(株)吉野家ホールディングス 会長 安部修仁​氏  〔プロフィール 〕1949年9月生まれ、福岡県出身。高校卒業後プロミュージシャンを目指して上京し、R&Bバンドを結成して活動する傍ら「吉野家」でアルバイトとして働いた。1972年に(株)吉野家(のち吉野家ディー・アンド・シーを経て現在の吉野家ホールディングス)に入社。1992年42歳で代表取締役社長に就任、2012年9月代表取締役会長に就任。この間、1980年吉野家倒産、2003年12月アメリカでBSE問題発生(2004年2月11日より牛丼の発売を停止し2006年に再開)をはじめとした、数々の難局を乗り越えた。 撮影/千葉太一

 料飲稲門会(会長/桑原才介)では(株)吉野家ホールディングス会長安部修仁氏のセミナーを開催。当日会場には100人を超える聴講者が参集した。

 料飲稲門会とは早稲田大学OBの飲食業関係者、飲食業に興味を抱く学生等で運営されている交流会。また、早稲田大学関係者でなくても友好会員として活動への参加を歓迎している。

 前回までの記事では、吉野家の事実上の創業者 松田瑞穂氏の話や吉野家が急成長し倒産した理由を中心に進めた。今回は「吉野家」から牛丼が消えた日々について、安部氏の講演をまとめた。

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吉野家HD会長 安部修仁が語る「おやじの教え」

「吉野家」が急成長し倒産したワケ

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「大企業病」に陥り「改革運動」を断行

 吉野家という会社は10年刻みで大きな局面を迎えてきました。

 1980年に倒産して、10年後の1990年に当時の店頭市場に株式を公開しました。さらに10年後の2000年に東証一部に行きました。この後、組織の硬直化がありました。いわゆる大企業病というものです。大企業でもないのにセクショナリズムがはびこったことから、半年をかけてこれらの改革運動を行いました。

 吉野家における生産性とは「人時売上高」、つまりレイバー1時間当たりの売上高で計っています。それを当時5000円と言っていましたが、単価を変えることから「人時客数」に変更しました。つまりレイバー1時間当たりの客数の指標を11人から16人に引き上げたのです。

 東証一部に昇格したことから利益を落とすことはできない。しかも、過去の吉野家の失敗は、コストとクオリティをトレードオフした結果でしたから、この改革運動ではコストもクオリティも落とさないということに取り組みました。

 しかしながら、味も利益も落とさないというのは二律背反です。このような無理難題を皆に強いました。この改革運動とは、これまでのあらゆることをリセットして組み立て直すということです。皆は「社長は現場から離れて久しくなって、現場が分からなくなってしまったのでは」と思っていたようです。

 私はこれまでこのような局面でみんなと向き合うことになると、さまざまなシミュレーションを試みて、最善策と確信を持って選択してきたので、実行に当たってためらうことはありませんでした。

短期利益よりも「ブランドイメージ」を守る

 アメリカのBSEは2003年12月24日という最も悪しきタイミングで起きました。すぐさま代替えメニューを検討することになりますが、一般的に12月28日は仕事納めですから、われわれが牛丼以外のメニューをラインアップしようと思ってもとてもやりにくいという時期でした。そして東証一部に昇格したばかりですから、東証の記者クラブで重要な営業方針の変更ということを記者発表しなければならない。

 東証では12月28日が大納会です。この年はたまたま28日が週末だったので、大納会は30日でした。そこで「牛丼は休止します」ということを宣言しました。

 ただし、「牛丼はいつなくなるか」ということは直前まで伏せていました。想定していた時期より牛丼が早期になくなってしまうと代替えメニューを開発する時間に当てられないので、なるべく「限界感」を出さないようにして、12月24日の翌日からひそかに人知れず代替えメニューの開発に取り組んでいきました。

 そこで12月30日の大納会の時に記者会見で発表したことは、このようなことです。「USビーフは未来永劫なくなるわけではありません。そこでUSビーフが再開されるまで吉野家では牛丼を休止します」

 その理由は端的に言うと2つあります。

 1つ目は、大げさに聞こえるかもしれませんが「ブランドイメージを守る」ということです。これは私にとって短期利益を守ることよりもプライオリティが高かった。

 2つ目は、これまで牛丼のみを、しかも年中無休で売っていた吉野家が、新メニューを販売するということはできるはずがない、吉野家はつぶれるのではないかという不安に先んじでお断りをしておこうと考えたから、です。

