教育学者の苫野一徳氏が、日本の教育体制が起こす「落ちこぼれ生徒」問題の本質について説きます(写真:anurakpong/iStock)

学校で「落ちこぼれ生徒」が出てくるのはなぜか? その理由と現在の公教育が抱える問題点を、これまで数多の教育現場に携わってきた教育学者の苫野一徳氏による新書『「学校」をつくり直す』から一部抜粋してお届けする。

学校に通う子どもたちが、どういうわけだか幸せそうじゃない。もちろん、幸せな子どももたくさんいるには違いありませんが、それでもやっぱり、何かがおかしいと思っている保護者や子どもたちは少なくないはずです。

理由はもちろん、人それぞれです。いじめ、体罰、過度の管理・統率、厳しすぎる校則、空気を読み合う人間関係、落ちこぼれ……等々。

でもこれらすべての問題の根底には、ある共通の本質がある。わたしはそう考えています。

結論から言ってしまいたいと思います。公教育が始まって、約150年。学校教育はこれまで、ずっと変わらず、基本的に次のようなシステムによって運営されてきました。すなわち、「みんなで同じことを、同じペースで、同質性の高い学級の中で、教科ごとの出来合いの答えを、子どもたちに一斉に勉強させる」というシステムです。

ところがこのシステムが、今いたるところで限界を迎えているのです。

生徒が「落ちこぼれる」問題

1つの象徴的な例が、嫌な言葉ですが、いわゆる落ちこぼれ・吹きこぼれ問題です。多くの人は、「落ちこぼれ」は、その子の理解力が低いから生まれるものだと思っているのではないかと思います。でも実は、これはシステムによって構造的に引き起こされている側面が非常に大きいのです。

考えてみれば当然のことです。みんなで同じことを、同じペースで勉強していれば、一度つまずくと、そのまま取り残されるということがどうしても起こってしまうからです。内容が理解できないまま、授業はどんどん進んでいきます。結果、その子は「落ちこぼれ」のレッテルを貼られてしまうことになるかもしれません。

でもそれは、本当にその子の理解力がもともと低いから起こったことなのでしょうか?

たまたま、ある大事な授業の日に体調が悪かっただけかもしれません。あるいはお休みしてしまっただけかもしれません。たまたま、その年に嫌いな先生に当たってしまったのかもしれません。あるいは先生の教え方が合わなかったのかもしれません。

でも、「みんなで同じことを、同じペースで」が学校のシステムである以上、先生は、ついていけない子がいたとしても、どんどんと先に進んでいくほかありません。一斉授業・画一カリキュラムが中心の学校では、どのクラスをのぞいても、ほとんどの場合において、授業についていけずに辛そうな顔やつまらなそうな顔をしている子どもたちが一定数いるものです。

一度「自分は落ちこぼれなんだ」と感じてしまった子どもが、学びへの自信、もっと言えば自分自身への信頼を回復していくのは並大抵のことではありません。これは、システムが生み出したある意味で“罪”とさえ言えるのではないかとわたしは思います。

ほとんどの先生が、この問題にはもちろん気がついていて、どうにかしたいと思っています。でも、システムがかなりの程度画一的である限り、すべての子どもに個別対応することは現実的にはとても困難です。その結果、年に何人もの“落ちこぼれ”の子どもが出るのに慣れてしまった先生たちの中には、「そういうものなのだ、仕方ない」と諦めてしまう人も少なくありません。

変えるべきは「今のシステム」

ベテラン先生だけではありません。ある新米先生からも、こんな話を聞いたことがあります。

「授業で時計の読み方について学習をしたんですが、理解できない子どもも少なくありませんでした。だから、その単元を何とか終えたときにはとてもホッとしたんです」

授業時数はあらかじめ決められていますから、その時間内に理解できなかった子どもたちは、結局わからずじまいのまま、次の単元に進んでいかなければなりません。でもその先生からすれば、とにもかくにも、授業自体は予定どおりにやり遂げたのです。

