「あなたのため」という大義名分に闇が隠れています(写真:Ushico/PIXTA)

中学受験生を父親が刺殺

「しつけ」「教育」と称して子どもを罵倒し、暴行し、死に至らしめる事件が後を絶たない。

2018年3月に父親によって殺害された東京都目黒区の当時5歳の女児は、「朝4時から勉強する」などしつけと称して5歳には到底無茶な約束をさせられ、それが守れないと暴行されるという悲惨な生活を送っていた。

2016年8月には、名古屋で、当時12歳の男児を父親が包丁で刺し殺す事件が起きた。父親は日ごろから息子の中学受験勉強を熱心に見ており、自分が命じた勉強をしていなかったからという理由である。

この事件については現在、名古屋地方裁判所で公判が開かれており、事件の前日には息子の太ももを包丁で刺していたことが車のドライブレコーダーの記録から明らかになっている。公判で明らかにされたやりとりが生々しい。

息子の太ももを包丁で刺しながら、「刺すって言ったはず!」「俺が書けって言えば、死ぬほど書け。覚えろって言ったことはぜんぶ覚えろ!」と怒鳴りつけていたのだ。ただし、被告人は殺意を否定している。7月19日に判決が言い渡される予定だ。

極めて異常に思えるだろう。しかし私がこれまで取材した、いわゆる「教育熱心な家庭」のなかでも、殺意の象徴として包丁が登場するケースが複数あった。紙一重のところで、かろうじて踏みとどまっているのだ。

「教育虐待」という言葉をご存じだろうか。

「教育虐待」とは、「あなたのため」という大義名分のもとに親が子に行う、いきすぎた「しつけ」や「教育」のことである。

もともとは家庭から逃れてきた子どもを保護する「シェルター」の職員たちが、「あの親は、教育という名のもとに虐待しているよね」というような文脈で使っていた。それが2011年12月「日本子ども虐待防止学会」で「子どもの受忍限度を超えて勉強させるのは『教育虐待』になる」として発表された。

「教育虐待」という言葉は、ここ数年でメディアでもたびたび見られるようになった。では教育虐待自体がいま増えているのか。

はっきりしたことはわからない。教育虐待のような事象は昔からあった。しかし昨今では、その構造が複雑化していることこそが問題だと思われる。

高度成長期の「教育ママ」は子どもを有名大学に入れることだけを考えていればよかった。「もやしっ子」と呼ばれようが、テストでいい点数をとれる子を育て、「高学歴」というパッケージ商品を得られれば、それだけで満足できた。

しかしいま、「学歴はもう役に立たない」と言われる。とはいえ、学歴が要らなくなったわけではない。高学歴があることは大前提で、オプションとして、英語もできなければいけないし、プログラミングもできなければいけない、プレゼンテーションにも長けていなければいけない……と考える親は多い。

「勉強ができるのは当たり前。でも勉強ができるだけじゃダメ」というわけだ。単純に、昔よりも子どもの負荷は増えているのである。

理性の皮を被った感情による攻撃

子どもの成績のことでつい叱りすぎてしまったり、勉強を教えてもなかなか理解できない子どもをついたたいてしまったりという経験なら、実は多くの親にあるはずだ。もしくは自分がそうされて育ったという大人も多いだろう。

それも教育虐待なのか、違うのか。どこまでの厳しさは許されてどこからが教育虐待なのか。教育虐待を受けると子どもにどんな影響が出るのか。教育虐待を受けて育った大人はどんな人生を歩むことになるのか……。

教育虐待の闇を照らす。そのために私は最近、拙著『ルポ教育虐待』を著し、壮絶な教育虐待の事例を描写した。

過酷な受験勉強を乗り越えても、教育虐待によって受けた心の傷が癒えることがなく、成人してもずっと生きづらさを抱えていたり、最終的には自殺してしまったりというケースもある。過干渉を続ける母親の首を絞めた高校生の話もある。

ただし、「勉強しなさい!」「あなたはダメ人間」などとむやみに怒鳴ったりたたいたりする親は、実は少数派であると私は感じた。多くの親は、子どもを叱るに十分な理由を見つけてから、その正論を振りかざしているようなのだ。

「この子が約束を破ったから、そのことを叱っている」などと、正当化をしているのではないだろうか。そうやって「自分は感情的に怒っているのではない」と自分を許しているのではないだろうか。いわば、”理性の皮を被った感情”による攻撃である。

