登戸駅は小さな区画整理を繰り返し、小田急と南武線の連絡通路が設けられた(筆者撮影)

バブル崩壊から30年が経過した。この間、日本の経済はまったく成長を描けず、失われた30年と呼ばれる。この間に日本全体が疲弊し、国土の発展は停滞した。

現在、2020年の東京五輪に向けて東京圏で都市改造が進められているが、これも五輪という特需の影響にすぎない。五輪が閉幕すれば、それらも減退することが予想される。成長著しいと思われている東京でさえ、先行きは明るくない。

そうした中、一人気を吐く都市が東京に隣接する神奈川県川崎市だ。

「工都」川崎の一角だが…

川崎市内には、JR・京急・東急・小田急・京王などが鉄道路線を有している。そのため、東京までのアクセスは抜群によい。充実した交通網を背景に、平成期の川崎は東京のベッドタウンとしての色を濃くしてきた。

しかし、明治期から昭和期までの川崎は違った。帝都・東京の影響を受けながらも独自の発展を遂げ、工業都市・工場の街を意味する“工都”を自認した。

高度経済成長初期には、大企業の工場がこぞって群立。川崎市では深刻な労働者不足を引き起こした。その救済策として、政府や地方自治体は農家の次男・三男を都会に送る集団就職をあっせん。これには受け入れ先だった町工場なども乗じ、送り出す側の学校も歓迎した。

東京・大阪・横浜といった大都市には、中学を卒業したばかりの“金の卵”があふれた。当時の日本は工業が急速に伸びており、それが経済成長の原動力になった。

高度経済成長後期、川崎は“出稼ぎ労働者”の街として有名になるが、それは臨海部にひしめく工場群を一面的に捉えた光景でしかなかった。

今年5月、登戸駅の近くで世間を震撼させる殺傷事件が起きた。川崎市多摩区に位置する登戸駅は、工場群のある臨海部ではない。昨今になって発展が著しい川崎駅・武蔵小杉駅のエリアにも属さない。

登戸駅の一帯は江戸期に津久井街道の宿場町が置かれ、多摩川の渡し船が発着する要衝地だった。しかし、交通の要衝地ながらも、登戸はそれほどのにぎわいを見せなかった。明治・大正期を通じて、登戸駅一帯は農村風景が広がっていた。

これを変えたのが南武鉄道(現・JR南武線)と小田原急行(現・小田急電鉄小田原線)の開業だった。小田急も南武も1927年に駅を開業させているが、わずかに南武が先着した。

1923年に起きた関東大震災により、東京の建物はことごとく崩壊。復興に際して、木造家屋ではなく強固なコンクリート造りが求められた。コンクリート需要が増す中、南武が着目したのは、多摩川の砂利だった。

当初は都心部に砂利を運搬することを企図していたが、南武は工都・川崎の心臓部でもある臨海エリアに砂利を運搬したほうが有益性は高いと判断。東京都心部から川崎へと線路敷設の方針を転換し、川崎駅―登戸駅間を結ぶ南武鉄道が開業する。

南武に遅れること1カ月、小田急が新宿駅―小田原駅間を一気に開通させた。後に登戸駅となる稲田多摩川駅を小田急が開設した理由は、南武との交点であるという消極的な理由にすぎない。決して、需要が見込めたからではない。かつての宿場町にもかかわらず、駅界隈は発展していなかった。

重要度は「貨物>乗客」だった

多くの乗り換え需要が生まれた今、登戸駅は重要な駅のように映る。しかし、当時は違った。なぜなら、南武は貨物輸送を主業にしていたので旅客の乗り換え需要を気にしておらず、その需要を増やす沿線開発に力を入れなかった。ゆえに、小田急も稲田多摩川駅の周辺開発には執着していなかった。駅が開設された後も、周辺を積極的に大規模開発することはなかった。


登戸駅から数分歩けば、多摩川の河川敷。鉄橋を渡る小田急の電車を見ることもできる(筆者撮影)

新宿駅をターミナルに据えながらも、旅客需要が伸び悩んでいたことに小田急は焦っていた。旅客収入を補うべく、小田急は砂利輸送にも参入する。1936年に内務省が河川の環境保護を名目に多摩川での砂利採取を制限すると、小田急は多摩川から相模川に採取場所を変え、砂利輸送を継続した。

砂利輸送にかける小田急の思い入れはすさまじかった。相模川で採取された砂利をスムーズに川崎臨海部の工場へ運べるよう、1937年には稲田多摩川駅に南武鉄道との連絡線を敷設。稲田多摩川駅は、貨物輸送の重要駅になっていく。

