(株)吉野家ホールディングス 会長 安部修仁  〔プロフィール 〕1949年9月生まれ、福岡県出身。高校卒業後プロミュージシャンを目指して上京し、R&Bバンドを結成して活動する傍ら「吉野家」でアルバイトとして働いた。1972年に(株)吉野家(のち吉野家ディー・アンド・シーを経て現在の吉野家ホールディングス)に入社。1992年42歳で代表取締役社長に就任、2012年9月代表取締役会長に就任。この間、1980年吉野家倒産、2003年12月アメリカでBSE問題発生(2004年2月11日より牛丼の発売を停止し2006年に再開)をはじめとした、数々の難局を乗り越えた。 写真撮影/千葉太一

 料飲稲門会(会長/桑原才介)では(株)吉野家ホールディングス会長安部修仁氏のセミナーを開催。当日会場には100人を超える聴講者が参集した。

 料飲稲門会とは早稲田大学OBの飲食業関係者、飲食業に興味を抱く学生等で運営されている交流会。また、早稲田大学関係者でなくても友好会員として活動への参加を歓迎している。

 前回の記事では、吉野家の事実上の創業者 松田瑞穂氏の話を中心に進めた。今回は吉野家が急成長し倒産した理由について、安部氏の講演をまとめたものである。

前回の記事はこちら

[商業界オンラインの今日の記事(トップページ)へ]

お客さんが牛丼を注文して15秒で出てくる仕組み

安部氏:「吉野家」創業の店である築地の店のピークは朝5時の開店と同時に始まり、8時までの3時間ずっと満席です。カウンターで食事をしている人の後ろで壁伝いに並んでいる人たちは皆、立ち食いをして口をもぐもぐしながら勘定を支払う、というような忙しいお兄ちゃんだらけでした。

当時の築地店

 ピークタイムにお客さんが店に入ってこられて、提供するまでの時間は15秒です。満席状態で、1人当たりの在店時間は5分未満です。立ち食いのお客さんもいて1時間に12回転以上する。

 店の中に入ってこられるお客さんは毎日来られるヘビーユーザーですから、店長もしくはそれに代わるリーダーはお客さんが毎日食べているものを覚えていて、鍋の前で、肉盛りお玉を構えていて、入ってこられたお客さんの顔を見たら、鍋の喫水線に浮かんでいる肉と玉ネギをすくって、260gのご飯の上にワンモーションで盛り付ける。プレーイングマネージャーですから連続動作をしながら1秒間に数個行うのです。

 吉野家の店長には重要なキーワードが2つあります。それは「目線」と「作業割り当て」です。

「目線」は、センターポジションで皆に作業の指示を出して全体を把握するために目線を効かせていないといけない。その目線はお客さんが入ってくる出入り口まで、ちゃんと把握するために目線を効かせていないといけない。 

 お客さんが入店したら、何個か複数動作で盛り付けながら。その全体把握と作業割り当て、命令をそれぞれの従業員に的確に出していく。

 ついでに話すと、肉盛りお玉の面積と穴の数は、穴の数が少な過ぎるとつゆだくになるし、面積が大き過ぎるとつゆ抜きになる。肉盛りお玉はこれらの経験値による完成形です。このように、道具立てから、キッチンのエクイップメント、チームフォーメーションに至るまで、全部の整合性を作り上げるためにおやじは「10年かかった」と言っていました。

「うまい」ということを一言で言っても、それを形成するためのディテールへのこだわりが存在するのです。

 これを実現するために個々のスキルを高め、それを際立たせた上で、流れるようなチームフォーメーションがないと「満席のときに作りたてのものが15秒で出てくる」ということはなかなかできることではありません。

形、姿あるものは全て変えていく対象

 おやじ(創業者・松田瑞穂氏)が取り組んできたことをくどくど言いましたが、これらは私が「吉野家のエッセンス」として継承したかったことです。それによって、後に吉野家に訪れたいろいろなハザードをクリアすることができました。

「目標がとても高いところにあっても、執念を持って取り組んで、障害となるものを克服していけば必ずや到達することができる」。これがおやじから学んだ教えです。

 私が社長になった時、このエッセンスをつないでいくことを考えていったのですが、その基準は「変えるもの」「変えないもの」ということでした。まず、「何を変えようか」と考えたときに無数にありました。

 反対に「何を変えないか」と考えたところ、それは「無形のもの」ということに行き着いた。すなわち、姿、形があるものは全て変えていく対象ということでした。

「諸行無常」という言葉がありますが、あらゆることが10年、20年、100年とそれぞれ時間レンジは違っていても、古今東西現存するものはいずれ全て変わる。

 むしろ「変わらないもの」、あるいは「変えてはいけない」というものとは何か。それは無形のものです。つまり、それぞれが持っている固有のエッセンスを、さまざまハードづくりに生かしていくということだと思います。