「USビーフ輸入再開まで待った方がいい」と判断

「ブランドイメージを守る」ということでは、吉野家のブランドイメージとはファッショナブルな世界とは異なり、コモディティでとてもベーシックな業態ですから、お客さんもほとんどがヘビーユーザーです。

 それは築地というクローズドマーケットで一定の人しかいない中、客数・売上げを伸ばしていくには、来店頻度を高めていくアプローチしかなかったからです。これが味づくり、サービスというものに影響しました。それが吉野家の原点というものでした。

 吉野家のお客さんは「生まれて初めて吉野家の牛丼を食べる」という人はほとんどいらっしゃらないわけです。ですから、今日いらっしゃるお客さんはどのような動機なのか。それはこれまで吉野家をご利用してきたご自分の蓄積が今日吉野家を選んでいるのであり、お客さんが入店された時に期待している味とサービスは第一義であるから、その期待を裏切らない、期待に応えるということがわれわれの第一義の役割なのです。

 吉野家のお客さんたちや他の人たちも、「牛がと蓄場からいなくなったわけでもないから、アメリカの牛じゃなくてもスライスしてご飯にのっければいいだろう」ということで、「早く牛丼を出せ」と言われていました。

 USビーフがなくなっても5店舗程度で牛丼を販売していました。このような店は、フランチャイジーの協業禁止規定の競馬場の場内等の店です。牛丼の販売をやめると店をたたまないといけないといった事情がありました。

 当社の牛丼で使うUSビーフは穀物肥育を6カ月から12カ月肥育したものですが、この場合は、オージービーフの中で「ナーベル」という穀物肥育を2カ月行ったものと国産牛を混ぜてつくりました。

 しかし、この5店舗の牛丼はこれまでの吉野家の牛丼とは味が全く違います。「牛丼を早く出せ」と言っていた人たちも、違う味の牛丼が出てきたら「これは吉野家の牛丼ではない」と怒り出すのが吉野家のお客さんたちだと自負していましたから。自負という言葉はふさわしくないですが、そのために日々努力を積み重ねていました。

 ですから、短期対応で、別のテーストでお客さんを失望させるくらいだったら、その間、牛丼を出すことを休止して、USビーフの輸入再開と同時に吉野家の牛丼を復活させた方がお客さまの信頼を裏切らないと考えました。

判断は、短期レンジと長期的レンジで違うものになる

 私は社長になって迷うことがあれば、増岡先生に教わった「徹底の定義」に従いました。創業経営者であるおやじ(松田瑞穂氏)にとって、決断し行動する全ては自己実現をすることでした。しかしながら、「再建」というものは安全性を最優先したものです。

 振り返ると、私たちが増岡先生に初めて案件を提出した時に、増岡先生から「これをいつまで決めなければいけないんだ」と言われました。これまで私たちはこのようなことを言われたことがなかったので、増岡先生が言うその意味が分かりませんでした。

 しかし、彼は全てのイシュー(建設的な未来へのテーマ)は決定しないといけない期限が存在するという。逆にいうと、それまでに決めなくても不都合・不利益はないという期限が存在するということです。そして、イシューごとに期限が異なる。そのことを理解してから、不都合になる期限はいつか、ということを考えるようになりました。

 増岡先生から、「安部君、他の方法論にはどのようなものがあるんだ?」ということを求められて、初めて1つのテーマに、「目的」のための「手段」が他にもあるということで、その選択肢を複数でシミュレーションするという癖がつきました。

 ですから、私も判断に迷ったものほど、その期限までには決めない。それと同時に、そのシミュレーションは執拗に、できる限り行う。モノによっては店舗で仮説、検証、実験を行う、という習慣ができました。それは、「安全性の経営」というものです。

 このような事例は山ほどあります。成長性を最優先にした経営によって、私たちが学んだ「ハードワーク」というものと、「安全性」を最優先にした経営の間で迷った時には、長期レンジで考えるようにしました。

 それぞれ同じ目的であっても、短期レンジで考えて判断するものと、長期的レンジで考えて判断するものと、右と左に分かれるということは結構あります。

 その特徴は、感情的には「短期対応をしたい」という私がいます。でも、長期的に見ると、3年後、5年後の自分を想定し、そこから今の自分を俯瞰するようにしています。この時、長期レンジで考えたことの方を間違いないと採用することが多いのです。

