「麺家 うえだ」女性創業者が悩み抜いた引き際
「麺家 うえだ」の創業者であり店長の上田みさえさん(筆者撮影)
20年のラーメンづくりから「卒業」
6月30日、埼玉県新座市にある有名ラーメン店「麺家 うえだ」の女性創業者が、お店から「卒業」した。上田みさえさん(76歳)がその人だ。東武東上線志木駅から徒歩8分に立地する行列のできる人気店である。
【2019年7月17日7時45分追記】初出時、「麺家 うえだ」の所在地に誤りがありましたので表記のように修正しました。
上田さんは56歳で「麺家 うえだ」をオープンしてから、20年間にわたって数々の苦難を乗り越えながらお店を存続させてきた。70歳を過ぎても厨房に入り、自らスープを作り、麺上げや盛り付けまで行っていた。
街の中華料理店やラーメン店の店主は高齢化が進んでいる。厚生労働省医薬・生活衛生局の2016年調査によると、中華料理店(ラーメン店含む)の経営者の年齢別の構成割合は下記のとおりとなっている。
30歳未満 0.5%
30〜39歳 6.8%
40〜49歳 18.3%
50〜59歳 29.8%
60〜69歳 30.6%
70〜79歳 13.1%
80歳以上 0.8%
「60〜69歳」の割合が最も多く、「50歳以上」で見ると74.3%とほぼ4分の3を占めている。しかも、全体の68.0%が個人経営店であり、高齢の店主が個人で開いている中華料理店やラーメン店がいかに多いかがわかる。
後継者不足に悩む店主も多く、全体の69.1%が「後継者なし」と答えている。現代の価値観の中で「家業」という考え方が薄れ、子どもに後を継がせたいという店主が少なくなってきているのが現状だ。中華料理店やラーメン店の後継者問題の現実と引き際のタイミングを、上田さんの半生を振り返りながら考えてみたい。
上田さんの「卒業」発表後、多くのラーメンファンや常連が「麺家 うえだ」を訪れ、皆口々にねぎらいの言葉をかけた。そんな上田さんの20年間のラーメン人生は実に波瀾に富んだものだった。
店の前には「卒業」に贈られた花が(筆者撮影)
27歳までインテリアデザイナーとして働いていたが、女手ひとつで息子を育てるために31歳で飲食業の道に踏み出す。
コーヒー専門店から始まり、焼き鳥屋、居酒屋、焼き肉屋と、25年の間で4店舗を経営した。ホールはアルバイトに任せられるが、厨房で味を守るのは自分だと、お店を立ち上げるたびに修業をし、数々の料理を覚えた。とにかく子育てのためにがむしゃらに突き進んだ25年間だった。
ラーメン店を始めたきっかけ
息子が結婚をしたことをきっかけに、自身の経営を見直す。なかなか信頼のできる部下に恵まれず、人を雇用するということ自体にも疑問が湧いてきていた。人に頼ることなく全工程を1人で完結できる飲食業はないものか、上田さんは考えた。
そこで行き着いたのがラーメンだった。上田さんは経営している店を整理し始め、同時にラーメン店のテナント契約をした。すでにそのとき上田さんは56歳になっていた。
焼肉店で培ったノウハウを応用し、牛骨でスープをとってラーメンを作った。家ではおいしく作れるものの、店の大きな寸胴ではなかなかうまくできない。結局2カ月お店は開けられなかった。
ようやくラーメンを完成させた上田さんは、1999年6月に埼玉・志木に「鬼火山」をオープンした。評判は上々。オープン当初から話題となり、ラーメン評論家やテレビの取材も入った。
しかし、開店から2年、2001年に突然悲劇が訪れる。狂牛病(BSE)問題だ。ラーメンに“牛骨”を使っていたため、すぐにすべての雑誌の掲載がアウトになり、テレビの取材が来てもBSEについてのコメントを求められるばかりだった。
数々のメディアの報道の影響で、上田さんのお店は世間からBSE発症地のように見られるようになった。お客さんはみるみる減り、売り上げも地に落ちた。「夜寝たらこのまま朝が来なければいいのに」と何度も思ったという。
