レッド・ツェッペリン、1975年のライブ。ロバート・プラント(左)とジミー・ペイジ〔PHOTO〕Gettyimages

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レッド・ツェッペリンと「男らしさ」の問題

若かった頃、
一人前の男になるってのはどういうことか(what it was to be a man)
教えてもらった。今、その年になって
できるかぎりその手のことを
ちゃんとやろうとはしてるんだ。どんだけ頑張っても
行き止まりに突っ込むだけなんだけどな

これは1969年にレッド・ツェッペリンが出した楽曲「グッド・タイムズ・バッド・タイムズ」冒頭の歌詞の日本語訳(拙訳)だ。ジミー・ペイジのギラつくギターにあわせてロバート・プラントが歌うこの詩は、「男らしさ」の矛盾をとてもシンプルに表している。

つまり、男の子(boy)は実は小さい時に「一人前の男」(man)というのはどういうものかに関する固定観念をたたき込まれて育つが、実際のところ、そんな概念を体現できる立派な大人の男にはなれっこない、ということだ。この歌詞は「男らしさ」の理想と現実を簡潔に歌い上げている。

この曲は名曲だが、レッド・ツェッペリンが悪い意味で「男らしさ」にとらわれたバンドだったことを考えながら聴くと、さらに面白い。紛れもなく史上最高のロックバンドのひとつだったが、人格は別だ(バンドとしての人格、性格に問題がありすぎて、レッド・ツェッペリンを題材に『ボヘミアン・ラプソディ』みたいな感動映画を作るのはまず無理だろう)。

2012年に作られた『サンセット・ストリップ ロックンロールの生誕地』というドキュメンタリー映画ではシャロン・オズボーンが、いかにレッド・ツェッペリンが女性ファンの忍耐を試すような行為をわざとやって面白がっていたかを回想している。

オジー・オズボーンの妻であるシャロンはちょっとやそっとのご乱行では驚かないはずだが、そのシャロンを引かせるくらいにグルーピー(熱狂的なファン)に対するモラハラがひどいバンドだった。未成年のファンを誘惑し、酔っ払って女性に暴力を振るうなど、たくさん悪行をやらかしている。

レッド・ツェッペリン、1975年のライブ。ロバート・プラント(左)とジミー・ペイジ〔PHOTO〕Gettyimages

問題は、こういう行為が「音楽的には凄いけど倫理的に問題あるよね」ではなく、「ロックスターはあれくらいワイルドじゃないと」と受け取られがちだったことだ。男性、とくに才能溢れる男性芸術家というのは、乱暴で他人を尊重しなくても許される、むしろそのほうが男らしい、という考えが70年代頃のロックの世界には満ち満ちていた。

レッド・ツェッペリンの曲には自由や束縛からの逃走に関するものもたくさんあるが、実は伝統的な「男らしさ」の檻にとらわれていた。レッド・ツェッペリンにはそもそも「一人前の男になる」ことについて、何か悪い思い込みがあったのかもしれない。

男の子は社会的に作られる

では、レッド・ツェッペリンみたいにならないためにはどうしたらいいのだろうか。そうした関心に応えてくれるのが、「グッド・タイムズ・バッド・タイムズ」の冒頭とほとんど同じ問いをタイトルにした、レイチェル・ギーザ『ボーイズ――男の子はなぜ「男らしく」育つのか』(冨田直子訳、DU Books、2019)だ。

この本の原題はBoys: What It Means to Become a Manで、「男の子――一人前の男になるとはどういうことか」といったような意味だ。これは女親ふたりで息子を育てるフェミニストのギーザが、息子と男子文化とのかかわりについての不安を出発点に、母として「男であることの意味を再考し、つくり変えていくにはどうするべきか」(p. 21)考えた本だ。

「はじめに」でギーザが述べているように、男らしさには「身体的な攻撃性、性的な支配性、感情的にストイックで、タフで、自己制御力があること」(p. 17)などが含まれると考えられているが、こうした特質は実のところ、あまり良いものではない。最初のふたつは社会生活を送るにあたってはむしろ悪徳だし、後者の感情を抑えなければいけないという規範も、抑圧的になりうるものだ。

子供たちは、こうした問題含みの性質が男らしさだということを社会的に植え付けられて育つ。伝統的なジェンダーステレオタイプのせいで、学力不振、退学、暴力犯罪などが「男の子だから」として見過ごされたり、きちんと批判・分析されずに単に不安を煽るだけのような形で放置されたりしてきた。『ボーイズ』はこういう状況を打開する試みだ。

『ボーイズ』の基本的な立ち位置は、いわゆる「男らしさ」、とくに「有毒な男らしさ」(p. 27)の多くが「文化的創造物」(p. 28)だというものだ。

第一章では、「男らしさ」に関する考え方は時代や地域によって異なるもので、人種差別とも強い関連があることが明らかにされる。たとえば、アメリカ社会におけるアジア系の男の子は大人しくてよく勉強すると考えられているが、これはアメリカ的な「男らしさ」とはかけ離れた特質で、明らかに人種差別の影響が見受けられる。アジア系は「女々しい」というわけだ。

「男らしさ」は普遍的な概念ではなく、社会や時代の影響で恣意的に決められる曖昧な性質だ。この曖昧な理想像のせいで非白人やセクシュアルマイノリティの男の子は仲間外れにされるし、型にはめられて自分の能力をのばせない男の子も出てくる。

