打球が無情にもセンター前に弾むと、宮崎産業経営大のエース・杉尾剛史(つよし)は両膝に手をついてうなだれ、重い足取りで整列に加わった。

 全日本大学選手権の1回戦では、昨年秋の明治神宮大会準優勝メンバーが多く残る環太平洋大学を6安打2失点に抑えて完投勝利。

 翌日の東海大戦でも先発のマウンドに上がると、各学年それぞれにドラフト候補や甲子園経験者が並ぶ相手打線に真っ向から立ち向かっていった。だが、無死一、二塁から始まるタイブレークの延長戦で、10回こそ無失点でしのいだものの、11回に力尽き1対2でサヨナラ負けを喫した。


大学選手権で力投する宮崎産業経営大のエース・杉尾剛史

 捕手の大幡正敏は「ツヨシ(杉尾)を見殺しにしてしまった。申し訳ない」と涙ながらに悔いたが、杉尾は目を真っ赤にして「こちらこそ『ごめん』と言いたいです」と語り、「4年間、日本一を目指してやってきたので悔しいです」と唇を噛んだ。

 それでもNPB球団のスカウトは、杉尾のピッチングを高く評価した。

「打者が差し込まれているので、見た目以上に手元でキレや威力があるのでしょう」(中日・中田宗男アマスカウトアドバイザー)

「ストレートも変化球も同じ腕の振りで投げられるし、曲がるところもいいし、コントロールもすばらしい」(日本ハム・大渕隆スカウト部長)

 とくに変化球は、状況や相手に応じて曲がり変える3種類のスライダーと、杉内俊哉(元巨人など)を参考にしたチェンジアップ、菅野智之(巨人)を参考したというワンシームと多彩だ。

 大学選手権での東海大戦、宮崎産業経営大の選手たちの奮闘、そして号泣とともに印象的だったのが、「日本一になれず悔しい」と全員が口を揃えたことだ。なぜなら、今から3年前、本気で日本一を目指していたのは杉尾だけだったからだ。

 宮崎で生まれ育った杉尾は小学生で野球を始め、中学の宮崎リトルシニア時代には九州選抜に選ばれた。高校は、武田翔太(ソフトバンク)らを輩出している宮崎日大に進学。3年夏にエースとして甲子園の土を踏んだ。

 そんな杉尾には九州のみならず、名の知れた関東の大学からも声がかかった。だが杉尾が選んだのは、それまで全国大会に無縁だった宮崎産業経営大だった。「甲子園で初戦敗退し、宮崎県民のみなさんの期待を裏切ってしまった」という思いから、地元で日本一を目指すと覚悟を決めた。

 1987年の創部以来、指揮を執る三輪正和監督は「ウチに来るなんてウソでしょう……と思いましたよ」と、当時を振り返って笑う。

 練習する環境にも大きな制約があった。グラウンドは系列高校の鵬翔が優先的に使うため、練習は火曜と木曜の夕方と土曜の午前中だけ。選手の意識もそれほど高いものではなく、居残り練習に参加するのも、杉尾をはじめ数人しかいなかった。

 そんなチームを変えようと、杉尾はミーティングで先輩にも積極的に進言した。耳を傾けてくれる部員もいたが、浮いた存在に感じてしまうこともあった。

 だが3年となった昨年、主将に若松朋也が就任すると、杉尾の進言を取り入れ、7時半からの朝練習を導入。居残り練習する選手も格段に増え、限られた時間のなかで質の高い練習を行なうようになり、昨年、全日本大学野球選手権に初出場を果たした。

 初出場ながら、全国大会4強10回の創価大、大学選手権最多出場を誇る福井工業大を続けて破り、全国8強入り。

 そして今年の春も、杉尾が代表決定戦で3連投(うち2完投)とフル回転し、2年連続出場を決めると、開会式では主将を務める大幡が「日本一を目指します」と宣言するなど、選手の意識は格段に向上していた。

 それだけに2回戦敗退は、昨年以上の悔しさがあった。4年生の多くは、教職課程の履修や公務員試験により秋を前に引退するため、三輪監督は「いいチームだったので、悔しさよりも(もうこのチームで戦えない)寂しさのほうが大きいですね」ともらした。

 そして杉尾も、仲間たちにこう感謝の言葉を並べた。

「夜遅くまで野球について語り合い、『勝ちたい』『うまくなりたい』という気持ちは一番のチームでした」

 大会終了後、杉尾は侍ジャパン大学代表選考合宿に追加招集されたが、疲れが抜けきれなかったのか、紅白戦で打ち込まれて落選。だが、杉尾は前を向いた。

「こういった経験はほとんどなかったので、今後に生かしていきたいです」

 そして杉尾は、秋への課題としてストレートを挙げた。

「緩急には手ごたえがあったんですけど、ストレートも磨いていきたいです。代表に選ばれなかった分、夏の練習は長くできるので、プロで通用する投手になれるように練習していきます」

 チームの意識を変え、自らの道も開拓した杉尾。この秋は、幼い頃から目指してきたプロ野球の世界に飛び込むため、春に得たかけがえのない悔しさを糧にさらに腕を磨く。