高校時代は無名だったという旗手は、いかにして大学屈指のアタッカーに成り上がったのか。ここまでのキャリアを振り返ってもらった。写真:茂木あきら(サッカーダイジェスト写真部)

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 2020年に開催される東京五輪。本連載では、活躍が期待される注目株の生い立ちや本大会への想いに迫る。
 
 4回目は、力強いドリブルと豪快なシュートが持ち味の、大学屈指のアタッカー旗手怜央が登場。
 
 三重県の強豪チームFC四日市で小学、中学時代を過ごし、高校では名門・静岡学園へと越境入学する。
 
 そして順天堂大へと進学後、世代別の代表にも選ばれ、メキメキとその頭角を現わしてきた。来年には川崎フロンターレへの加入が内定している。大学サッカーの枠を飛び越えて活躍する21歳はどんなサッカー人生を歩んできたのか。中編では、10番を背負った高校3年次から大学進学までを深く掘り下げる。一度はスタメンを外される時期にも腐らなかった――そのエネルギーの根源とは。

前編はこちらから
【連載・東京2020】旗手怜央/前編「大学屈指のアタッカーはいかに育ったのか。名門”静学”を選んだ理由」
 
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――高校3年生では10番を背負い、責任感が芽生えたのでは?
「もちろんです。静学の10番となれば、当然他の人と違わないといけません。単なる憧れだけではつけられないし、相応の重責を感じていました。それでも僕は入学当時から10番を背負うことが目標のひとつでもあったので、それが叶った時は本当に嬉しかったです」
 
――自分から志願したのですか?
「いえ、監督から発表されたんです。あれは、2年生の時の新人戦でした。メンバーに入る確信はあったんですけど、何番になるだろうと。あれだけドキドキしていたのは多分僕くらいだったんじゃないですかね」
 
――ところが、一度10番をはく奪される時期があったとか。
「はい。3年のインターハイ前に一度……」
 
――一体、何が?
「高校選抜に呼ばれるようになっていて、天狗になっていたんです。それを見ていた監督にスタメンから外されて……。今振り返れば、監督から心配してもらっていたんだと思います。このままでは僕が選手として錆びついてしまうんじゃないかと」
 
――有頂天になっていた自覚はある?
「今思うと、完全に調子に乗っていましたね。練習で削られた時に監督に『大丈夫か』と声をかけられても、そっけない態度を取ってしまったり……。自分では返答したつもりでも相手に伝わっていなければ意味がないし、そういう些細なことにも甘さが出ていたなと。一度スタメンから落とされたことで、改めてサッカーに取り組む姿勢を考えさせられました」
 
―――10番を取り返すまで、這い上がれたエネルギーはどこに?
「負けず嫌いな性格も関係していたのかな。メンバーから外されたままでは絶対に嫌だったし、みんなにも負けたくなかった。そういう想いはありました」
 
――高校時代はいろんな誘惑があったはず。周りの生徒はアルバイトをしたり、遊びにいったり……それをどう断ち切った?
「寮生活だったのは大きかったです。グラウンドと学校の間のちょうど間にあって、授業以外の時間はほとんどグラウンドか寮にいたので、そもそも、そんなに誘惑に触れずに済みました。自由な時間はたしかに多かったし、特に土日は、午前中の練習が終わったら午後はフリーでしたけど、練習に打ち込めました」
 
――まさに、サッカー漬けですね。
「高校の時はほとんどサッカーしかやっていないです。勉強もテスト前に詰め込むみたいな感じで(笑)。と言っても授業はちゃんと受けていましたよ。起きて、朝練をやって、学校で授業に出て、夕方からまた練習して、帰ってきて風呂入って寝る。これが平日のスケジュール。土日は午前中が練習で、昼まで自主練をして、帰って昼飯を食べて、疲れを取るために昼寝して、その後みんなで晩ご飯を食べて、帰ってきて寝る、みたいな。ずっとその繰り返しでした」
 
――どこかに出掛けたりは?
「たまに映画を観に行きました。静岡市内の映画館まで少し距離があったので、それも頻繁には行かなかったです」
 
――1か月に、自由に動ける時間はどれくらいあった?
「毎週月曜日はオフでした。でもなんだかんだ学校で授業受けた後は、ボールを蹴ってましたね。『遊び=サッカー』って感覚でした。出掛けるのは、親がリーグ戦を見に来てくれた時に、一緒に外食に行ったり、銭湯に行ったりするくらいで」
 
――お父さんとは当時どんな話を?
「サッカーの話とかいろいろです。小さい時から父親と会話する機会は多くて、特に風呂で話す時間はすごく楽しかったです」
 
――お父さんに言われて印象に残っている言葉は?
「『部屋が汚いと怪我をする』と。自分の身の回りのことができないのに、自分の身体なんて気を遣えないだろうって。あとは『継続は力なり』。それは今の自分のモットーでもあります」
 
