騙されたのは女か、それとも男か?
「恋」に落ちたのか、それとも「罠」にはまったのか?

資産200億の“恋を知らない資産家の令嬢”と、それまでに10億を奪いながらも“一度も訴えられたことがない、詐欺師の男”。

そんな二人が出会い、動き出した運命の歯車。

200億を賭けて、男と女の欲望がむき出しになるマネーゲームはやがて、日本有数の大企業を揺るがす、大スキャンダルへと発展していく…。

男が最初の駒に選んだのは、令嬢の部下だった。その部下に紹介される形で、男と対面した令嬢は、男の行動に違和感を覚え、男を調査したが、その報告結果は…?




『調査の結果、小川親太郎という弁護士は実在します』

丸の内にある兼六堂本社ビルの26階、ミーティングルーム。

商品開発チームから新商品の提案を受ける、およそ2時間のミーティングの後。全員が出て行った会議室に残った私が、セキュリティパスワードを入れて開いたのは、小川親太郎の身辺調査を依頼した、大橋(おおはし)という探偵からの報告メールだった。

元刑事、という経歴をもつこの探偵は、几帳面でとてもしつこい。だからこそ優秀で、父も何かあれば頼んでいる、いわば「社のお抱え調査員」とも言える。

どうやら張り込みも尾行もしたようで、私が調査を依頼してから今日までの2週間の『小川親太郎』の行動が、頼んでもいないのに、24時間体制で記されている。

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午前7時23分 恋人だと思われる富田葉子の家を出る

午前8時16分 田川法律事務所へ到着

午後1時25分 事務所代表である田川正義と東京地方裁判所へ

午後4時37分 事務所代表である田川正義と田川法律事務所へ戻る

午後9時31分 恋人だと思われる富田葉子と地下鉄虎ノ門駅の3番出口前で待ち合わせ

午後10時22分 小川親太郎の自宅である事務所近く、虎ノ門のタワーマンションに到着。マンション前で、富田葉子と何やら軽い口論が5分ほどあり。正確には口論というより、富田葉子が一方的に声を荒げていた様子だったが、小川親太郎が、およそ1分30秒ほど抱擁すると、落ち着きを取り戻した様子で、肩を抱かれたまま、共にエントランスの中へ。

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小川親太郎の調査を頼んだはずなのに、抱擁の時間まで計ってしまう、この病的に生真面目な探偵の報告により、抱きしめられる富田の映像が生々しく頭に浮かんでしまった。図らずも部下の私生活を覗き見てしまったようで申し訳なく、バツの悪さを覚える。

そんな調子の2週間分の報告によると、小川親太郎は週に2〜3日は、虎ノ門にある田川法律事務所に出社。その他の日は、田川法律事務所が顧問を務める企業や裁判所に出向いたり、ベンチャー企業の社長と面会など、なかなかに忙しい日々を過ごしているようだった。

さらに探偵は、依頼人のフリをして、事務所も訪ねていた。


美しい男の経歴は本物!?探偵が掴んだ驚きの真実とは?


田川法律事務所に所属している弁護士は、代表の田川を含めて5人。

ニューヨークの案件に強い弁護士を探している、という客のフリをして訪ねると、対応してくれた女性スタッフが、うちの弁護士は全員 海外の案件にも強いです、と言いながら、全員のプロフィールを丁寧に説明してくれたらしい。

調査報告のPDFの中に、あの端正な顔写真付きの資料があった。説明を受けたときにもらった、小川親太郎弁護士のプロフィールだという。

学歴は2009年に東京大学法学部第一類卒。
その後、コロンビア大学のロースクールも卒業している。

第一東京弁護士会に、2010年に登録。
ニューヨーク弁護士会への登録は、2015年。

「アメリカを中心とした外国企業を当事者とする合併その他のクロスボーダーを含むファイナンス取引に携わる」などと、1年間ニューヨークの法律事務所に所属していたことを含め、『小川親太郎弁護士』の実績概要が書いてあった。

『コロンビア大学の方は確認できておりませんが、東京大学の卒業生であることは、事実であると確認できました。ゼミの教授の証言と卒業アルバムからです。本名だと断定はできませんが、大学時代も小川親太郎という名前で生活しています。

