、バンと消しにくる。

結婚生活は、思い描いていた温かな家庭とはまったく違う方向に進んでいった。そして、正道がキレるたびに、心臓がドキドキするようになった。

「ああ、これって、子どもの頃の生活と同じだなって。家族が父親の顔色をうかがいながら生活していた。それでも、母の言動が気にくわないとキレて物に当たる。父のように罵詈雑言を吐かないだけ、元夫はマシでしたけど」

そして、大きなため息をつくと、続けた。

「何かの本で、“親を嫌悪して育っても、育った環境が刷り込まれているから、親と同じような異性を結婚相手に選ぶ”というのを読んだことがありました。まったくそのとおりになったなと思いました」

静枝の父もまたキレやすい人だった。一部上場企業に勤めていた父、パートをしていた母、5つ年上の兄の4人家族だったが、幼い頃は、父がキレないように、家族が父の顔色を見ながら生活をしていた。

「どんなことでキレるか? 例えば母が、お昼に温かいうどんを作ったとしますよね。そうすると、『こんな暑い日に、温かいうどんなんか食えるか』といってキレて、うどんをひっくり返す。そうなるとリビングはつゆびたし。そこから怒りを抑えきれない父の罵詈雑言が始まるんです」

ただ、父が罵詈雑言を浴びせる相手は、決まって母親で、子どもたちにではなかったという。

バラバラになった家族

「兄は、だんだんとそうした父を無視するようになりました。小学校高学年になった頃からまったく口をきかなくなって、父がキレだすとスッと自分の部屋に行ってしまうようになりました。私は、母が心配だったし怖いから体が固まって、その場から動けなかったんですけど」

母に暴力は振るわないのだが、物に当たり散らすので部屋がメチャメチャになっていたという。さらに、「お前は、生きている価値はない」というのが、キレたときに父が母に発する常套句だった。

「母はパートで働いていましたが、手に職があるわけではない。だからずっと耐えていたんだと思います。でも、私が小5、兄が高1のときに、2人の前で、『お母さん、離婚していいかな』と1度だけ言ったことがありました。

兄は、『いいよ』と言ったけれど、私は両親が離婚するということが漠然と怖くて、『離婚はしないで。私にはお父さんもお母さんも必要だから』と言いながら、ワンワン泣いて頼みました」

その後、兄は大学に進学して一人暮らしをするようになり、実家にはまったく寄り付かなくなった。静枝も大学は、実家から通えない遠いところをわざと選び、一人暮らしをするようにした。

そして、静枝が大学を卒業した年に、父と母は離婚をした。

「私は、父とも母とも別々に連絡を取っていますが、兄は両親とは音信不通のようです。実際、兄が大学生になってから、私も1度も会っていないし、話もしていません」

こんな身の上話をすると、静枝は、私に言った。

「元夫は、お付き合いしているとき、あんなふうにキレやすい人だとは思わなかった。そこだけは注意して見ていたつもりでした。優しい人だったから、収入が私の半分しかなくてもいいと思って結婚したのに。私、見る目がないですよね」

「親や育った環境の呪縛って、一生つきまとうものなのでしょうか?」

静枝は、私に聞いてきた。

確かに親の教育や育った環境は、人格形成に大きな影響を及ぼすだろう。

例えば、面談にやってきて、「結婚は、大卒限定で」と、やたらと学歴にこだわる女性がいる。こうした女性は、親が飛び抜けて高学歴だったり、親が教育熱心でその女性を幼い頃から有名私立に通わせていたりする。また、それとは逆に、母親が大学卒で父親が高卒や中卒だった場合も、母が娘の夫になる人に、立派な学歴を求める傾向にある。

また男性の場合は、父親が成功者だったりすると、「僕は僕、父は父ですよ」と言いつつも、どこかでコンプレックスを抱えている。こういう男性は結婚が決まるや、結婚式の招待客の人数や住む場所などを、女性よりも両親が言うことに従う傾向にある。そうすることで女性との関係がギクシャクしてしまったり、婚約の段階で破談になってしまったりすることも多い。

だからといって、うんと仲のいい家族に育ったら、幸せな結婚ができるかというと、そう言い切れるものでもない。

先日、婚活相談に来た女性がこんなことを言っていた。

「ウチの父は、家族にお金の心配をさせたことがない人でした。家族で食事に行くと、『好きなものを食べなさい』と言って、そのお会計を父の財布から出す人でした。1年婚活をしていますが、最初のお見合い代は払ってくれるものの、その後のデートは6:4とかの女子割、中にはきれいに割り勘にする人もいて、何か男らしさを感じないんです」

男女のお付き合いの中で、割り勘が当たり前になりつつある今の時代に、“すべての支払いは男がするもの”という価値観で婚活をすると、相手を選ぶのが難しくなってくる。

また、両親が離婚し、以後10年来、母娘で暮らしてきたある女性がいたのだが、婚活においてどうしても譲れないポイントは、「母親の近くに住むこと」だと言っていた。

相手もまだ決まらないうちから住む場所を限定してしまうと、お相手選びが難しくなるののは、当たり前のことだ。

結婚とは、個人として心身ともに自立すること

幼い頃、親は子どもにとって絶対的な存在だ。食べ物や住む場所やお金を与えてくれる親がいなければ、生きてはいけない。親から言われることが納得できなくても、どんなに自分に不利益でも、たとえ虐待されていたとしても、自力で親の元を離れることはできないし、結果それを受け入れることになる。

それが、年数を重ねていくうちに心理的に刷り込まれ、親から離れられない呪縛へとつながっていくのではないだろうか。

しかし、社会に出て自活できるようになってからは、もう1人で生きていくことができるのだ。親を反面教師にしたり、理想型にしたりして、そこに自分の結婚観に当てはめていくと、よくも悪くもそこにはひずみが出てくる。

静枝の出した結論は、こうだった。

離婚を経験してみて、お金に対する価値観ってすごく大事なのだと学びました。両親の結婚を反面教師にして、“キレない人”“優しい人”にこだわってきましたが、お金がないと、しなくていいけんかもする。あとは、お金に対する考え方や使い方には、人間性が透けて見える。離婚を学びに変えようと思っています。

婚活は、人柄とお金に対する価値観を見ながら、進めていきたいです。そうなると、見た目って本当にどうでもよかったと思うんですよ」

静枝のように、親の呪縛から解き放たれ、理想の結婚像を自分で見つけ、それを模索しなら婚活していくことが、大事なのではなのではないだろうか。