「聖地巡礼」中の青葉容疑者(松浩不動産提供)

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 異例の事態なのである。35人の命が奪われた「京都アニメーション」(京アニ)放火殺人事件。発生から2週間も経ってようやく京都府警が公表したのは、10人の犠牲者名のみだった。その背景には、府警が遺族に対して行った前代未聞の「アンケート」があった――。

 太平洋戦争末期、血で血を洗う凄惨な地上戦が繰り広げられた沖縄では、日米両軍と民間人など約20万人の命が失われた。その死者・行方不明者の名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」は沖縄県の南端、糸満市・摩文仁(まぶに)の丘にあり、毎年6月23日の「慰霊の日」には、犠牲者の家族や親族が多数訪れる。そこでよく目撃されるのは、礎に刻まれた犠牲者の名前を愛おしそうになでる光景だ。あたかもその行為により、すでに存在しない犠牲者の肉体に触れ、言葉を交わすかのように――。それは、人の名前が「記号」などではなく、肉体が消滅した後も残り続ける「生きた証」であることを象徴するような光景ではあるまいか。

「聖地巡礼」中の青葉容疑者(松浩不動産提供)

 殺人事件としては戦後最悪、35人が命を奪われた「京アニ事件」の発生から2週間が経過した8月2日、ようやく京都府警は犠牲者の名前を公表した。しかし、明かされたのは、35人のうち10人の名前のみ。被害者名の公表がここまで遅れるのも、一部しか明かされないのも異例中の異例の出来事である。その裏で何が起こっていたのか気になるところだが、

「実は、府警は遺族にアンケートを行っていた」

 全国紙の社会部デスクはそう明かすのだ。

「質問の内容は、実名公表の可否、マスコミの取材を受けられるか否か、そして、取材を受けるとしたら誰が受けるか、といったもの。で、実名の公表を遺族が了承したのが今回の10人で、残る25人の大半は匿名希望だった。つまり、実名を公表するかどうかの判断を遺族側に委ねてしまったわけですが、こんなことは前代未聞ですよ」

 無論、その判断は府警独自のものではなく、警察庁とすり合わせた上でのことである。それについては後で詳述するとして、まずは身元が公表された犠牲者の「横顔」に触れておきたい。

 今回、名前が公表されたのは以下の10人である。

 京アニの取締役で初のオリジナル作品「MUNTO」で監督を務めた木上益治(きがみよしじ)さん(61)。やはり取締役で「らき☆すた」や「涼宮ハルヒの消失」などで監督を務めた武本康弘さん(47)。「Free!」シリーズなどでキャラクターデザインを担当した西屋太志さん(37)。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」美術監督の渡辺美希子さん(35)。「Free!」で動画を担当した宇田淳一さん(34)。「響け!ユーフォニアム」の仕上げを担当した津田幸恵さん(41)。同作のチーフマネージャーを務めた横田圭佑さん(34)と、同作で原画を担当した栗木亜美さん(30)。今春入社したばかりの大村勇貴さん(23)と笠間結花さん(22)。

 ちなみにこの10人以外に、石田奈央美さん(49)の死亡も取材によって判明している。つまり、8月5日時点で実名が公表されていない犠牲者は24人ということになる。

 京アニをよく知る京都文化博物館映像情報室長の森脇清隆氏が語る。

「木上さんとは、2011年に京都アニメーションのスタッフさんをお招きして催した座談会でお会いしたのが最初。ただ、その前に他のスタッフの方から“木上さんはすごい”と聞いていました。京アニさんは元々、他の会社の下請けでセル画に色をつけて仕上げる仕事をしていましたが、その後、アニメーションの演出まで手掛けるようになった時、中心的な役割を果たしたのが木上さんでした」

 京アニ全スタッフの「師匠」のような存在だった木上さんのどこがすごいのかというと、

「アニメーションというのは、端的に言えば、線を動かしてキャラクターに命を吹き込むもの。動かすことで何をどう表現するのか、というのが演出です。例えば、キャラクターが疾走感を持って走っているように見せたい時は、単に体を動かすだけではなく、髪の揺れ方や足首の曲がり方など細かい動きで表現します。木上さんはそこで絶対に手を抜かないのです」(同)

警察庁長官の意向

 京アニは様々なジャンルのアニメを制作しているが、全ての作品に共通しているのが、「動き」への徹底的なこだわりだという。

「木上さんのように強いこだわりを持ち、手を抜かない演出が京アニさんでは当たり前になっている。つまり、“京アニスピリット”の礎を築いた一人が木上さんということです」

 と、森脇氏。

「ただし、会社では後輩にガミガミ言うのではなく、木上さんがこれだけやっているんだから自分もやらないわけにはいかないと思わせる、背中で語るような仕事ぶりだったと聞いています。彼を失ったのは、アニメ界全体にとって大きな損失です」