家も売り、父と息子に援助してもらうことで何とか店は存続できそうだったが、牛骨をやめ、違うスープのラーメンに変えることを余儀なくされた。「スープを変えます」という貼り紙を貼るところまで撮らせてくれとテレビ局のカメラに追い回された。
次に選んだのは鶏だった。薩摩シャモと地鶏を使ったスープを完成させ、再出発した。1年ほどが過ぎて口コミでお客さんが増え始め、ようやく順調に進み始めたと思ったところで、再び悲劇が訪れた。
2004年、鳥インフルエンザが発生したのだ。風評被害は甚だしく、お客さんは一気に引いてしまった。この時期上田さん自らもいつの間にか生卵を自然に避けてしまっていることに気づき、鶏で続けることは難しいことを悟った。年齢はすでに61歳になっていた。
最後に行き着いた、豚骨の「特濃」
牛、鶏を封じられ、残るは豚しかなかった。当時は濃厚豚骨魚介ラーメンが全盛で、今さらそこに手を出すことはできなかった。2度も失敗しているのだから、並のラーメンでは世間は納得しないこともわかっていた。
行き着いたのは「特濃」だった。流行りの濃厚系をはるかに上回る豚骨の濃度を目指し、ドロドロのスープを考案した。2004年4月、屋号を「麺家 うえだ」に変え、上田さんは再出発した。
この特濃ラーメンは「泥系」として注目を浴び、完全復活した。
「麺家 うえだ」特製の焦がし特濃らーめん(筆者撮影)
2009年からは埼玉にご当地ラーメンを作ろうと立ち上がり、みたらし団子からヒントを得た「焦がし正油ラーメン」を考案。両手にバーナーを持って醤油ダレを炙るパフォーマンスが一躍有名になり、大ヒットした。
県内の有名店を集め、東京ラーメンショーをはじめとする全国のラーメンイベントに次々と参加し、埼玉県内に「焦がし正油ラーメン」を増やしていった。
「特濃」と「焦がし」で連日行列の人気店となった「麺家 うえだ」。しかし、上田さんの年齢的な問題が徐々に浮き彫りになってきた。東京ラーメンショー2015では無理がたたり骨折。その後もイベントに出続け、3本の骨を折ってしまった。これ以上続けていっても体力は次第に落ちてくる。引き際を悟った上田さんは、実は昨年10月から引退に向けての下準備を始めていた。
「まだ元気なうちに辞めたいなと思ったんです。私はメディア的に“いつまでも元気な店主”というイメージがついているから、衰えを見せたくないんですよ。『昔は元気だったのになぁ』と言われたらおしまいです。そう言われてしまう前に20年をひとつの区切りにしようと思ったんです。なので『引退』ではなく『卒業』という言葉を選びました」(上田さん)
上田さんは自らが退くにあたって、事業継承先を探した。
「麺家 うえだ」と店長の上田さん(筆者撮影)
カリスマ的な創業者によって大きくなったお店は、後継者問題がとくに難しい。失敗例も多くある。そんな中で上田さんは従業員を育てて後を継がせるよりも、もしこのお店を継承してくれるところがあるならば譲ろうと考えた。
自分が無理して続けるよりは、きちんと継承してくれるところに任せて自分の味を進化させてもらったほうがいい、そう思ったのである。
手を挙げたのは朝霞の「中華蕎麦 瑞山」だった。上田さんは厨房に入り「瑞山」のスタッフにラーメン作りを教えながら、卒業までの数カ月を過ごした。
ラーメン職人という生き方
「私のラーメンが一生残ればいいとは思っていないんです。若手の店主は新しいラーメンをどんどん作っていますし、これから先も新しいおいしいラーメンというものは出てくると思います。
『麺家 うえだ』はその中の1ページを飾ったにすぎません。いざなくなったとしても困る人はいません。そういうものなんですよ。最終的に、この味をより洗練させてくれる職人がもし現れてくれたら、それはうれしく思います」(上田さん)
老舗の店主はわれわれ消費者が思っているほど自分の味を残すことに執着していない。あくまで店主が厨房に立ってきた時代に歴史の1ページを飾っただけ。そう考えると、後継者問題に本当に悩んでいるという店主はそう多くないのかもしれない。