だから子どもも「自分が悪い」と信じて疑っていない場合が多い。反論できない。逃げ場をふさがれ、完全に追いつめられてしまう。

さらに昨今は、親向けの「コーチング」などの講座や書籍が多数ある。教育熱心な親が、コーチングを学ぶのである。コーチングとは本来、その人がもっている力をその人の望む方向に引き出すために行うサポート。しかし「わが子を賢く育てたい」と思う親が何の悪気もなくその技術を応用すれば、子どもをコントロールすることに使えなくもない。

暴力や暴言で威圧しなくとも、真綿でくるむように子どもをソフトコントロールできてしまうのである。子どもからしてみれば「のれんに腕押し」で、反抗するきっかけすら与えられない。反抗期が漂白される。

反抗期がないということは、多感な時期に、精神的な自立を果たせないということである。私が取材する中学校や高校の教員たちは一様に「最近は反抗期がない子どもが増えている。それはそれで心配」と口をそろえる。反抗期がないまま思春期を終えてしまうと、大学生になってから、または社会に出てから、精神の不調を訴えることも少なくないようなのだ。

子どもの意思を軽視し、親が子どもの人生を操り、子どもに生きづらさを感じさせるとするならば、それも広義の「教育虐待」といえるのではないかと、取材を通して私は思った。教育虐待が、うっすらと見えにくくなっているのだ。

「子どもシェルター」を運営する弁護士は、「『教育虐待』は子どもに対する『人権侵害』です。教育虐待は親子の『共依存』から始まります」と説明する。そして、親は自分の胸に手を当てて、次の4点を自分自身に問うてほしいと言う。

(1)子どもは自分とは別の人間だと思えていますか?
(2)子どもの人生は子どもが選択するものだと認められていますか?
(3)子どもの人生を自分の人生と重ね合わせていないですか?
(4)子どものこと以外の自分の人生をもっていますか?

これらに自信をもって「YES」と答えられない親だとすると、教育熱心であるがゆえに教育虐待の闇に吸い込まれる危険性がある。

中学受験生はまだまだナイーブ

とくに中学受験においては注意が必要だ。

昨今は「中学受験は親の受験」と言われてしまう。中学受験勉強における子どもの成績は、親のサポートの良しあし次第であるという言説がまことしやかに広まっているため、親の肩に過度な力が入ってしまっているのだ。

とくに高校受験や大学受験で成功体験をもつ親が、その感覚で子どもに受験指導をすると、簡単に子どもを潰してしまう。

18歳や15歳の子どもなら、親から厳しい言葉を浴びせられても、ある程度なら「うるせーな」と聞き流すことができるが、12歳は、親の言うことを小さな身体と心で100%受け止めて、もろに傷ついてしまうからだ。

中学受験の難しさは、12歳という微妙な年齢にある。大人の言うことを100%理解しているので、つい大人に対するのと同じように理詰めで責めたり、強い言葉でハッパをかけたりしてしまうが、実は精神的にはまだまだ幼く傷つきやすい年ごろなのである。

迷うことなく子どもに接しないでほしい

変化の激しい時代である。わが子の将来を思えば不安になるのが親の性。不安であるがゆえに迷いも大きい。しかし「それでいい」のだと、私が尊敬するあるベテラン教師は言う。

「むしろ迷いなくやってしまうことのほうが恐ろしい。迷いがないってことは『これが正解!』って思い込んでいるってことだから。その方法が子どもに合っていなくても、子どもを見ずに迷いなくガシガシやらせてしまうから、子どもは簡単に壊れてしまう。子どもの教育は迷わないでやらないでほしい」

言われてみれば確かにそうだ。ひどい教育虐待をしてしまう親に共通しているのは、”迷いがない”ことなのだ。

先日、中学受験生の母親からこんなことを言われた。


「世間の中学受験本に書かれているように『あれもしなさい、これもしなさい』と言われるのも親としてつらい。しかしおおたさんのように『親がそんなにムキにならなくてもいい』と言われてしまうのも耳が痛い」

私も痛いところを突かれた。「子どもにダメ出しをしないでください!」と親にダメ出しをしてしまう自分がいるわけである。申し訳ない。が、それを棚に上げて言うのであれば、その母親は中学受験生の母親のスタンスとして至極まっとう、大丈夫というわけだ。

子育てで迷わない親などいない。大いに迷えばいい。迷うくらいでちょうどいい。それでも結局のところ、子どもはまっとうに育つ。親がよほど余計なことをしなければ。それが、死の淵から生還した数々の親子の話を聞いたあとの私の率直な結論である。