PLAYBACK! オリンピック名勝負---蘇る記憶 第4回

東京オリンピックまで、あと1年。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。

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 1996年アトランタ五輪の柔道は、前回バルセロナ大会で獲得した金2個を含む5個以上のメダルを期待されていた。その男子代表選手7名の中に、3人の”中村”がいた。


1996年アトランタ五輪男子柔道71垉蕕如金メダルを獲得した中村兼三

 95kg級の佳央(25歳)と65kg級の行成(23歳)、71kg級の兼三(22歳)の三兄弟である。その中でも、強気な試合運びで93年世界選手権と94年アジア大会を制し、95年世界選手権でも2位に入っていた行成は、「3人いるから、誰かつまずきそうだな、と思っていた」と笑顔で話した。「(五輪に行けるのは)よくて2人、悪ければ1人、と考えていました。親は『3人揃わなければアトランタには行かない』と言っていたけど、『そんなに簡単に言われても……。1人行くだけでも大変なんだから』と思っていました」

 92年バルセロナ五輪の最終選考会では、行成と佳央はともに準優勝で終え、惜しいところで代表入りを逃していた。2人はその悔しさを晴らすかのように、翌年の世界選手権では兄弟優勝を果たした。だが、86kg級で世界を制した佳央に、強力なライバルが現れた。92年バルセロナ五輪78kg級優勝の吉田秀彦が階級を上げてきたのだ。95年全日本選抜柔道体重別選手権大会では旗判定で吉田に負け、連覇がかかる世界選手権には出場することができなかった。

「94年のアジア大会で優勝した頃まで『だいぶ五輪に近づいたな』という意識があったところに、吉田先輩が階級を上げてきた。吉田先輩を逆転するにはかなり時間がかかるし、あと1年で間に合うか、と考えたら自信がなかったので、だったら自分も階級を上げることにしました」

 こう話す佳央は、その後の体重無差別の全日本柔道選手権大会で3位になると、韓国国際では95kg級で優勝。96年の全日本体重別でも優勝を達成した。その結果、前年世界選手権3位の岡泉茂を押しのけて、代表に選ばれたのだ。

 一方、兼三は95年の全日本体重別で、同年の世界選手権で優勝した秀島大介に1対2の旗判定で敗れて初代表を逃していた。だが、その後はユニバーシアードとアジア選手権で勝ち、96年2月のフランス国際でも勝って実績を積み上げた。そして、ライバルの秀島が1回戦で敗退した全日本体重別で優勝し、代表を決めた。

「本当に感動したのは次の日の朝でしたね。起きてから『すごいことやっちゃったな』って。3人ですからね」と行成は話す。

 そして佳央は「もちろん狙いますが、3人とも優勝はありえないでしょう。欲張らずに、メダルをもらえるところまではいきたい。色に関係なく、メダルが3つ揃えばいいですね」と冷静に話していた。

 最重量級から試合が行なわれたアトランタで、三兄弟のトップバッターは佳央だった。前日の95kg超級で、前回銀メダリストの小川直也がメダルを逃したあとの登場。このクラスは、軽重量級だった76年モントリオール五輪を最後に日本勢はメダルに手が届かず、世界選手権でも89年以降は95年の岡泉の銅のみ、と世界のレベルが高い階級だった。

 行成が「兄貴の柔道の特色は、確実にポイントを押さえて自分の形に持っていくところ」と評する佳央は、準々決勝で91年世界王者のトレノー(フランス)にタックルまがいの”朽ち木倒し”を決められ、開始9秒で一本負けしてしまった。さらに敗者復活戦でも、山下泰裕監督が「なんで中村だけがとられたのかわからない」という不可解な”指導”を何度も受けて、1対2の旗判定で敗退。3位決定戦進出を逃して7位にとどまったのだ。

 2番手の兼三の登場は、前日の78kg級で古賀稔彦が日本男子初メダルとなる銀を獲得したあとだった。「はじめから飛ばしていって、しつこい柔道で相手に嫌気がさしてきたところで最後のとどめを刺す」と行成が評する粘りの柔道が兼三の持ち味だ。

 前年の世界選手権では、最終選考会で兼三を2対1の旗判定で破って出場していた秀島が優勝した。それだけに、「彼に勝てるなら自分も勝てるはず」という思いで臨み、準々決勝までの3試合は一本勝ちで勝ち上がった。そして、準決勝ではなかなか前に出てこないボルバタール(モンゴル)が残り3分で指導3の”警告”を与えられるなか、冷静に対処して残り1分45秒で”有効”を奪って優勢勝ち。

 95年世界選手権2位の郭大成(韓国)との戦いとなった決勝では、両者がなかなか技を出せず、残り2分50秒に2回目の指導で”注意”を受けた兼三は、指導1の郭に対して劣勢になった。だが、残り7秒で郭に指導が出て追いつくと、旗判定により2対1で勝利して、男子金メダル第1号になった。

「紙一重の差だったが、この階級は飛びぬけた選手がいないから、だれが優勝してもおかしくないと思っていた。組み合わせが決まった時から、優勝するのは自分しかいないと思っていた」と、兼三は朗らかな表情で話した。

 最後の行成はこれまでの実績から、男子チームの中で最も金メダルに近い存在と見られていた。連覇を狙った前年の世界選手権は2位で終えたが、「あの頃は『変な試合をしちゃいけない』『投げられちゃいけない』という気持ちが強くて、動きが硬くなっていた。それまでは挑戦者という意識だったが、世界王者になってからは、負けられない、という気持で受けに回っていた」と話し、すでに気持ちが切り替わっている様子が覗えた。

 だが、初戦の2回戦でアクシデントに見舞われた。相手は、国際大会で2勝し警戒をしていたマツィエフ(ロシア)との対戦。行成は着々とポイントを取ってリードしていたが、終了間際に”待て”がかかったあと、みぞおちにヒザを入れられてしばらく動けない状態になったのだ。それでも、本人が「そのあとの2試合はその影響があったが、まだ楽な相手だった」と話したとおり、”注意”による優勢勝ちと1本勝ちで準決勝へ進出した。

「休憩もあったので、準決勝からは普通に戻った」と言う行成は、準決勝では彼本来の強気な試合運びをできなかったものの、開始1分ほどで相手に指導が出る展開になると、ラスト20秒で”有効”を取って優勢勝ち。決勝進出を決めた。

 決勝は、前年の世界選手権で負けているウド・クエルマルツ(ドイツ)との対戦。クエルマルツは準決勝までのすべてを開始3分以内で一本勝ち、と絶好調だった。それでも、その対戦は互いに「攻め込めない」「攻め込ませない」大接戦になり、両者に”指導”が2回出る緊迫した試合展開に。結局、最後は旗判定となり、1対2で敗れて行成は銀メダルに終わった。

「弟が今までやってきたことをすべて出して金メダルを獲ったので、自分も負けられないと思い、最後まで力を出し切りました。昨年の世界選手権では(自分の)柔道をやらせてもらえなかったけれども、今回はいい試合ができたと思います。弟に、『お前に負けたな』と言ったら、笑われました」

 そう言って、行成は苦笑した。その行成と兼三の試合中には、国内の大会と同じように観客席から長男・佳央の大きな声の指示が出続けていた。兄弟3人全員で勝ち取った金(兼三)、銀(行成)2つのメダルだった。