気持ちはよくわかります。でも厳しい言い方をすれば、それは教師としての責任の放棄です。教師の重大な責務の1つは、言うまでもなく、子どもたちの学力──それが何を意味するかについては、またあとでじっくり論じることにしたいと思います──をしっかり保障することにあります。理解できない児童生徒を放って、何とか授業をこなしていけばいいなどということはないのです。

でも、その先生を過度に責めてはならないとも思います。責められるべきは、やはりシステムなのです。「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で」学習する、150年も変わらず続く学校のシステムなのです。

とはいえもちろん、国際的に見ても優秀と言われる日本の教師は、これまで多くの場合、“しんどい子”に対してもしっかり個別にサポートすることを怠りませんでした。その点、わたしたちは日本の先生の責任感と、これまでに達成してきた教育水準に自信を持っていい。

でも、みなさんご存じのとおり、今や日本の学校の先生は、世界でいちばん忙しくなってしまいました。2013年に実施されたOECD(経済協力開発機構)の調査によって、日本の教員の週平均労働時間は世界最長であることがわかりました。

雑務の増大、子どもたちの多様化、特別な支援を要する子どもたちの増大、保護者の要求の増大、部活動の仕事の増大などに追われて、日本の先生たちは、総体的に見て、かつてのようなきめ細かな「個に応じた支援」ができなくなってしまっているのです。

「落ちこぼれ」の反対が、これまた嫌な言葉ですが、「吹きこぼれ」と呼ばれるものです。すでにわかっていることを、何度も繰り返し勉強させられることで、勉強がイヤになってしまう子どもたちのことです。一斉授業、画一カリキュラムが中心の教室には、授業についていけずにつらそうな顔をしている子どもと同じくらい、すでにわかっていてつまらなそうにしている子どもたちが一定数いるものです。

「みんなで同じことを、同じペースで」やらなければならない授業においては、先生は、そんな子どもたちが勝手に先へ先へと進んでいくことを許すわけにはいきません。だから多くの先生は、不本意ではあっても、その子たちに学びのペースを落とすよう強いなければならないのです。

これでは、学校が楽しくなくなってしまうのも無理はありません。「吹きこぼれ」の子どもたちからすれば、このような学校の授業はムダだらけです。今日の「めあて」をみんなで一斉に唱和するのに始まって、教科書の決められたページをみんなで繰り返し読んだり、すでにわかっていることを一方的に教えられたり。45分もの間、なぜみんなと同じことをやり続けなければならないのか。そう思っている子どもたちはたくさんいます。

「落ちこぼれ」の子どもたちにとっては、それは最もムダな時間と言えるかもしれません。周囲のクラスメイトが先生の発問に対して活発に発言をしているその傍で、何のことか意味もわからず、じっと時間が過ぎるのを耐えている……。

こうした状況は、やはり抜本的に変えなければなりません。近年では、こうした問題に対応するため習熟度別指導がかなり一般化していますが、これもまた、実は大きな問題を抱えています。

「習熟度指導」が抱える問題

端的に言うと、子どもたちの間で、「学力」というたった1つの評価軸において「できる子」と「できない子」という分断が生まれ、過度の、そしてその後の人生に根強く残る、優越感やとりわけ劣等感を生じさせてしまう傾向があるという問題です。


もちろん、習熟度別指導は、本来そうした感情や競争をあおるためのものではなく、すべての子どもの学びを保障するために行われている方策です。でも、望むと望まざるとにかかわらず、習熟度別指導には、このような問題が起こってしまう傾向があるのです。

この社会は競争社会、だから子どもたちも、早いうちから競争して何が悪い、という考えもあるかもしれません。でも、少なくとも学びの保証という観点から言えば、子どもたちは、安全安心の空間の中で、それぞれのペースが尊重され、そして「ゆるやかな協同性」に支えられた中で進めたほうが、競争のプレッシャーや分断の中で学ぶより圧倒的に充実した学びができるものなのです。