夏休み。それは大人にとっては帰省のシーズンでもある。
懐かしい街に帰ったり、旧友に会ったりするのは楽しい。
親の顔を見るとほっとする人もいることだろう。
子連れで帰省すれば、大人の手が増えるので、ちょっと楽だなあと感じることもある。

しかし、忘れてはならない。
帰省とは、新旧の価値観がガチンコ勝負する場でもあるのだ。

■余計なおせっかいが成人した子どもを憂鬱にする


学生時代や社会人になってすぐの帰省はほっとできるものかもしれないが、徐々に、ある時期から帰省はどんよりと憂鬱なものになっていく。
多くの人にとって、そのタイミングとは、親からの結婚や出産へのプレッシャーがかけられ始めたときからではないだろうか。


そのプレッシャーというのは、あからさまに「そろそろ結婚しなさい」とか「子どもはまだ?」「一人っ子じゃかわいそう」などと聞かれる直球のものもあれば、旧友の結婚や出産報告はがきを「あなた宛てに届いてたよ」と渡されたり、「●●ちゃんは今度結婚(出産)するんだって」と報告されたりするような間接的なものもある。

そんなとき、たとえ都会で仕事と友人に恵まれて充実した毎日を過ごしていても、「まだやるべき宿題を終わらせていないんだよな」という事実を突きつけられる。
そして、そういうことが続くと、いくら普段「結婚や出産、2人目なんてまだ考えられない」と思っていても、「いや……これって強がってるだけなんだろうか」とか「皆がクリアしたライフイベントをまだクリアしていない自分はどこか欠けている人間なんじゃないか」という思いが心の片隅でくすぶり続ける。
そして、それがたまにひょっこりと顔を出して心がズーンと重くなるのだ。少なくとも私は長らくそうだった。

なぜ、こんなにも嫌なプレッシャーをかけてくるのか。結婚や子育てという宗教の布教活動に熱心なのか、退屈な毎日に孫という新コンテンツを加えたいのか、「子どもが孫を連れて帰省してくれる自分」をご近所さんに自慢したいのか、まあそこらへんの事情は人それぞれだと思うが、とにかく子どもの言い分を聞きもしないでずいぶんと執拗である。

まあ、親としては、幼子に「歯磨きをしろ」とか「好き嫌いせず食べろ」としつこく言うのと同じ感覚で、大人になった子どもに「結婚しろ」「出産しろ」というのだろう。
成人相手にそういう口出しをするのは失礼なのだが、こういう親というのは「わが子に失礼もなにもあるか」とか思っていそうだ。

そして、この手の「余計なおせっかい発言」は、オジサン議員(もしくは名誉男性的ポジションの女性議員)もしょっちゅうやらかしている。
「たくさん産んだ人を表彰しよう」とか、「若者の我慢が足りないから子どもを持とうとしない」などといった発言は、必ずと言っていいほど炎上するが、炎上を受けて謝罪するときは、「何も間違ったことを言っていないと思うけど、皆さんを怒らせたようなので一応謝っときますね」といわんばかりの顔である。
失言予防マニュアルが出回っているらしいのに、この手の発言が一向に減る様子がないということは、発言した本人はこれらの発言がどうまずいのか、本気で分かっていないんじゃなかろうか。

■社会が子どもに冷たいのは嫉妬も原因


政治家にしろ、親や親せきや近所のオジサン・オバサンにしろ、しつこくおせっかい発言を繰り返す人はきっとこう思っているのだ。「私たちの頃は当たり前のようにできたのに、今の人はできない。情けないことだ。やる気がないんじゃないか。だから、私が言って聞かせないと」

違うのだ。やろうとしないのは、「やるメリットが見当たらないから」「やれるだけの余裕がないから」なのである。
今は上の世代が当たり前のようにできたことをするには、すべて相当な労力の「活」がいる。しかも、稼ぐ力や実家の太さ、人間関係に恵まれていないと、その「活」はなかなかうまくいかないのだ。

しかし、そんなことを言い返したとしても、年配者は「人のせいにするな!」と一喝するだけで何も変わらない。さらに人手やお金を提供しないくせに、「できないあなたは頑張りが足りない。当たり前のことができないだなんて、欠陥人間だ」などの人格否定までしてくることさえある。

