順天堂大学医学部教授の樋野興夫氏は、「がん哲学外来」という「対話の場」をつくった(※画像はイメージ)

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 著名人ががんになった際には、治療法や回復の見込みなどの関連情報が多く報じられる。こうした情報はもちろん有益なものであるが、患者や家族が欲しているのは医学的な情報だけではない。

 むしろ多くの悩みは、「情報」では解消できないところにあるのだ。

 順天堂大学医学部教授の樋野興夫氏は、そうした悩みを解決ではなく、解消するために「がん哲学外来」という「対話の場」をつくった。そこには数多くの悩める患者や家族が訪れ続けている。そして、不思議なことに対話を終えた患者の顔には笑顔が浮かんでいるという。どのような対話がなされているのか。その一部を樋野教授の著書『がん哲学外来へようこそ』から引用して見てみよう。

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「いまだに気持ちが整理できません」

 相談者がどのような悩みを抱えて面談の場に現れるかは、私はお会いするまでまったくわかりません。予約の段階で聞いておくのは、名前ぐらいだからです。

順天堂大学医学部教授の樋野興夫氏は、「がん哲学外来」という「対話の場」をつくった(※画像はイメージ)

 ですから最初は「どこのがんですか」と尋ねるところから始まります。

 椅子に座って待っている私のほうも、皆さんが思う医師には見えないかもしれません。 スーツ姿ではありますが、白衣も聴診器も身に着けていません。

 パソコンも、ノートも、ペンも持ちません。テーブルの上にはお茶だけ。

 それは、ここが対話の場だからです。

 私自身がひとつ心がけているのは「暇(ひま)げな風貌」です。人間だれしも、忙しそうにしている人に心を開いて会話しようとは思わないものです。ですからできるだけ暇そうな雰囲気で、脇を甘くして相談者を待っているつもりです。

心配するのは一日一時間でいい。患者と家族3千人との対話から生まれた「ことばの処方箋」。 『がん哲学外来へようこそ』樋野興夫[著]新潮社

 会場となるのは大学病院の一室のほか、自治体の医療センター、喫茶店、教会、お寺、医療用ウィッグ店、薬局などと様々です。私は予定がゆるす限り、どこへでも出張して面談を受けることにしています。

 相談にやって来る人で、何から話していいかわからない人も少なくありません。

 悩みや不安を抱えていれば、それは当然でしょうし、悩みはそもそも他人に話しづらいものです。そしてだれもが「がん哲学外来」は初めてです。

 たとえ「何も話すことはないんですが……」という一言で面談が始まるケースでも、「それでいいのです」と言って、私から質問してみると、ゆっくり話が始まります。

 その対話がいったいどんな様子かを分かって頂くために、すこし長くなりますが、ある日の男性とのやりとりをご紹介してみましょう。

 この方の場合は、最初からスムーズに相談が始まりました。

「失礼します」

──どうぞ、座ってください。今日は、どうしましたか。

「はい。あの、私、膀胱がんで、1カ月半前に膀胱を摘出しました」

──ここはどうやって知ったんですか?

「通っている病院の待合室に、チラシが置いてあったのです。それを見て相談に行ってみようかなと思って……」

──手術でがんは取り除けたんですか?

「はい。一応、がんの箇所は取ることができました。いまは抗がん剤を投与する治療を、週に1度のペースで受けています」

──病院はどこに?

「○○大学付属病院です」

──しっかりしたいい病院じゃないですか。治療は任せておいて大丈夫だと思いますよ。

「ええ、病院のことでは特に悩みはないんです。でも、いつ再発するか、と考えると、やはり不安で……。血尿が出るようになったのが半年前、妻には内緒で近くのクリニックを受診しました。妻は神経質なところがあるものですから。
 クリニックでは『うちでは手に負えない』と言われ、いま通っている大学病院を紹介されました。精密検査の結果、膀胱がんのステージ2Bでした。
 妻に話さないわけにはいきませんから、丁寧に説明しました。妻なりに受け止めてくれているのはわかるのですが、ショックが大きかったようで、いまもまだ動揺していることが伝わってきます。
 仕事は休職することになりました。そして全摘手術です。発覚から退院まで3カ月ほどだったので、展開が速すぎて、自分でもいまだに気持ちが整理できていません」