 ですから、USビーフがなくなったときにいたずらに焦って、別のテーストの牛丼を出すよりは、USビーフ輸入再開まで待った方がいいという判断に至ったわけです。

吉野家は「諦めない」「克服する」

「吉野家はつぶれるんじゃないか」という心配に対しては、傲慢なことを言っているように聞こえるかもしれませんが、私は当社の社員集団を持ってすれば、「当社は牛丼抜きの商売をしても外食企業の平均並みの売上げ・利益つくり出すことができる」ということを言いました。

 その根拠は、当社が創業の時にバリューをつくり出すことのエッセンスである「諦めない」「克服する」という心、こういうものが当社固有のもので、他より何歩か優れているところではないかと思っていることにあります。

 ですから、牛丼抜きで他の商品をつくるときに、素材の特徴の求め方、オペレーションコストの組み立て方、素材は地球上から求めるし、店まで届くまでの保管流通についてはいろんなシミュレーションをした上で、「これでなければならない」ということを探求したのです。

 さらに、キッチンオペレーションであれ、それに基づいたエクイップメントであれ、このようなことを探求して必ず成立させるという執着心、あるいは実現するまでに諦めないということを強みだと思っていることで、他の商品によって必ず売上げ・利益をつくることができるという確信はありました。

「1店舗1日当たり500人を獲得できる魅力的な商品をつくる」

 私が皆に与えたミッションは、1店当たり1日500人のお客さんが牛丼以外のメニューで獲得できるような魅力的な商品をつくるということと、その上で5%の営業利益率が獲得できるオペレーションコストを組み立てる、ということでした。

 これに取り組む組織ワークについては、おやじ(創業者の松田瑞穂氏)の時代あるいは再建の中で増岡先生はじめ諸先生たちとつくり上げてきたものが、当社の社員に浸透していました。具体的には、「この役割だと課題はどのようなものになるのか」「目標はなるべく数字に置き換えてこの水準にする」「それを達成する期限はいつまでにする」ということが、スムーズに行われました。

 そこで、まず商品部にオーダーしたことは、こういうことです。

「1店舗1日当たり500人を獲得できる魅力的な商品を5品目ぐらいつくり上げてほしい。早く軌道に乗せることが優先されるから、その間のロスには目をつむる。大体300人から400人くらいでブレークイーブンポイントを超えることが可能だが、牛丼以外の商品によってマーケットの中で支持をされる魅力的な商品をつくり上げる」

 牛丼単品の当時は1店舗当たり1日平均の客数は700人から800人です。私が言うのも口幅ったいですが、代替えメニューで1日500人とは驚異的な数字だと思います。

 2003年の暮れには、われわれのイメージする商品をつくり上げることができるお取引先に事前にオーダーしました。この中にはお蔵入りしたものもたくさんあります。でも、オーダーした限りはそれも原価となりますから、そこで2004年度の第1四半期はものすごいロスの山となりました。最初のP/Lには、売上げと原価が等しいくらいというぞっとするような状態もありました。

 いくら「ロスには目をつむるから、軌道に乗せることが優先だ」と言っても、「ここまでやるか?」と言いたくなるわけですが、それを私が言葉にしてしまうと、実際に取り組んでいる人たちの発想や行動はシュリンクしてしまう。

 そこは我慢して、出そうになった言葉を飲み込んで、独り言のようにあえて声に出して呟いていました。「早く軌道に乗せたいな〜」と。

緊急時に心掛けた社内へ向けた伝達方法

 こんな具合に商品本部は大変ですが、営業本部も大変です。私もサラリーマンを長くやっていましたから、サラリーマンにとって何が大変か、腹がたつことかがよく分かります。それは、会社の方針や上司の言うことがころころと変わるということです。

 今振り返って思うことですが、このような緊急時には3日、3週間、3カ月というサイクルが「肝」です。初動の段階では内容は稚拙であってもタイムリーさが重要で、まずスピーディに伝えなければならない相手には内容が整っていなくてもメッセージを送る。

 その内容について向こうから必ず質問がやってきますが、その段階で出来上がっていない時には、「いつまでにお答えします」ということを相手に伝えればいいということです。そのようなことを後回しにすると、放置をしていることの方が問題としては大きくなります。

