「本能寺の変」を決行した明智光秀は、衝動的にクーデターを起こしたわけではない。光秀は反・織田信長連合を組織し、新政権樹立の準備を進めていた。決行日を挟む約3週間における重要人物の詳細な動向を明らかにすることで、現在の「本能寺の変」研究は格段に深まっているという。日本近世国家成立史が専門の藤田達生氏による画期的論考を2回にわたってお届けする。(JBpress)

(※)本稿は『本能寺の変』(藤田達生著、講談社)の一部を抜粋・再編集したものです。

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本能寺の変「前夜」、光秀の密使

 明智光秀は、すぐれた文武の才覚と幸運、そして室町幕府15代将軍・足利義昭、織田信長の引き立てによって、権謀術数の渦巻く戦乱の時代を、牢人から国主級の大名まで進んだ優秀な政治家であった。

 そのような人間が、なんの政治的・軍事的展望もなしに、衝動的にクーデターを起こすだろうか。信長を倒したあとの政権像を、あらかじめ光秀は思い描き、その準備をしていたと考えるのが、むしろ自然である。

 光秀が信長を葬って新政権を樹立するには、当然のことながら反信長勢力と結ぶ必要があった。それは、反信長勢力の中心であった足利義昭と彼を奉じる中国の毛利氏、そして信長との決戦を目前に控えた戦国大名たち、すなわち土佐の長宗我部氏と越後の上杉氏であった。本能寺の変の前から光秀が、これらと接触をもっていたことが史料から読みとれる。

 その1つが、上杉景勝(かげかつ)への密使である。本能寺の変が起こったのは1582(天正10)年6月2日の未明であるが、光秀が派遣した密使は、それより前に、上杉方の越中における重要拠点である魚津城(富山県魚津市)に到着していた。

魚津落城の真相

 光秀の密使が魚津に着く前の1582(天正10)年5月、上杉氏は存亡の機に直面していた。越中・信濃・関東方面から織田軍の攻撃を、北からは越後国内で反乱を起こした新発田重家(しばたしげいえ)の攻撃を受けていたからである。

 いわば四面楚歌という状況にあった上杉景勝は、織田軍との最前線にあった越中の魚津城と松倉城(魚津市)を守るために、本隊を率いて5月15日には両城の中間に位置する天神山城(魚津市)に到着していた。

 しかし森長可(もりながよし)の率いる織田軍が、北信濃路を経て上杉家の本城である春日山城を進軍中との報せを受けた景勝は、5月26日には天神山城を出て、ただちに信濃方面に向かった。

 越中・越後の国境地帯には、親不知(おやしらず)の難所や越中宮崎城(堺城、富山県朝日町)、越後深魚川城(いといがわじょう、新潟県糸魚川市)などがあるが、信濃と越後の国境地帯を織田軍に突破されたら、春日山城までは有効な防衛拠点が何もなかったからである。

 景勝は、魚津・松倉両城の将兵を見捨てて退却したのではない。5月26日に城兵の撤退がおこなわれ、これを確認した景勝は、織田軍に追撃されることなく、同日夜に軍を引いたのである。これ以前に景勝は、魚津・松倉両城を守る将兵を無事に越後に帰還させるために、織田軍の司令官・柴田勝家と一時的に和議を結んだとみられる。勝家としても、天険をたのむ松倉城を力攻めしたり、上杉軍の本隊と戦うことは控えたかったのであろう。

 しかし魚津城は、景勝が撤退した3日後の5月29日から織田軍の猛攻を受け、壮烈な戦いの末、6月3日に落城した。この魚津落城については、城の将兵が景勝を無事退却させるためのいわば「捨て石」になったとする見方が昔から一般的である。

 しかし、落城直後に書かれた6月5日付の佐々成政(さっさなりまさ)の書状には、次郎右衛門という人物が、無事に開城がおこなわれることを保証する織田方の人質として魚津城内に入った。

 その直後に、信長から城内の者を討ち果たすようにとの命令が届いたため、次郎右衛門が観念して切腹した結果、6月3日卯刻(うのこく、午前六時ごろ)に成政らの織田軍が城中に突入し、大将分13人をはじめとして1人も残さず討ち果たし落城した、との内容が記されている。

 中世の越後・佐渡両国に関係する基本史料集『越佐史料』に収録された「関屋政春古兵談」「管窺武鑑(かんきぶかん)」などにも、越後将兵の魚津城における全滅については、織田方のだまし討ちというべき強行策による悲劇であったことが記されている。

 これらの史料から推理すると、先に述べた光秀の密使が、包囲された魚津城に入ることができた時期がわかる。5月26日までに和議が成立し、松倉城は織田軍に明け渡された。残る魚津城で戦闘が再開したのは5月29日である。和議により、いったん織田軍の囲みがゆるんだ5月27日か28日に、密使が城内に紛れ込み、光秀のクーデター計画に関する情報を伝えたのであろう。

本能寺の変の準備はいつから?