そんなことをされ続けた人はどう思うだろうか。

プレッシャーをかけてくる本人にいくら怒りをぶつけても埒があかないので、年配者が望むような、結婚をして、複数人子どものいる人に怒りの矛先を向けるのである。
街中でベビーカーを押している女性や、職場で産休・育休・時短勤務などの制度を活用している人に対する嫌がらせとは、嫉妬の側面も大きいのではないか。

以前、私が職場で子持ちの社員のフォローで忙しくしている独身社員に取材したところ、こんなコメントをもらったことがある。

「この世は持ちつ持たれつというけれど、他人を持ってあげるばかりで、私が持ってもらえる番はいつ巡ってくるの?」

本当にそのとおりだと思った。自分も将来「持ってもらう」という保証がなければ、目の前で困っている人を助けてあげようなんて思えないだろう。

そういう人に、「もしあなたが子どもを産まなくても、将来病気になったり、親の介護で休みがちになったら助けてもらうことになるんだから」と説得したってなにも響かない。だって、子持ちの社員には、世間から「一人前」とみなされる配偶者や子どもがいる。
「だってあの人はすでにほしいものを手に入れているでしょう? あの人より恵まれていない私が助けてあげる必要なんてないじゃない。自分でなんとかすれば?」と思ってしまうのではないか。

しかし、公共の場で冷たくされた子持ちは、「子どもに冷たい社会だ」と恨み言をいう。それを聞いた若い人たちはどう思うだろう。「子どもを持つってなんだか怖い。激務だし、お金もかかるしみんなも冷たいし。自分にはできそうもないや」とあきらめてしまうのではないか。

これが回りまわって少子化につながっているのではないだろうか。

■もっと家族の形はゆるくていい


そう考えると、つくづく思うのである。
今の状況で「結婚しろ」「出産しろ」と余計なおせっかい発言をすることは、結果として少子化を招く。少子化をそんなに解消したいのなら、むしろ結婚や出産をしやすい環境を整えるべきなのだ。そのために、政治家にはぜひお金の再配分や制度設計の見直しをしてもらいたい。
しかし、制度だけ変わっても、私たち皆の意識が変わらないと意味がない。結婚制度をいまだに「嫁入り」だと思っている人や、男性の育休を検討すらしない人がいるのは意識が制度に追い付いていないからだ。

では、どのように意識を変えなければいけないのだろうか。
それは、ある一定の型にはまる生き方や家族をやたらと持ち上げ、そうではない人々をこき下ろすのをやめることだ。
むしろ、「私はそういう生き方をしていないけれど、それもありだよね」と尊重することではないだろうか。否定されなければ、皆もっと自分の選択に肯定感を持てるようになると思うからだ。もちろん、制度設計もその考え方に基づいて行わなければいけないと思う。

では、ある一定の型にはまらない生き方や家族というのはどういうものだろうか。
それは一生独身でいるとか、子どもを持たない選択をするだけではなくて、同性同士の結婚や結婚せずに出産すること、産みの親と育ての親が必ずしも一致しないことなども含まれると思う。

そんなことをいうと、「いや、同性同士で結婚しても子どもはできないじゃないか」「両親が揃っていないのは子どもがかわいそう」「学業に専念すべき高校生が出産なんて性が乱れてる」「産むだけ産んで育てないのは人でなし」なんて意見が出てくる。
しかし、「異性同士で結婚し、夫婦の間にできた子どもを、成人するまで夫婦(もしくはその血縁者)の手で育て上げる」という形にこだわりすぎるのは、もう時代に合っていないのではないか。そして、歴史をちょっと勉強すれば、いわゆる「標準的な家族」や「伝統的な家族」というものは特に伝統的でもなんでもないことがすぐにわかる。時代や環境に合わせて家族の形はフレキシブルに変えていったほうがいいのだ。

若い人に子どもを産んでもらって自分を養ってほしいのか、若い人に自分のやり方を踏襲してもらって自分の人生を肯定してほしいのか。その2つが両立できればいいけれど、両立にこだわりすぎるから閉塞した状況に陥っている。
誰かに「結婚しろ」「出産しろ」と言うのをやめられない人は、どちらかひとつを選ぶ覚悟が求められる時期がきているのではないだろうか。

今井 明子
編集者&ライター、気象予報士。京都大学農学部卒。得意分野は、気象(地球科学)、生物、医療、教育、母親を取り巻く社会問題。気象予報士の資格を生かし、母親向けお天気教室の講師や地域向け防災講師も務める。