――そう言われて生活は変わった?
「元々綺麗好きで、物をあまり置かないので、そんなに部屋は散らからなかったですけど、より徹底するようになりました。今は一人暮らしで、部屋の掃除は週に2回、トイレと風呂もいつも綺麗にするように心掛けています。スポーツ選手にとって、怪我しないことは一番大事だと思うし、それが一番難しいと思う。それは父親に言われてすごい考えさせられましたね」
 
――高校時代の経験で、今活きていることは?
「僕は決して天才と言われるようなタイプではなかったので、多分高校3年間は誰よりもサッカーに真摯に向き合い続けた。先ほども言いましたけど、それが僕の唯一の能力だったし、それこそが今に活きているものです。今でもサッカーに対して、すべてを注いでいます。大学生になって身体の面もすごく気を遣うようになって、食事もしっかり自炊しているし、睡眠時間にも気を遣っています。それは高校3年間で身に付けられたからだと思います」
 
――では試合で勝つために、最も意識的に取り組んでいたのは?
「個の技術を徹底的に磨くこと。技術は磨けば磨くほど身につきますから。静学は守備や攻撃の組織練習はほとんどしなくて、個々の技術とアイデアが重視されるチームでしたし、中学時代の自分に足りない部分だと感じていたので。まあ今フロンターレで活躍している大島(僚太)さんや長谷川(竜也)さんなど歴代の選手たちに比べたら、全然うまくなかったですけどね。テクニシャンが揃っていたチームのなかで、僕は『静学っぽくない』って言われましたから。でも、確実に向上していた実感はありました」
 
――それから順天堂大に。大学進学しようと思ったのはなぜ?
「単にプロクラブから声がかからなかったんです。10番を着けていたとしても全然注目されていなかったので。でも順天堂大と国士館大からはオファーをもらえて、大学でもう一回4年間勝負しようって」
 
――もっとも大学に入って学べたものも多かったのでは?
「授業を自分で選択したり、サッカー以外の時間をどう使うかを身に付けられた。ご飯の献立も自分で考えないといけないですし。プロだと管理栄養士とかついているチームもあるけど、僕にはついていませんから。そういうことを自分でやらないといけない。
 
 大学って、やるもやらないも自分次第だと思うんですよ。だからプロにいくのも、その道から逸れるのも紙一重だと思うんです。自分をブレさせない――しっかりと目標に向けってやっていく部分で、そういう力はすごくつきました。トレーニングはみんな同じメニューなので、差がつくのは自主練習や私生活の部分。今日はしっかり寝て休むとか、ファストフードではなくて、しっかりと栄養のある食事を取ったりとか、私生活で自分自身と向き合えたのは大きいです」
 
――現役時代に日本代表だった堀池巧監督の指導を受けられたのも大きい?
「サッカーに熱いし、現役の時に悔しい経験もしている人で尊敬しています。僕が代表にいくようになってからはいろんな話をしてくれました」
 
――言われて心に残っている言葉は?
「オフ・ザ・ボールの時の動きは、堀池監督に言われて考えるようになりました。守備の部分でも大学に入ってもう一回考えさせられた。その点では順大に入ってすごく良かったです。順大じゃなかったら、代表にも入れなかったと思うし、フロンターレの内定ももらえなかったんじゃないかな。他の大学に入ってみないと分からないですけど、僕は順大に入って正解でした」
 
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 技術を磨き続け、責任感も強めた高校3年次。しかし「無名だった」静学の10番には、プロクラブから声がかからなかった。それでも大学に進学し、選手としてだけでなくひとりの人間として逞しく成長していった。
 
 7月22日にお届けする後編では、川崎の内定を決めた理由と東京五輪への想いを伝える。また憧れの選手、大学界でしのぎを削る上田綺世と三笘薫についてのコメントも必見だ。
 
PROFILE
旗手怜央/はたて・れお/1997年11月21日生まれ、三重県出身。172臓70繊FC四日市ジュニア―FC四日市―静岡学園高―順天堂大(2020年川崎加入内定)。高校時代には2年次の全国選手権に出場し、チームのベスト8進出に貢献。10番を背負った3年次には全国大会には出場できなかったものの、高校卒業後に順天堂大に入学した。1年次に関東大学サッカーリーグで9ゴールを決めて新人王に輝くと、2年次には全日本大学選抜や世代別代表にも選ばれるようになる。3年次には複数のJクラブの練習に参加し、2020年の川崎への入団が内定した。

取材・文●多田哲平(サッカーダイジェスト編集部)