 光秀が上杉方に望んだのは、越後へ進軍していた織田軍(柴田勝家らの北国方面軍)を、クーデター直後に釘付けにし、上方への帰還を阻止することであった。

 光秀が密使を出立させたのはいつであろうか。密使が魚津城に入ったのは5月27日か28日と推測されるから、上方から魚津への約500キロメートルにもおよぶ道のりと所要時間、さらに魚津での上杉方と接触する時間を考えると、光秀が家康の供応役を罷免された5月17日からほど遠からぬ時期となる。

 おそらくは光秀は、安土から近江坂本城に戻った直後に密使を出立させたのではあるまいか。この当時、備後国鞆の浦にいた義昭との緊密な連絡が必要なことから、6月2日未明に起こる本能寺の変の計画は、5月17日以前から練られていたことになる。

 こうしたことから、本能寺の変は従来いわれているような、光秀単独の発作的な行動によるものとは、決してみることができないのである。

上杉方のキーマン・須田満親

 光秀が密使を送った相手は、上杉方越中軍の司令官・須田満親(すだみつちか)であった。なぜ、須田満親だったのだろうか。

 満親の一族は、信濃国高井郡須田郷(長野県須坂市)を本拠としていたが、武田信玄の侵攻を受けたため、上杉謙信を頼って越後に逃れた。その後、満親は上杉景勝に重用され、1581(天正9)年に亡くなった越中松倉城の河田長親(かわだながちか)にかわって、松倉城と上杉方越中軍の指揮を任された。

 1582(天正10)年の3月から4月にかけて満親は、1580(天正8)年に信長によって大坂から追われ、越中五箇山(富山県南砺市)に潜んでいた本願寺の教如(顕如の子息)や当地の一向宗の門徒と結んで、越中に侵攻した柴田勝家らの織田軍と戦った。

 須田満親と本願寺には、浅からぬ関係があったのである。春日山城に近い教如派の寺院・本誓寺(新潟県上越市)に伝わる史料のなかに、本能寺の変から2カ月半後の1582(天正10)年8月20日付で本願寺宗主の顕如が満親に宛てた書状が残っている。

 そのなかで顕如は、「越中の門徒衆につきましては、引き続きよろしくお取り成しいただきますならば本望です」と、満親の影響力に期待を寄せているのである。

 また1582(天正10)年11月21日付の御内書で、足利義昭は直接、満親に対して帰洛のために奔走するように命じている。以前から密接な関係がなければ、将軍義昭がそのようなことをするだろうか。

 満親の前任者であった松倉城の河田長親は、義昭に贈り物を届けたり、義昭からは使者が来たりと懇意な間柄だった。これと同様に、満親も義昭と親密な関係をもっていたに違いない。

 このように、須田満親は上杉氏の家中において義昭および本願寺という、反信長勢力と密接な関係をもつ代表的な人物であった。光秀が密使を満親へ送ったこと、満親がもたらした情報を春日山城の上杉方が信用したのは、それなりの理由があったのである。

教如がはたした役割「諸国秘回」

 須田満親と越中の一向宗門徒を仲介したのは教如である。本願寺の宗主・顕如の子息で、反信長派として知られた彼が、なぜはるばると越中五箇山に来たのであろうか。

 教如は、顕如が1580(天正8年)年閏3月に信長と講和して紀伊国雑賀に退去したのちも、大坂にとどまったが、同年8月、大坂本願寺に火を放ち、顕如のいる雑賀へ逃れた。この敵対的な行動を、信長は見逃さなかった。

 ただちに信長は、教如の弟(顕尊)を支持することによって、雑賀にいる教如とその一派の動きを封じてしまった。さらに悪いことに教如は、政治路線をめぐって父の顕如と対立し、破門されてしまう。

 このために進退きわまった教如は、1580(天正8)年末に、わずかの側近とともに雑賀を抜け出し、いわゆる「諸国秘回(しょこくひかい)」―信長に対する決起を門徒衆に訴える旅―に出たのである。

 教如は、まず甲斐へ向かった。この地の門徒衆を決起させて信長の武田氏攻撃を牽制しようとしたが、武田氏の敗色が濃くなると、教如は北国方面に向かった。そこでは、柴田勝家の率いる織田軍が上杉景勝を攻撃しようとしていたのである。

 景勝の要請を受けた教如は、飛騨から越前を経て越中に入ると五箇山を拠点にして、先に述べた須田満親の上杉軍と連携し、越中だけでなく加賀や北信濃の一向一揆を蜂起させて、織田軍を攪乱(かくらん)したのであった。

 教如の越中入りにあわせて景勝も1582(天正10)年4月8日に、かねての手はず通り、加賀・能登・越中3カ国の一揆勢に対して蜂起するように命じ、さらに5月2日には、先述の越後の本誓寺に対して、越中に景勝が出陣するので、越後国内の「諸坊主ども」を集めて協力するよう依頼している。

 こうしたことから、教如の諸国秘回は自派の門徒衆のためというよりも、むしろ足利義昭と結んで信長包囲網を維持するためであったことがうかがえるのである。教如は、信長と大坂本願寺が争った石山合戦以来、一貫して義昭を本願寺の外護者と位置づけていたからである。しかしこの時点で教如は越中を去り、鷺森本願寺に戻った。

長宗我部元親は知っていた


 本願寺の右筆(書記役)だった宇野主水(うのもんど)の日記に、本能寺の変の2日後の6月4日には、早くも長宗我部元親の使者が書状を携えて、鷺森本願寺に到着していたことが記されている。

 本能寺の変を伝える急報が、土佐岡豊城(高知県南国市)にいた元親に伝わり、即座に使者を派遣したとしても、6月4日に本願寺に到達するのはとうてい無理である。元親にはクーデター計画をあらかじめ知らされていたのかもしれない。

 このような状況のもと、政治路線をめぐって対立していた顕如・教如父子が、正親町(おおぎまち)天皇の仲介によって急遽和解した。それを受けて本願寺は、光秀に対して6月11日に正式の使者を派遣した。しかし6月13日に山崎の戦いがあり、光秀が敗退したことから、この使者は帰還している。(後編へ続く)

筆者:藤田 達生