それから、“例の件”についても聞けました。ちょっとしたトラブルがあったらしいです。まあ、納得できる理由だと私は思いましたが、判断は神崎さんにお任せします』

判断は神崎さんにお任せする、という言葉が、この探偵らしい。彼は自分の感覚を押し付けず、出しゃばらない。ただ調べた情報だけを依頼者に与えて判断させようとするのだ。

ー“例の件”…。

実は、3人で食事をした、あの日。




―確か、弁護士が実在するかどうかは、簡単に名前で検索できたはず。

弁護士だと書かれた名刺をもらった時に、そのことを思い出した私はお手洗いに立つと、探偵にメールを入れた。小川親太郎という弁護士が実在するか、ということだけでも、まずは確認しておきたかったのだ。

席に戻ると、すぐに携帯が震えた。

『日弁連(日本弁護士連盟)のページで検索した所、小川親太郎という弁護士は、東京第一弁護士会に、確かに存在していていました』

『ただし、日弁連のページに顔写真はついていないので、田川弁護士事務所のホームページで、所属弁護士の紹介ページを確認してみました。確かに名前はありますが、他の弁護士は写真付きで紹介されているのに、彼だけ顔写真が載っていません。

もっと詳しく調べますか?』

勘の良い探偵の簡潔な問いに、私は、お願いします、とだけ返信を打ち、動いてもらうことに決めたのだ。

返信を打って顔を上げると、心配そうにこっちを見ている美しい男と目があった。お仕事大丈夫ですか?と言った彼を、お食事中に無粋でごめんなさい、と笑顔でかわして、携帯をバッグに戻したのだけれど。



―トラブル、って…何?

そんなことを思いながら、目の前の文章に意識を戻す。

『小川親太郎だけ顔写真を載せていない理由ですが、女性スタッフが肩透かしなほど呆気なくペラペラと喋ってくれました。文字に書き起こすより、彼女の喋りをそのまま聞いてもらった方がニュアンスが伝わると思うので、添付の音声ファイルで報告させてください』

添付のファイルを開くと、ガサゴソという摩擦音が聞こえてきた。


謎の音声ファイルが告げる、美しい男が自分の顔を隠す理由とは?


おそらく盗撮マイクによる音声だろう。探偵のポケットにでも入っているのか、衣摺れの音が聞こえたあと、まず、探偵の声が聞こえた。

「そういえば、ホームページを拝見してからここに来たんですけど、お一人だけ、お写真が載っていない先生がいらっしゃいましたよね…えっと誰だったかな…」

ビジネスマンのふりでもしているのだろうが、探偵はいつもより随分愛想の良い声だ。少しの沈黙の後、ほら!と探偵は続けた。自分の携帯を検索して、そのページを目の前の女性に見せたのか、ああ、小川先生ですね、という女性の声がした。

「新しく入られた方なんですか?それとも、もしかして、写真を載せられないやましい理由でも?…あ、そんなこと聞いちゃいけなかったかな?」

冗談めかしてそう言った探偵に、女性が、別にやましいことではないですし、事務所としても理由を隠してるわけでもないんですけど、と笑い声を交えながら続けた。

「以前は小川先生の写真も載せていたらしいんですけど、誰がどうやって見つけたのか…イケメン弁護士発見、という感じで、うちのホームページの小川先生の画像がSNSに出回ってしまって。事務所にイタズラ電話がかかってくることも増えてしまったんです。

依頼するわけでもないのに、訪ねてきた女性も1人や2人じゃなかったですし。事務所の前で先生を待ち伏せするストーカー騒ぎもおきました。

このままじゃ他のクライアントにも迷惑がかかるからということで、小川先生の写真を載せることをやめたのは、うちの代表の田川の判断です。だから小川先生には全く非はないんです」

後半に行くに従って、小川先生は悪くない、と彼をかばう言葉を繰り返す女性の声は上擦り、それは好意からくる熱量にも感じられた。

確かにいい男ですもんねぇ、男前過ぎると大変なこともあるんですねぇ、と言う探偵の声の途中でプツリと音声は切れ、私はまた、メールの本文に視線を戻す。

『その話を裏どりするために検索をかけてみましたが、確かに小川親太郎の写真がSNSに出回っていたのは事実でした。騒動の始まりは2年前のようですから、少なくとも、小川親太郎という弁護士はこの事務所に、2年前から存在していたということになります。

尾行調査の結果なども踏まえると、小川親太郎という弁護士が本当に存在するか調べて欲しい、というご依頼に対しての私の調査報告としては、存在する、という報告になりますが、調査はここまででよろしいでしょうか?