貨物輸送で活況を呈する稲田多摩川駅よりも、小田急は隣の駅である稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅)に旅客需要を掘り起こす可能性を見出していた。

実際、開業当初の小田急では稲田登戸駅、新原町田(現・町田)駅、相模厚木(現・本厚木)駅、大秦野(現・秦野)駅、新松田駅を五大停車場としていた。小田急は西洋風のマンサード屋根の駅舎をつくるほど稲田登戸駅に力を入れた。そうした点からも、明らかに稲田登戸駅の方が格上だった。


今年4月にリニューアルを果たした向ヶ丘遊園駅南口。マンサード屋根の北口駅舎を模した形が特徴だ(筆者撮影)

時代とともに小田急の駅舎は老朽化し、順次、建て替えられた。マンサード屋根を残すのは向ヶ丘遊園駅の北口駅舎のみになったが、小田急は向ケ丘遊園駅の駅舎リニューアル工事を実施し、2019年には南口にもマンサード屋根の駅舎が竣工した。現在に至っても、小田急が向ヶ丘遊園駅を重要視していることがわかるだろう。

一方、貨物の重要駅になっていた稲田多摩川駅はどうだろうか。同駅は1955年に登戸多摩川駅に改称した。しかし、多摩川を挟んで都心側には和泉多摩川駅がある。“多摩川”がつく駅が2つ並ぶと、乗客が混乱する。そうした理由から、1958年に登戸多摩川駅は国鉄の駅名と足並みを揃え、登戸駅へと再改称した。

隣の稲田登戸駅は、一足早い1955年に向ヶ丘遊園駅に改称していた。そのために、“登戸”がつく駅が連続するという事態は避けられた。

秘密研究所の誕生

ようやく登戸駅となったものの、駅名が変わっただけで駅周辺はのどかな風景のままだった。そこには、戦前期から小田急が取り組んでいた林間都市開発の影響も少なからずあった。

戦前期、小田急は林間都市の開発に傾注していた。林間都市は東京都心部から遠すぎたために、すぐに頓挫した。小田急は林間都市の開発を諦めきれず、戦後に少しばかり開発に乗り出している。林間都市にこだわるあまり、登戸駅は高度経済成長期でも大規模開発から置いてきぼりを食った。

そうした事情もあって、登戸駅界隈では昭和40年半ばに入っても地域の特産品である多摩川梨を栽培する農家が残っていた。そして、登戸駅前には多摩川梨や名産品の桃を販売する店が軒を連ねた。

農村然とした風景が残った登戸駅だが、戦前期はそれが利点として活用された。

1939年に大日本帝国陸軍が発足させた秘密の研究機関は登戸研究所と命名された。“登戸”を名乗っているが、研究所の最寄駅は東生田(現・生田)駅だった。現在、研究所は明治大学のキャンパスになっており、その一画には登戸研究所を後世に伝える平和教育登戸研究所資料館がある。

同地に秘密研究施設が開設された最大の理由は、小高い丘という周囲から隔絶された地形にあった。人里離れた地で、しかも丘の上。これなら人の出入りを制限しやすい。そうした地形的な特性を踏まえ、陸軍は登戸研究所を開設。ここでは中華民国の紙幣である法幣の偽造や電波兵器の開発といった、極秘の研究が進められた。

日中戦争時、陸軍が中国大陸でばらまいた偽法幣は、日本の戦力を疲弊させない経済的攪乱作戦だった。登戸研究所から神戸港・下関港・長崎港まで偽法幣を運び、大陸に渡って市中に流通させる――といった作戦が立てられていた。

交戦中とはいえ、相手国の偽札を製造することは国際法でもご法度だった。登戸研究所内での偽札製造は、政府関係者や陸軍でもトップシークレットとされた。

製造することは秘密にできても、大陸までの運搬中に露見することが陸軍を悩ませた。仮に偽札製造が露見すれば、日本は国際的な信用を失う。そうした事態を防ぐため、陸軍中野学校の生徒から運搬役が選抜された。

運搬役を任じられた生徒たちは最寄駅だった東生田駅ではなく、小田急の稲田多摩川駅もしくは南武の登戸駅を出発駅とした。

登戸駅から南武線で川崎駅まで行き、東海道本線に乗り継ぐルート。もしくは、小田急で新宿駅に出てから山手線・中央線を使って東海道本線に乗り継ぐルート。主に、この2ルートで偽法幣は運ばれた。鉄道の要衝地だった登戸は、帝国陸軍の極秘作戦においてもフル活用された。