できる人間が実績を上げると次のステージを用意する

 昭和45年(1970年)は「外食元年」といわれた年です。私が吉野家に入社したのはその2年後です。

 その動機は、まず求人誌を見たところ、吉野家の時給が断トツに高かったからです。次に入社してからの毎日のまかない。「こんなにおいしいものが東京にあったんだ」という具合に、その時間が待ち遠しいほどでした。「時給の高さ」と「まかないのおいしさ」でアルバイトが続きました。

 この後、ペガサスクラブというところに席を置かせていただいて、小売業の創業経営者たちとアメリカで勃興した「チェーン」の概念と原理原則、経営のエッセンスというものを学びました。昭和40年代後半(1970年代前半)の私の月給は5万〜6万円、こんな時代に1泊2日15万〜16万円もするセミナーに毎月通わせてくれました。私の知る限り吉野家は、教育投資についてどこよりも厚くしていました。

 できるやつにはどんどん場を提供して、実績を上げると次のステージを用意して、それをこなすと次のステージが用意されていました。

 私は27歳で九州にまだ1店もない時に、九州地区本部長となりました。店舗物件の開発から現地の青物野菜の調達、パート・アルバイトの採用と組織づくりなど、ゼネラルマネージングをやらせていただきました。

 このような仕事の場の与え方を、おやじは「今できるから」というスキルに対する信頼ではなくて、「この場を与えれば、伸びるやつはこの場の中で伸びるかもしれない」という期待のもとに行っていました。こうして、われわれは経験の中で学んでいきました。このような考え方は現在当社のリーダー育成の中でも軸となっています。

急成長したために本来の仕入れができなくなった

 吉野家はあまりにも急激に成長していきました。それが「膨張」に変わった時期があります。特に100店舗を超えた段階、100店舗から200店舗の当時です。昭和52年(1977年)の夏に100店舗を達成し、翌年の8月に200店舗達成を目標に掲げました。

「目標にする」というだけであればそれでいいのですが、ご丁寧にホテルオークラに「200店舗突破祝賀会」を予約して、われわれは200店舗に向かったのです。

 しかしながら、3ケタの規模になると、ヒト、カネ、モノのコントロールやらマネジメントは全く異質のこととなり、これらの全ての疲弊感が、この200店舗突破記念パーティ前後の頃から現れたのです。

 当時の吉野家にとって200店舗の規模が原材料のショートプレートを輸入できる適正規模でした。店は200店舗を突破してから、慣性の法則で300店舗まで一気に増えました。農産物はあまりにも需要を急激に増やすと相場が上がります。求める品質のものを求めると取り合いになります。

 この200店舗あたりから、吉野家が開発したショートプレートが商社さんとの間で取り合いになりました。そこで相場が上がりました。

 それでも調達できないので、制約外にあったフリーズドライという冷凍乾燥肉に着眼して、その技術が完成していないうちに仕入れざるを得なくなって、その「まずいもの」を最初は1割、そして2割、3割と増やしていったのです。

 この当時、アメリカのカリフォルニア州とコロラド州で店舗展開が始まっていました。吉野家が倒産した1980年の前の1979年には、地区本部長4人がアメリカに語学留学に出されました。私はイリノイ州のユニバーシティで1年間だけ英語をもっぱら学んでいました。

 翌年の80年の8月に卒業して、シカゴに新しいブランチを設ける予定でしたが、卒業を待たず、80年の4月に急遽帰国命令がやってきて、その3カ月後の7月に会社更生法の申し立てをすることになります。

「単品だから急成長」して、「単品だから倒産」したという

「うまい」「やすい」「はやい」と言っていましたから、あらゆることがスピーディに進行していく会社だったという感慨があります。

 保全管財人として増岡章三先生、その代理人として今井健夫先生、馬場英彦先生の3先生が東京地裁から派遣されました。彼らは企業再建のプロフェッショナルであり、皆さん聡明な方々でした。増岡先生は日弁連の事務総長も務めておられました。そして、皆さんは志が非常に高い。このような方々にお世話になったことは私にとってとてもラッキーなことでした。

 振り返りますと、私はとても強い星の下に生まれたと思っています。冒頭で申し上げた、崇高でもなんでもない動機で吉野家に入社してから、松田瑞穂という人格者と巡り合い、会社の再建も素晴らしい先生方によって進みました。

 いい時とは、その事業も人もこれら特有の長所の中にいて、そうであるが故にその場所にあったウイークポイントとも同居しているわけです。他の人より個性的という場合は、長所という光が強いが、一方の陰は濃いということです。