 この当時、仮発注で初めて電磁調理器を入れました。商品が違えば器も変わるし、これが1000店分ですから。納期は2カ月としても、それまでの1社ではとうてい1000店分に供給できないわけで、そこで4〜5社に分割して仮発注しました。ここで無駄になったものが少なくありません。

 第1四半期は商品、これも試行錯誤をしながら完成度を高めて、第2四半期からエクイップメントやらハードを整えて、下期から定番にするということにして、厨房の配置を少し変えたり、電気容量の足りないところは急きょ増やしたり、このようなことを下期に備えて全面的に整えながら、代替えメニューは4品目に絞りました。

「この戦いは、勝つまで戦うから必ず勝つ」

 2004年の2月11日に牛肉の在庫が切れました。その直前に社員全員を集めて社員集会を行いました。この時に皆にはこう言いました。

「先達のおかげで、これからいろいろな試行錯誤をしていく、初めて1000店規模で、地球規模で類を見ない、創業に等しいことを始めていく」

 それまでの世間は、「吉野家は極めてバリューの高い牛丼の単品だから、売上げ・利益の高いビジネスモデルとなっていた」と言っていた。それに対して私の自信は、人間集団の「執念」と、「チャレンジングスピリッツ」と「克服力」というものが吉野家の力だということです。

「この戦いは、勝つまで戦うから必ず勝つ」

 私は皆にこのように宣言して、強い一体感を持って臨んでいきました。うちの連中は皆、部門別に役割認識を持っていますから、計画は変更の連続です。USビーフがなくなることが分かった初日から、幹部の6人は朝8時からの「朝会」で集まっていました。

 変化のたびにこの6人はそれを共有し、それぞれ自分の部門に持ち帰って、いつから何がどう変わるかということを皆にメッセージしました。スタッフの一人一人は、このテーマに基づいてブレークダウンした個々の役割を担っていました。

 自分の役割としての課題は、何がどう変わって、その期限はいつまでに、その目標水準はこう……。このようなことをそれぞれリアルタイムに変えていきますから、間違いは間違いとして、その都度時間を置かずに修正していくということを共有していきました。

 つまりわれわれは通常、お客さまのために、取引先、株主のために、従業員のために、事業価値を高めるために行動していますが、この時は今をどのようにしのいで未来につなげるか、というための現実対応を日々新たにやっていくということです。

「変化を能動的に受け止めて、自らそこに踏み込んでいかないとこの船は沈没する」ということを共有しました。このようなことで「向う3カ月腹を立てるな」というメッセージを送りました。

 牛肉がない間を代替えメニューでしのいだのは、2004年から2006年まで図らずも2年半かかりました。この間の業績で赤字となったのは2004年度の上期だけでした。この下期は黒字に転換して、翌年には年度黒字に転換しました。

(第4回)「承継者から承継者へ」へ続く

〈株式会社吉野家ホールディングスの概要〉

1899年 当時、東京都中央区日本橋にあった魚市場に個人商店として「吉野家」が誕生 1926年 魚市場が築地に移転したことに伴い同地に移転 1958年 松田瑞穂氏(実質的な創業者)が資本金100万円で株式会社吉野家を設立 1973年 アメリカ・デンバーに牛肉の買い付けを目的としたUSA吉野家を設立 1977年 吉野家国内100店舗突破 1978年 吉野家国内200店舗突破 1980年 会社更生法申請 1987年 当初計画より早く更生債務100億円を完全返済 1988年 ディー・アンド・シーと合併、社名を株式会社吉野家ディー・アンド・シーへ変更 1990年 店頭登録銘柄 1992年 代表取締役社長に安部修仁氏就任 1996年 吉野家国内500店舗突破 2000年 東京証券取引所第1部に上場 2001年 「吉野家」世界1000店舗突破 2004年 米国産牛肉輸入禁止措置により、牛丼を一部販売休止。「吉野家」国内1000店舗突破 2006年 米国産牛肉輸入再開により「牛丼」復活(完全復活は2008年) 2007年 吉野家ホールディングスグループの純粋持ち株会社として、社名を株式会社吉野家ホールディングスに変更。同時に新設分割会社として、株式会社吉野家を設立 2012年 代表取締役社長に河村泰貴氏が就任 グループ合計3433店舗 日本国内2476店舗、海外957店舗 (中国〈香港を含む〉610、北米102、インドネシア104、台湾74、タイ21、マレーシア17、シンガポール14、フィリピン12、カンボジア2:2019年4月度末時点)