開発の波が及ばなかった理由

話を戦後に戻そう。高度経済成長を経ても、登戸駅の風景は変わらなかった。一方、同じ川崎市内の東急沿線は違った。東急は1950年代から多摩田園都市の開発に着手。東急沿線は爆発的に人口が増加し、その影響で高津区から宮前区が分区した。

登戸駅のある多摩区は、東京都が主導する多摩ニュータウン開発の影響を大きく受けた。多摩ニュータウン開発は、京王相模原線や小田急多摩線など鉄道網、そのほか道路・上下水道といった生活インフラが整備された。


多くの利用者で終日にぎわう小田急の登戸駅(撮影:大澤誠)

多摩ニュータウンの影響は、東京都と神奈川県境に近いエリアで形になって現れる。多摩区は東京都境と接しており、県境で人口が増加。そのため、1982年に多摩区から麻生区が分区した。しかし、登戸駅まで多摩ニュータウンの恩恵は届かなかった。

こうした開発史を振り返って、登戸駅は発展から取り残されたと受け止めるか、それとも住環境を守ったと考えるかは人によって異なるだろう。

オフィスビルや商業地といった都市化を目指す開発ではなく、登戸駅界隈は自然と調和するまちづくりが進められた。そこには多摩川や多摩丘陵という自然が豊富にあり、これらを大事にするという地域住民の考えが根底にあった。登戸駅の一帯は地権者が多く、複雑だったために区画整理・再開発が困難だったという事情もある。

いずれにしても、登戸駅は鉄道の要衝でありながら、大規模な開発とは無縁だった。

小田急開通と同時にオープンした向ヶ丘遊園、そして生田緑地といった自然あふれる空間の存在も登戸駅を語るうえで無視できない。

1927年にオープンした向ヶ丘遊園は、園内のあちこちに赤松・ナラ・クヌギ・桜・カエデ・ツツジなどが植栽された。向ヶ丘遊園は自然豊かな“公園”として、無料開放された。そして、すぐに沿線内外から人を集める目玉施設になる。

1958年の開園30周年には、記念事業としてばら苑が整備された。このばら苑が、閉園まで向ヶ丘遊園のシンボルとして周辺住民や来園者に親しまれる。

向ヶ丘遊園は“花と緑の向ヶ丘遊園”をキャッチフレーズに掲げていたこともあり、園内にはバラ以外にも多くの種類の花が植栽され、観賞用の温室や庭園も整備されていた。

1976年、老朽化した新松田駅舎を保存するため園内に移築。鉄道資料館として再活用された。すでに園内で保存されていた機関車デキ1011も資料館の隣に場所を移し、鉄道少年たちを喜ばせた。

駅からのアクセスにも、鉄道会社の小田急の色が濃く反映された。向ヶ丘遊園は来園者の便を図るべく、稲田登戸駅前から7両編成の豆汽車を運行していた。戦時中の金属供出によって豆汽車はレールを失うが、終戦から5年を経た1950年に復活。このときに豆汽車は豆電車としてバージョンアップしている。

1966年には豆電車に代わって新たにモノレールの運行を開始。同モノレールは、2001年まで運行を続けた。向ヶ丘遊園は、翌年の2002年に閉園した。

緑地の広がる街として

モノレールが廃止された後、駅跡地は駐輪場に、線路跡地は遊歩道へと姿を変えた。跡地に整備された遊歩道には、小田急電鉄と刻まれた橋脚の痕跡が残る。


モノレール跡地は遊歩道として整備されているが、そこには橋脚の痕跡も残されている(筆者撮影)

向ヶ丘遊園のシンボルだったばら苑は、川崎市が管理を継承。生田緑地ばら苑と名を変え、現在も春と秋の開花シーズンに一般公開されている。

向ヶ丘遊園の跡地整備に関して、小田急は2023年度に商業施設・自然体験施設・温浴施設の3つのエリアからなる開発計画を発表。できるだけ緑地を残す方針を表明している。

隣接する生田緑地にも車両が展示されている。小田急とも南武とも関連性はないが、生田緑地内にはSLのD51やスハ42形客車が保存されており、隠れた鉄道スポットになっている。

今年5月の殺傷事件でその名が広がってしまった登戸駅だが、登戸駅のある多摩区は、“ピクニックタウン”を掲げ、自然と暮らしとが調和したまちづくりに取り組んでいる。