 いい時には過剰なまでにうそも交えて褒めてくれたりするものです、こちらが困るほどに。しかしながら、駄目になるとその瞬間から同じ場所にある欠点、陰の部分を取り上げるようになる。「だから駄目になったんだ」という具合です。

 吉野家には特徴的なことがたくさんありました。しかしながら、先ほどのおやじの話の通り、「ないよりあったほうがいい、という程度のものはないほうがいい」ということで、いろんなことを削って際立ってきましたから。すると、存在しているものはある意味欠点だらけなのです。だから、非常に論評がしやすい。

 だから、メディアの人も、吉野家がぐんぐんと伸びているときは「単品だからあれだけ成長して、海外にも行くことができた」と言っていた人たちも、1980年7月15日の「吉野家倒産」の瞬間から、「単品だからつぶれた」と言うようになったものです。

味を落とし、値上げをして、中身のない店をつくり続けた

 吉野家が倒産した理由はこういうことです。

 まず、「自ら牛丼をまずくしたから」。出店も100店舗の状態が1年間で2倍にするということは「粗製乱造」。保証金であれ家賃であれ、粘り強く適正な金額に収れんさせなければいけないものですが、それよりも時間と数を優先すると値段のない交渉を行うようになる。

 交渉は端折る。売上予測もアローアンスをつけるけれども、その予測のミニマムの状態になっても「赤にはならない」というアローアンスをつけて契約をするものだけれども、あのような粗製乱造をしていた時には、「悲観的にみてもこれだけはキープできる」という下限を下回る実績がどんどん増えていきました。そのようなことから、赤字店舗をどんどんつくっていきました。100店舗から1年後に200店舗になると100人増える店長も粗製乱造になる。ですから、スキルの低い店長が増えていった。要するに、味を落として値上げをして、中身のない赤字店舗を増やしていったのです。

 事業資金もやっと取引をしてくれるようになった都市銀行さんとしても、供給する適正なロットはあるのですが、その調達能力を超える需要をつくってしまった。

 このような具合に「全てにおいて自らダメージをつくってしまった」ということが、「吉野家倒産の原因」だったと私たちは認識しています。ですが、誹謗中傷を含めて吉野家のことを100%全否定する嵐が吹き荒れました。1983年に更生計画が認可され、セゾングループの傘下となり再建に乗り出します。

 われわれは「吉野家のビジネスモデルが駄目になったわけではない」と考えました。ですから、強い吉野家に戻るためには、「吉野家の本来の味に戻す」「赤字店は間引きする」「店長をリトレーニングする」。このようなことを行いました。それによって吉野家は適正規模に収まって、調達も順調にいくようになりました。そして好循環していき、翌年から黒字転換しました。

 結果的に会社更生計画の最終年度は3〜4カ月前倒しで全額の残債をおさめて、早期弁済、終結ということになりました。1987年に更生が集結して、吉野家の業績はとても高い水準で推移していました。私が社長になったのは1992年ですが、この時の営業利益率は7%でした。

(第3回)「『吉野家』から牛丼が消えた日々」へ続く

〈株式会社吉野家ホールディングスの概要〉

1899年 当時、東京都中央区日本橋にあった魚市場に個人商店として「吉野家」が誕生 1926年 魚市場が築地に移転したことに伴い同地に移転 1958年 松田瑞穂氏(実質的な創業者)が資本金100万円で株式会社吉野家を設立 1973年 アメリカ・デンバーに牛肉の買い付けを目的としたUSA吉野家を設立 1977年 吉野家国内100店舗突破 1978年 吉野家国内200店舗突破 1980年 会社更生法申請 1987年 当初計画より早く更生、債務100億円を完全返済 1988年 ディー・アンド・シーと合併、社名を株式会社吉野家ディー・アンド・シーへ変更 1990年 店頭登録銘柄 1992年 代表取締役社長に安部修仁氏就任 1996年 吉野家国内500店舗突破 2000年 東京証券取引所第1部に上場 2001年 「吉野家」世界1000店舗突破 2004年 米国産牛肉輸入禁止措置により、牛丼を一部販売休止。「吉野家」国内1000店舗突破 2006年 米国産牛肉輸入再開により「牛丼」復活(完全復活は2008年) 2007年 吉野家ホールディングスグループの純粋持ち株会社として、社名を株式会社吉野家ホールディングスに変更。同時に新設分割会社として、株式会社吉野家を設立 2012年 代表取締役社長に河村泰貴氏が就任 グループ合計3433店舗 日本国内2476店舗、海外957店舗 (中国〈香港を含む〉610、北米102、インドネシア104、台湾74、タイ21、マレーシア17、シンガポール14、フィリピン12、カンボジア2:2019年4月度末時点)