 後進育成にも尽力した木上さん。そのかいあって、武本さんのような人気監督も生まれた。

「今回、周りの方から改めて息子のすごさみたいなものを聞くことが出来ました。多くの人が応援してくれていたことも知りました」

 と、武本さんの父親は言葉を絞り出す。

「事件から2週間経っても犯人のことなんて考えられません。火の中で息子がどれだけ苦しかったのか、熱かったのか、そればかりに意識がいきます。かわいそうで……」

 津田幸恵さんの父親の伸一さん(69)も犯人――自身も大やけどを負い、未だ重篤な状態が続いている青葉真司容疑者(41)のことはまだ考えられないという。

「毎年、お盆になると、幸恵は私が好きなものをお土産に買ってきてくれました……。でも、お盆や正月よりも、やっぱり電話が来ないっていうのが寂しいです。“いりゴマがなくなった”というような、日常的な会話が出来ないと思うと本当に悲しい」

 そう話す伸一さんによると、府警は当初、7月29日に犠牲者全員の名前を公表する予定だったという。前日には「明日お名前を公表する予定です」との連絡もあったが、結局、29日に公表されることはなかった。

「公表の延期を府警に指示したのは、警察庁です」

 と、先の全国紙の社会部デスクは言う。

「特に、栗生(くりゅう)俊一警察庁長官の意向が働いたと言われています。栗生長官は“何でもかんでも警察が責任を負うのはおかしいのではないか”という考えの持ち主。今回の件で言えば、実名公表に反対している遺族もいる中、全員の名前を公表すれば、批判の矛先は警察に向く。そうならないよう、遺族の了解が得られた場合のみ公表する“無難な判断”をしたのでしょう」

悼むことすら出来ない

 津田幸恵さんの父親の伸一さんは、

「これまでも何か事件が起これば、『こういう事件がありました。加害者はこの人で、被害者はこういう人です』という発表があったわけですから、それと同じでいいのではないかな、というのが私の考えです」

 と、こう語る。

「特に今回の事件では、監督やアニメーターの方も巻き込まれている。そういう方にはファンも多かったわけで、皆さんやきもきして苦しんでいると思います。安否を心配して苦しいのは親族だけではありません。警察が公式に発表する前から私が幸恵の名前を公表していたのは、幸恵の友人や安否を気遣ってくれている人に伝えたほうがいいと思ったからです」

 ただし、「実名の公表」と「遺族への取材」は切り離して考えて欲しい、と伸一さんは話す。

「名前が公表されたから取材をしていい、ということではありません。取材を嫌がる人がいたら、すっと引いて欲しいと思います。ただ、こういうことは遺族それぞれに考えがあることなので、私はそう思う、ということです。今思えば、取材を受けて色々話している時だけは多少気が紛れていたように思いますが、やはり取材陣がどっと来るのは苦痛です」

 10人の実名が公表された後、事件現場に設けられた献花台に花を手向けに来ていた20代の男性は、

「西屋太志さんが総作画監督を務めた『聲の形』が大好きなので、今回、西屋さんの名前があってショックでした。発表される前、ネット上では安否が分からないという情報が出ていましたが、嘘か本当か分からないので信じないようにしていました」

 と話していたが、評論家の呉智英氏はこう指摘する。

「実名が出なければ亡くなった方を悼むことすら出来なくなってしまう。それに、今回の事件の被害者の方々は人気のアニメプロダクションで働いている人たちですので、実名を公表されることで社会的不利益を被る可能性は低い。警察が一部しか名前を出さなかった理由が全く理解できません」

 少年犯罪被害当事者の会の武るり子代表は、

「今はインターネットがあって、実名が公表されると色々と良くないことがあるのかもしれません。が、“報道されない被害”があることも知って欲しい」

 と、訴える。

「私の場合、少年犯罪で息子を失ったのでマスコミにほとんど扱われなかった。それで私と主人は顔も実名も出して声をあげたのですが、しばらく経ってようやく記事になった。その記事を見て、息子の存在が認められたような、息子が生きてきた証を得られたような気持ちになれたのです」

 早稲田大学大学院法務研究科非常勤講師の田島泰彦氏の話。

「報道機関が事件を報じることは、記録でもあります。その記録に被害者の名前が出ていなければ、それを見た人間が事件を追認識する手がかりが少なくなってしまう。また、警察だけが情報を掌握し、被害者の名前を公表するか否かを決めるというのは極めて危険なことだと思います」

 しかも今回、こうした前例が作られたことで、

「他の事件・事故でも今後、同じような対応が取られていくでしょう」(同)

 事件や事故が起こる度、被害者はA、B、Cといった「記号」を割り振られる。そんな社会が健全であるはずがない。

「週刊新潮」2019年8月15・22日号 掲載