もしさらに深い身辺調査、過去の調査を行うのであれば、お申し付けください』

私は、どっと疲れを感じて、返信をしないままノートパソコンを閉じた。

―いつもこうだ。

探偵の調査は今までずっと完璧だったし、彼が、小川親太郎という弁護士は存在すると言うなら、それが事実なのだ。自分が感じた違和感は間違いだった。ならばそれを喜ぶべきなのに、沈む気持ちが拭えなかった。

もちろん、誰かを疑い調査をしたのは初めてではない。けれど、今回は部下の恋人を疑ってしまった。そして最悪なのは私が…。



部下の恋人を調べつくした罪悪感。そして夫からの連絡に…。


―自分を守るために、部下の大切な人を、調べ上げたこと。

あんなに自分を慕ってくれて、わざわざ紹介したい、と言ってくれたのに。彼女は私がこんなことをしたと知ったら、どう思うだろう。

富田が、悪い男に騙されているなら救いたいと思ったことも嘘じゃない。でもそれより私は、彼が自分や会社に害を及ぼす人間では…と疑ったからこそ、再会を不自然に感じ、調査を始めたのだ。

人を心の底から信じることができない自分の性質に、嫌気がさした。思わずため息が出たその時、携帯が震えた。夫からのLINEだった。

『今日、何時に終わる? 俺は定時に上がるけど、もし智も早く上がれるなら、久しぶりに一緒に愛香のお迎えにいかないか?そのまま外食してもいいし。愛香が、ママと一緒にオムライスが食べたいんだってさ』

何気ない、いつも通りの夫の文章なのに、不意に涙がこみ上げそうになり、遅くなる予定もないのに、ごめんね、今日は遅くなる、と返信してしまった。

家事も育児も任せろと言ってくれる、本当に優しい人。私には出来すぎた夫。それを感じるのが今は、とても辛い。その理由は。

―私は、夫のことすらも…。疑えば、きっと調べ尽くしてしまう。

彼が私に注いでくれる温もりを、信じているはずなのに。いや、信じたいと思っているのに。

―なんで、私にはそれができないんだろう。

私は常に、裏切られた時の心の準備をしながら生きている。大好きだった人に、誘拐されたあの日から。

携帯が震えて、夫からの返信が来たのだろうと思ったけれど、私は画面を見ることもできず会議室を出るために、立ち上がった。

その時ノックの音がして、ガラス張りのドアの向こうに、富田がいた。




やましさがこみ上げたけれど、平静を装い手招きをする。すると富田は、広告代理店から送られてきた新商品の完成発表パーティーの、会場候補のチェックをお願いしたいのですが、と言った。

私は、ありがとう、と言いながら、富田からタブレットを受け取る。新商品のラインナップは、社の中で最も高級ラインのもので、パーティーを含めたプロモーションのテーマは「アラビアンナイト」、「誘惑の闇」にすることが決まっていた。