──いまおいくつですか? お仕事は何をされていますか。

「ちょうど50歳です。メーカーで営業職をしています。じつは、仕事でのストレスもけっこう大きかったんです。そのストレスでがんになったんじゃないか、と自分では感じています。
 いまは休職中で、年度末までは休めます。でも、休めるからといってリラックスできるような精神状態ではなくて。仕事に復帰したら、またあの人間関係のなかに戻らなくてはいけない、またストレスでがんが再発するんじゃないかって……」

──でもまだ、3月まではけっこう時間があるじゃない。

「はい。でも一人でいろいろと考えてしまって」

──そんなに早く決めなくてもいいじゃない。せっかく年度末までの時間があるんだから。仕事について考えるのは、先延ばしにしてもいいんじゃないですか。
 それまでの時間をゆっくり使って、何か別のことをしたり、考えたりしたらいいですよ。こうやって「がん哲学外来」へ来たりして、家の外に出るのがいい。今度は奥さんを連れて、患者や家族が一緒に語り合う「カフェ」の時間にも来たらいかがですか。

「ああ、そうですね。妻も誘ってみます。あの、いまは仕事を休んでいて、本当にいいんですよね?」

──いいんですよ。趣味は何かあるんですか?

「映画鑑賞と、ゴルフですね」

──うん、映画をたくさん観たらいいですよ。ゴルフも続けたらいい。

「仕事をしないで家にいると、『何かしなくちゃいけない』『こんなことしていていいのか』という罪悪感があるんです。抗がん剤のあとでつらいときはそうでもありませんが、体調がいい日もあるので、そういうときは、とくに罪悪感を抱きます」

──そう思ってしまうときほど、外に出たらいいんですよ。

「……(声をつまらせる)……。そういう日もあれば、再発のことで不安にかられる日もあります。妻はまだ動揺していますから、『不安だ』とはなかなか言えません。
 そして仕事に復帰して、また同じストレスを味わうことを想像すると、いますっぱりと仕事を辞めてしまおうか、とまで考えるんです」

──(お茶を飲む)……結論を急がなくていいんじゃないですか。
 いますぐ答えを出すんじゃなくて、歩きながらゆっくり考えるんですよ。何かをしながら考えるんです。カフェに来たり、もし可能なら自分よりも大変な状態にある人に対して何かできることをしながら、じっくり考えるんです。
「こうしなければ」と決めて何かをするのは、大変ですよ。つらいよ、考え過ぎるとね。
 勝海舟が言ってますよ、「やるだけのことはやって、後のことは心の中で、そっと心配しておれば良い。どうせなるようにしかならないよ」とね。
 いま決めないで、歩きながら学んでいけばいいのではないですか。自分に降りかかる事態を、理不尽と思える事態を、歯を食いしばって許すことを学ぶんです。苦しみながらも許すことを学ぶ。そうすると、品性が生まれますよ。品性が生まれることで、希望が生まれる。
 少なくとも年度末までは、試行錯誤をしたらいいですよ。人生、試行錯誤をする時間も大事です。

「(大粒の涙を流す)また、来ていいですか」

──いつでもどうぞ。今度は、奥さんと一緒に来てくださいよ。
 人生いばらの道、されど宴会ですよ。

「え? 宴会ですか?」

──ええ、宴会です。がんも含めて、人生には色んなことが起きるものですが、あなたがやりたいと思えば、今晩楽しい宴会をひらくこともできますね。知り合いを呼ぶのでも、奥さんと二人ででも。一人でだって構いません。そうやって毎日を楽しむことも、笑顔を忘れないことも大切ですよ。

「そうですね。今度は、妻と一緒に伺います」

 男性は、はじめて笑顔を見せて部屋を後にされました。

 がんと告知されてから、気持ちをどのように整理したらいいか。

 再発についてどう考えておくべきか。

 家族とどう接したらいいか。

 休職してしまった仕事は、今後どうするべきなのか。

 いくつかの悩みが語られたのにお気づきでしょう。

 たいてい、悩みはいくつもが混在しあっているものです。ひとつずつ考えていってみましょう。

デイリー新潮編集部

2019年8月18日 掲載