レアル・マドリードに入団後、北米ツアーに参加した久保建英は、着実に試合出場時間を重ねている。

 バイエルン戦では、鮮烈なスルーパスで、色眼鏡で見ていた感もあるファンのど肝を抜いた。タイミングをずらして2人を置き去りにするドリブルも出色だった。3−7で大敗したアトレティコ・マドリード戦でも、短い時間の出場ながら、目覚ましいシュートでチャンスを広げた。

「このチームに何年もいる選手のようだ」

 レアル・マドリードのジネディーヌ・ジダン監督が久保建英に対して送ったメッセージは、最高の賛辞と言えるだろう。現状での最大の評価であるのと同時に、将来の可能性を示唆している。


アトレティコ・マドリード戦に62分から出場した久保建英

 なぜ久保はこれほどまでに早く世界王者クラブで適応できているのか。

「語学力を含めたコミュニケーション能力」が頼もしい味方になっているのは、間違いないだろう。

 久保のスペイン語の能力は非常に高い。語彙力の豊富さについては不明ではあるものの、発音や文章構成力は舌を巻くほど。日本人としては図抜けている。スペインメディアの取材も直接受けており、その流暢さはネイティブ同然だ。

 ドイツ、オランダ、ベルギーなどのリーグでは、多くの日本人選手が、現地の言葉を話せなくても成功をつかんでいる。日本人のよさである勤勉さや献身性が尊ばれるため、立場が与えられているのだろう。そこから派生した行動やプレーも、正しく(日本にいたときと同じように)評価されるのだ。

 ところが、スペイン、イタリア、フランス、南米では、選手たちに即興性や自己表現力を求める。物事に即座に対応し、話ができないような選手に対し、残酷なまでにリスペクトが与えられない。つまり、どれだけ真面目でも、周囲から一目置かれないのである。

 過去にスペインでプレーした日本人選手たちも、言葉の問題を抱え、やがて孤立した。現地の番記者にも呆れられ、嘲笑される場面さえあった。選手同士の付き合いをせず、自宅に戻って日本のドラマを見て、ゲームをしているような選手は軽視される。

 かつて韓国代表のスターだったイ・チョンスは、スペインの2部クラブでチームメイトにスパイクをプレゼントしていたら、陰で「スパイク」とあだ名をつけられた。あくまで好意でやっていたはずだが、それを逆手に取られてしまうのである。

 スペインで唯一、シーズンをとおして活躍をすることができた乾貴士(エイバル)のケースは、例外的だ。ひとつには、エイバルやアラベスのあるバスク地方は、スペインのなかでも独自の文化、言語、性質を持っているという理由もある。日本、もしくはドイツに近いのだ。

 ずる賢く生き抜けるか――。その点で、久保は飛び抜けて能力が高い。語学力だけではなく、空気を敏感に感じられるのだろう。

「必要以上に騒がないでほしい」

 北米遠征で久保が、大挙押しかける報道陣に対して異例の自制を促したことがあった。自分だけが目立つことに、チームメイトの間で嫉妬が生まれることを危惧したのだろう。実力以上に騒がれる選手に、彼らは嫌悪に近い感情を抱くからだ。

 久保は、豪放磊落なタイプの人間だろう。FC東京時代、16歳でトップチームに加わった時も、「何の違和感もなかった」と、同僚の選手たちが驚くほどだった。ロッカールームに大声で歌いながら入ってくることもあった。卑屈になることなく、偉ぶるわけでもなく、自然に振る舞っていたという。語学力だけでなく、人間としての関係を結べるのだ。

 たとえ言葉が話せなくても、明朗さを持ち、周りと協調できるか。イタリアに定着した長友佑都(ガラタサライ)などは語学力以上に、その点が傑出していたと言えるだろう。たとえば、チームの主力選手といい付き合いができるようになったら、冷たく扱われることはない。

「パーソナリティ」

 それが、スペインやイタリアのような国で成功するための条件と言われる。それは単純な優しさや人のよさ、真面目さを意味するのではない。人間として付き合うなかで敬意を勝ち取れるかという、”生きる強さ”を指している。集団のなかで戦術的に戦える姿を提示し、人間性を認めてもらうことで、パスもくるし、パスを呼び込むために走ってもらえるのだ。

 久保には、ほとんどの日本人選手が持っているハンデがない。マイナスからのスタートではなかった。それによってストレスがなく、精神的に安定していることで、力を出し切れているのだ。

 今後、久保が批判に晒される局面もあるだろう。しかし、賞賛は批判を含んでいるし、批判は賞賛を含んでいる。18歳の日本人FWは一喜一憂せず、したたかに向き合っていくに違いない。