候補の会場の写真データをスワイプしていく中で、ふと、栃木県の採石場にある洞窟を会場にして、アラビアの王族の秘密のパーティを、というコンセプトが目に止まった。

「これ、気になるけど…」

タブレットから顔を上げ、富田の顔を見た時、その表情に陰りを感じた。私もそう思っていました!と明るく声を上げたけれど、空元気に見える。

「どうしたの? 体調でも、悪い?」

私の言葉に富田は表情を固めたけれど、すぐに、全然元気ですよーと笑顔を作った。けれど目尻に光るものが浮かび、みるみる水滴になってこぼれ落ちた。

「富田さん…」

「うわ、私どうしたんでしょう、職場で泣くなんて最低ですね、すみません!」

必死に涙を拭いながら、トイレに行ってきます、と立ち去ろうとした彼女を、誰かに見られちゃうわよ、と呼び止めて落ち着かせようと、とりあえず椅子に座らせた。

私も横に並んで座り、俯いて丸まった彼女の背中をさすっていると、余計に涙が止まらなくなってしまったようで、肩は震え、しゃくりあげる声は激しくなった。

どうすればいいか分からず、とりあえずガラス張りの会議室を外からは見えないモードに切り替え、彼女が落ち着くまで、ただ待った。

それから5分程経った頃、ようやく小さな声がした。


部下の突然の涙のワケは?そして、詐欺師の狙いが少しずつ明らかに…。


「…すみません。泣くなんて…」

本当に最低です、と呟くように続けた富田に、かける言葉を迷った挙句、私でよければ話を聞くけど…としか言えなかった。

「…仕事のことじゃないんです」

小さな声はまだ震えていた。それはそうだろう。富田が仕事場で泣くような女性でないことは、きっと誰より私が知っている。相槌だけ打って、次の言葉を待った。

またしばらく沈黙が続いた後、震える唇で富田は言った。

「…こんなこと、神崎さんに話すことじゃないのに…すみません…彼の…親太郎さんとのことで…」


港区・虎ノ門 小川親太郎のマンション


田川法律事務所にほど近い、虎ノ門にあるタワーマンション、最上階の3LDK。小川親太郎は、マサこと田川正義の持ち物であるこの部屋を、しばらくの間自分の住まいとして借りている。

―買えば、5億ってとこか。

物を所有することに興味がない親太郎には、不動産をはじめ、時計だのアートだの、投資だと言って金をつぎ込むマサの気持ちは全く理解できない。

10人くらいは座れるであろう、リビングに置かれたコの字型のバカでかいソファーに足を投げ出しながら、昼間のマサの言葉を思い出していた。

「リアルに弁護士資格を持った詐欺師がいるなんて、普通の人は考えないよねぇ。詐欺師は全部嘘ばっかって思ってるだろうしね。

ま、シンちゃんの場合は、詐欺師が弁護士資格を取ったようなもんだし、ペーパー弁護士だけど。あ、でも何か、映画のモデルになった人でいたよね。なんだっけ、ディカプリオの…」

黙ったままの親太郎が、自分の問いに答えないことなんて気にする様子もなく、マサは話題を変えた。

「で?今回の罠、仕掛けは終了したわけ?俺と一緒に過ごした、この2週間の効果は感じてる?」

「…さあな」

「えー、教えてくれないの?俺って可愛そうー。女に利用されるだけ利用されて、尽くしまくって捨てられる都合のいい男って感じじゃーん」

「本当にまだ分からないんだよ」

計画が上手く行っているのか、親太郎は確信を得たわけではない。ただ、尾行されていることには気がついていた。ということは、おそらく親太郎の狙い通り、神崎智は調査を始めたのだろう。

『はじめまして。小川親太郎です』

親太郎がそう言った時、神崎智は、明らかに違和感を感じている様子だった。育ちが良い令嬢は、人に騙されやすいと思われがちだが、実は違う。

特に智のように『後継ぎ』として育てられたタイプなら、なおさら。自分に近づく人間に対するガードは固い。

それに神崎智の場合、最近まで社長の娘だと伏せられていた。ということは、現社長である智の父は、大企業の令嬢であることを理由に近づいてくる輩から、できるだけ智を守りたかった、ということなのだろう。

そんな父親なら、娘に、安易に人を信用するなと叩き込んできたはずだ。

そのガードを、どう解くか。焦ってはいけない。少しずつ、少しずつ、解くことが大事だ。

―まず最初は、徹底的に疑わせる。

そのために、不自然な再会を演出した。モナコで出会った男が部下の恋人になり、しかも初対面だと挨拶するなんて。彼女には違和感だけが残ったはずだ。

違和感を抱かせれば、神崎智は、絶対に親太郎を調べる。

マサに同行し、裁判所やクライアントの元に通ったのは、尾行してもらうため。その調査結果は今頃きっと智に伝わっている。まずは智に、親太郎の「弁護士」という肩書きが本物なのだと信じさせることができれば十分だった。

マサの言う通り、親太郎はペーパー弁護士ではあるけれど、その弁護士資格は本物だ。

世の中の人たちは、詐欺師は経歴の全てを詐称するものだと思い込んでいるけれど、完璧に経歴を偽装することは、この情報社会において不可能。少し調べれば、その人間が存在しないことなど簡単に暴かれてしまう。

だから親太郎は、名前も、聞かれれば答える学歴も偽ったことがない。それでも、過去にお金をくれた女性たちから、過去一度も、追われたことも、訴えられたこともなかった。

相手が騙されたと感じないように、騙してきたから。

親太郎はその女性が、本当に望んでいるものを探しだし、抑圧されてきた欲望を解放させることができる。

喜びに目覚めた女性を見届けた後、その対価として、親太郎は大金を受け取る。そして、消えるのだ。

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3度目の対面で主導権を握るのは…詐欺師か令嬢か!?