強豪アル・アインで不動のレギュラーを掴んだ塩谷司【写真:Getty Images】

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連載「選択――英雄たちの1/2」―人生を変えたプロ2年目の移籍を巡る決断

 アスリートのキャリアは選択の連続だ。トップ選手が人生を変えた“2分の1の決断”の裏側に迫る「THE ANSWER」の連載「選択――英雄たちの1/2」。次世代の中高生が進路選択する上のヒントを探る。第4回はサッカー元日本代表DF塩谷司(アル・アイン)が登場。UAEで挑戦を続ける30歳はプロ2年目、Jリーグで移籍を巡る決断を迫られていた。

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 日本人として3人目のUAE挑戦。強豪アル・アインで不動のレギュラーを掴んだ塩谷は、昨年12月のクラブワールドカップ(W杯)で凱旋し、2得点を決めて準優勝。日本中をあっと驚かせた。中東の地で我が道を歩き続ける30歳にとって、人生を変えた1/2はいつ、どの時だったのか。「そうですね……」と逡巡した後、挙げたのはプロ2年目の決断だった。

「水戸から移籍する時、広島以外にもう2つのチームからオファーがあった。その時、一番試合に出られない可能性があったのが広島。すぐに試合に使いたいと言ってくれたのが2つのチーム。最終的に広島というクラブを選択したのが、自分のキャリアにとっては大きな決断だった」

 11年に22歳でプロデビューを飾ったJ2水戸で1年目からレギュラーを掴み、DFラインの主軸として35試合出場。天皇杯ではJ1のG大阪も破った。そんな活躍が目に留まり、翌年途中、J1広島を含む3クラブからオファーが届いた。当時の広島は就任1年目の森保一監督(現日本代表監督)の下、優勝争いの真っ只中。J2上がりの若武者がすぐに活躍できる保障はなかった。

 一方、残り2つのクラブは出場を確約する形のオファー。難しい決断を迫られた塩谷が選んだのは、前者だった。「現時点で日本のトップレベルにあるチームに行って、どこまで自分のサッカーが通用するのか、試してみたかった」。敢えて選んだ広島というイバラの道。そのメリット・デメリットも想定していた。

「メリットは日本で一番面白いサッカーをしているチームに加わり、練習から参加できること。DFなので練習でマッチアップする相手が佐藤寿人さん(現千葉)という当時日本を代表する凄いFW。練習が試合以上に価値があるんじゃないかと思っていた。デメリットは大卒1年目から出続けたのに、試合に出られなくなること。他の2チームを選んでいたら、すぐに出られたと思う。でも、果たして、その後どうなっていたか。今の自分のプレースタイルがあったか……」

「なんで日本よりレベルの落ちるリーグに行くんだ」と言われ、UAE挑戦した理由

 塩谷といえば、14年に開幕6戦で4ゴールするなど、年間6ゴール。ベストイレブンに選ばれたように“点が獲れるDF”として広島でブレイクした。「今の自分のスタイルが凄く気に入っているので。サッカーをやっていて楽しいし。でも、あの時にもう一つの選択をしていれば、今の自分はいなかった」と言う。

 レベルが高い環境だからこそ、オンリーワンの個性が求められ、レベルが高い環境だからこそ、失敗を恐れずにプレーできた。それによって、今までにない選手像を築けた。だからだろう。広島というクラブを選んで良かったことは――。この質問は逡巡することなく答えた。「サッカーの楽しさを思い出せたこと。あの5年間が一番、サッカーが楽しかったから」と笑った。

 選択が間違いではなかったことは、その後のキャリアが証明している。移籍1年目から激しいポジション争いを繰り広げ、翌年からレギュラーを獲得。リーグ2連覇に貢献した。14年に日本代表デビューし、16年はオーバーエイジとしてリオデジャネイロ五輪出場。日本屈指のDFにまで成長を遂げ、17年から活躍の舞台をUAEの雄、アル・アインに移した。

 決断の連続であるアスリート人生。振り返ると、選択の軸ははっきりしていた。「どうせ行くなら、厳しい方を選んできた。その方が面白いんじゃないかと思って」。その基準は塩谷のようなトップ選手に限らず、中高生にも置き換えられる。うまくなるためにはレベルの高い選手が集まる強豪校か、出場機会が得られやすい一般校を選ぶべきか。