ステレオタイプが覆い隠す社会問題

この本は、「男の子は〇〇だから」という一般化により、人々が社会問題にきちんと向き合わなくなる危険性も指摘している。

女の子に比べると男の子のほうがコミュニケーションが苦手だというステレオタイプがあるが、実際には男の子も女の子同様、何でも話せる友人との親しい付き合いを必要としている。それにもかかわらず、大人の男は弱みを見せないものだという考えが支配的なので、若い男性は悩みを友人に打ち明けられず、精神的な問題を抱えるようになりがちだ。

これにはニセ科学的ないわゆる「男女脳」の問題も絡んでおり、脳の性差のせいで男の子は人間関係や学業などについて女の子ほどうまくやっていけないのだ、という主張がまことしやかにささやかれることがある。

しかしながら、実際は性別よりも人種や経済格差のほうが学業成績に大きな影響を及ぼしていることがわかっており、たとえばアメリカ社会においてはマジョリティである白人ミドルクラスの男の子はそれほど学業成績の問題を抱えていない(p. 167)。

つまり、男女の差異を強調する主張は、結果的に貧困問題や人種差別を覆い隠す働きをするようになってしまっているのだ。男の子が問題を抱えている原因は生まれつきではなく、社会的なものなのかもしれないのに、人々はきちんとこれに向き合ってこなかった。

檻から出るために

『ボーイズ』が提案するのは、子供ひとりひとりと向き合い、型にはめないように丁寧な教育、とくに性教育を行うことだ。さまざまな研究や教育実践が紹介されているが、ほとんどはいわば子供たちが社会から既に自然と身につけてしまった偏見を振り落とすための介入だ。

第一章は大学で行われている「マン・ボックス」という教育実践の紹介から始まるが、これは「男らしさ」が社会的に作られたものであることを考えるためのワークショップだ。第七章ではオランダで行われている人間関係や恋愛をしっかり考えるための性教育や、カナダで男の子向けに行われている「ワイズガイズ」という先進的性教育プログラムが取り上げられている。こうしたプログラムのおかげで、男の子たちは性や人間関係に関してオープンに考えられるようになる。

ここで大事なのは、のびのび自由にさせるだけでは、実は子供たちは自由に生きられないということだ。子供は早い時期から、社会に流通している固定観念を吸い上げて育つ。その結果として、男の子は人に頼ったり、感情を表現したりしてはいけないのだとか、優しく穏やかなのは男らしくないとか、のちのちかえって自分も他人も苦しめることになるような価値観を内面化してしまう。

片田孫朝日『男子の権力』(京都大学学術出版会、2014)第1章では、児童中心主義にもとづいて子供の個性を尊重する学校教育が、実は男の子のいじめや偏見を放任しがちになる場合があることが指摘されている。人間は成長に従っていろいろな偏見を身につけ、自ら檻を作って入ってしまう。檻から出るには、檻を壊す方法を学ぶ必要がある。

『ボーイズ』は、男の子が男らしさの檻から出られるようにはどうすればいいのか、いろいろな事例をあげて解説している。この本は男であることの全てが悪いと言っているわけではない。終章では「若い男性たちがより包括的でのびのびとしたマスキュリニティを選び取る」(p. 323)手助けが必要だと書かれている。

自分が男であることをのびのび楽しむのは別に悪いことではないし、伝統的に男らしいとされている特質で、いわゆる暴力的な「有毒な男らしさ」ではない、誰にとっても美徳と思えるような特質はいくつもある。

大事なのは、男の子が均質な集団ではなく個人差がとても大きいことを認識しつつ、男性であっても「優しさや慈しみの気持ち、豊かな表現力や傷つきやすさを見せること」(p. 327)は全く問題がないのだと示すことだ。ギーザはそうするためにはどうすればいいのか、いろいろな実践例をあげて説明し、男の子を育てる親たちを励ましている。

男の子の不利益

個人的なことで恐縮だが、私はこの本を読んで、女で良かった…と思った。というのも、私はこの本で指摘されている伝統的かつ有毒な男性性をたっぷり備えていると思われる女性だからだ。私は非常に人間が嫌いで、所謂コミュニケーション力が欠如している。他人の感情を読み取ったり気遣ったりするのは苦手である。そのわりにケンカが大好きで、人と争うことが全く苦にならない。

もし男の子として育てられ、この本で述べられているような伝統的な男らしさを吸い上げて大人になっていたとしたら、たぶん所謂アンガーマネジメント(怒りのコントロール)の問題を抱えるようになっていただろう。音楽の才能がないレッド・ツェッペリンみたいになっていたかもしれない(考えるだに悲惨だ)。今、比較的健康に暮らせているのは、たぶん女の子として育てられたおかげだ。

女の子として育てられた人間にはいろいろ社会的に不利なことも起こるが、一方で暴力的、支配的であることが良いという価値観を植え付けられて大人になる機会はめったにない。穏やかさとか優しさが美徳だということを教えられる。

『ボーイズ』に書かれていることをよく考えると、男の子はこういう美徳を教育によって身につけるチャンスを奪われがちだということがわかる。これは男の子の教育にとって大きな損失だし、おそらく精神の安定にも悪い影響が及ぶ。男らしさに関する固定観念のせいで、男の子は相当な不利益を被っている。

男らしさを解体し、男の子の育て方を考え直すことは、男の子の利益につながるだろう。より自由で楽しく、精神的に安定した人生を過ごすきっかけになるかもしれないからだ。