先日、フェルナンド・フベロ氏の就任を発表したジュビロ磐田。名波浩前々監督、鈴木秀人前監督に次ぐシーズン3人目の監督である。残り11試合で降格圏を脱出できるのか? の前に、それで磐田のサッカーはどう変わるのか? に関心が湧く。サッカーが変わらなければ浮上はないと見る。
 
 従来のサッカーを一言でいえば守備的。後ろを固め敗戦を恐れる負けたくないサッカーだ。目指すものがいろいろあるなかで、あえてそれを選んでおきながら成績は最下位。辻褄が合っていない点に最大の問題がある。問題の根を深くしている原因だ。磐田というクラブはどのようなサッカーがしたいのか。サッカーの方向性を監督任せにしていると、クラブとしてのアイデンティティや求心力は失われる。結果が出たときしか注目されないチームになる。
 
 名波監督から鈴木監督にバトンタッチした頃だった。ある主力選手のコメントが掲載された記事が目に止まった。「悪いのはプレーをしている我々選手たちだ」と。もしそれが本心で、その選手が引退後、監督や指導者の座を目指そうとしているのであれば心配だ。
 
 監督と選手。どちらか一方に全責任があるハズはないし、さらに言えば、原因が選手にある可能性は、監督である可能性より断然低い。

「プレーをするのは選手たち。試合が始まれば監督は無力ですから」と言い出す監督に時々遭遇するが、そうした監督は自らが現役だった頃「悪いのはプレーをしている我々選手たちだ」と言っていた可能性が高いと考えられる。

 プレーをするのは選手たちだが、メンバーを決めるのもフォーメーションを決めるのも監督だ。サッカーには野球のようなデータがない。メンバーの選考はあくまでも監督の主観に委ねられる。サッカーは監督の好みが反映されやすいスポーツなのだ。

 少なくとも、監督から信頼が厚かった選手と、出場機会を与えられなかった選手=ベンチを温めることになった選手とでは、印象は違って当然だ。 

 評価されていた選手が、その監督のことを悪く言う可能性は低い。彼らにとってよい監督とは、結果を残す監督である前に自分を評価してくれる監督であり、使ってくれる監督だ。きわめて個人的な問題で、監督の善し悪しは決まる。チームスポーツの概念には基づいていない。

 磐田の主力選手が「悪いのは監督ではなく選手」というのは、当然と言えば当然。しかしそれは選手全員の意見を代弁しているものではない。それをメディアはあたかも、選手を代表する声のように伝えがちだ。そのコメントを用い、間接的に監督を擁護している。そう言われても仕方がない。

 スタメンと控え。守備陣と攻撃陣でも見解は分かれがちだ。両方のコメントを使うのが筋だが、たとえば「悪いのは監督ではなく選手」とは反対の声=「悪いのは選手ではなく監督」は、リスクの多い、いわゆる炎上しやすいコメントになる。聞き出しやすいのは前者の方だ。メディアに掲載される選手のコメントには注意を払った方がいい。

 記事の中にコメントが挟み込まれる比率は、年々増している。コメント至上主義と言いたくなるほどだが、スポーツにはそうした手法と相性がいい競技もあれば悪い競技もある。相性がいいのは個人競技。究極のチームスポーツであるサッカーとの相性は悪い。コメントが散りばめられている記事は、中立性が高いような印象を抱かせるが、けっしてそんなことはない。サッカーの場合は逆に要警戒なのだ。

 よりわかりやすいのは、パワハラ問題が取り沙汰されているチョウ・キジェ監督(湘南ベルマーレ)にまつわる報道だ。

 その中にも様々なコメントが挿入されている。多く見かけるのは、その指導法に対して肯定的な意見だが、それは書き手の意志が反映されたものに見えて仕方がない。