 塩谷は「最終的に、すべては結果論」と前置きした上で、アドバイスを送る。「試合に出られる場所に行って伸びる選手もいるし、そんなレベルで活躍できないよと言われた場所でなんとか頑張って結果を残す人もいる。最後は自分次第。大事なのは、自分がどうしたいか、ということ」。そう言った後で自身の経験から、熱い本音を明かしてくれた。

「僕がUAEに行く時も『なんで日本よりレベルの落ちるリーグに行くんだ』と。去年、カタールに行った中島翔哉の時も言われたけど。それって環境が良くないと成長できないと思うから。でも、僕はそうじゃないと思っている。どういう環境にいても自分次第だから。自分がやるか、やらないか。成長したいと思うなら、自分が一番成長できると思う環境を信じて、行けばいい」

 すべては自分次第――。そうは簡単に言っても、チャンスを掴むには強い意志と向上心が必須であることは言うまでもない。では、なぜ塩谷司という選手はどんな環境でも成長することができたのか。そう問うと、真っすぐに言った。「上だけを見ていたから、じゃないですかね」と――。

忘れられない大学3年の経験、父が急逝「もう一回、頑張ろうというきっかけに」

「自分で厳しい場所に飛び込んでいく。すると当然、周りのレベルが高い。でも、そこにいることで自分も高められるから。僕も学生時代はよく文句も言ったけど、やることはやっていた。ボールを使わずに走るだけという日は『そんなの意味ないよ』と思いながら、ちゃんと設定タイムは切る。結局、自分を成長させるのは自分自身かなって」

 ただ、今こうして胸を張れるのも、大学3年生の忘れられない経験があるからだ。国士舘大進学後、思うように試合に出られず、腐りかけていた。そんな折、最愛の父が急逝。3兄弟の弟2人は大学1年生と高校1年生。母に負担がかかる。何でもいいから働いて弟を大学卒業させよう――。「もう、大学を辞めます」と大学側に伝えた。

「試合も出てなかったし、家庭の事情もある。『やり切ったので悔いはないです』と言ったら『大学にできることはサポートするから』と。試合に出てない選手にそこまで言ってくれるのは嬉しかった。その時にもう一回、頑張ろうというきっかけになった。これは、なんとかしなきゃいけないって」

 小中学生の頃は県レベルの選手で、大きな舞台は経験していない。高校では徳島商で全国選手権を2度経験したが、全国的には無名の存在。そんな選手が一歩ずつ階段を上がり、世界の舞台で戦うまでに成長した。決して順風満帆ではなかったサッカー人生。今、振り返ると、どんな記憶が思い浮かぶのか。

「報われない時間の方が長かったけど、それを忘れちゃうくらい幸せな瞬間がある。広島でリーグ優勝したこと、クラブW杯に出たこと、日本代表でゴールを決めたこと……。報われない時間より、報われた瞬間があまりに大きすぎた。それも、いろんな支えがあってこそ。だから、僕は恵まれている方だと思う」

 自身のキャリアを巡る選択について惜しげもなく語ってくれた塩谷。最後に、同じようにスポーツの第一線で活躍することを夢見る次世代の若者たちへメッセージを問うと、少し照れくさそうに笑いながら、思いを込めた言葉を口にした。

「向上心を持ち続けることかな。そして、その競技を全力で楽しみ続けること。僕もやっとサッカーを本当に楽しめるようになったけど、僕にも楽しめない時期がたくさんあった。心のどこかでサッカーが好きという気持ちがあっても、なあなあになってしまったから。それは凄く後悔している。今思うのは、スポーツを楽しむこと。それが成長するための一番の手段じゃないか」

 UAEに挑戦し、30歳にして今なお、成長を止めることがない塩谷司。夢は広がる。「なんとか頑張って30歳までと思ってプロに入ったけど、欲が出る。40歳までやりたいって」。飽くなき挑戦心を持つ男の言葉は、未来を切り開こうとする者の力となる。(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)