栗原恵 山あり谷ありのバレーボール人生 後編

(前編の記事はこちら>>)

 高校時代から全日本でプレーしていた栗原恵は、2004年のアテネ五輪出場に大きく貢献し、2008年の北京五輪でも中心選手として活躍。しかし一方で、度重なるケガで思うようにプレーができなくなることも多くなっていった。

 3回連続の出場を目指した2012年のロンドン五輪は、大会直前にメンバー落ちを経験。全日本から離れることへの不安を、栗原はどう乗り越えたのか。そして、まだ選手としてのオファーがある中で引退を決意した理由を、穏やかな表情で振り返った。


引退を決断した理由を語る栗原恵 photo by Tanaka Wataru

――自身初の銅メダルを獲得した、2010年の世界選手権を振り返っていただけますか? 

「その大会は、左ひざのケガのリハビリ明けということもあって、スタメンではない試合が多かったんですが、初戦のポーランド戦はプレッシャーがかかりました。相手に2セット取られてからの出場で、ポジションも普段とは違うライトでしたから。それでもコートに入ってからは『やるしかない』と気持ちを切り替えられて、チームも逆転することができました。

 開幕戦を勝てたことでいい流れができて、銅メダルを獲れたことは素直に嬉しかったです。それまでは、国際大会でどうしてもメダルに届かなかったので、『どんな色でも、やっぱりメダルはご褒美だな』と思いました。そのメンバーのひとりでいられたことを、すごく幸せに感じました」

――それから2年後のロンドン五輪は、再び左ひざのケガの手術を行なった影響もあってメンバーから外れることになりました。

「当時は、プレーができる基準まで左ひざが曲がらなかったり、体重をかけられなかったりと状態がよくなかったので、かなり焦っていました。コンディションがベストではない中でも、五輪の前の合宿には参加させてもらえたので希望は捨てませんでしたが、練習の段階で『無理かもしれない』という危機感はありましたね。

 そして(2012年の)ワールドグランプリを戦ったあとに、大阪のホテルで正式に『今回は五輪に連れていけない』と告げられました。その瞬間は思っていたよりも冷静だったんですが、心配してホテルまで迎えにきてくれた母の顔を見たら涙が溢れました」

――つらい思いもあったと思いますが、「そこで逆にバレーボールが好きになった」とも話されていましたね。

「それまで全日本で戦う時間が長かった分、『それがなくなってしまった自分の価値はどこにあるのか』としばらく悩みました。ですが、全日本選手ではない自分やバレーボールとの向き合い方を見つめる機会になり、今思えば”純粋にバレーボールが好き”という気持ちを思い出すきっかけになったんだと思います」


2004年アテネ五輪に出場して以降も、全日本で長らく活躍した栗原  photo by Sakamoto Kiyoshi

――そして2012年の7月には、岡山シーガルズに移籍しますが、決断の決め手はどこにあったのですか?

「岡山シーガルズの河本(昭義)監督から、『1年でもいいから一緒にやろう』と熱烈なオファーをいただいたんです。河本監督は、高校時代からずっと声をかけ続けてくれていました。そこまで必要としてくれる幸せを感じて、『そんな監督のためにバレーをやってみるのもいいのかな』と入団を決意しました。

岡山はイベントなどでファンの方と接する機会が多く、そこで温かい言葉をたくさんいただきました。”全日本の栗原”じゃなくなったのに、たくさんの方が会いに来てくれたり、サインを求めてくれたりするのを見て、『バレーボールともう一度しっかり向き合ってみよう』と思えるようになったんです」

――そのあたりから、試合中でも栗原さんの表情が柔らかくなったように感じたのですが。

「全日本では、『エースとしてコートに立つからには、笑ってはけない』と勝手に思っていましたからね。メディアで報道されるような私のイメージに、自ら寄せていった部分もあると思います。でも、全日本のことを気にしなくなってからは、後輩と接する時なども”そのままの自分”でいるようにしたんです。同級生や友達と接するようにフラットに接していたら、若い選手たちも自分の考えを話してくれるようになって、すごくいい関係が築けるようになりました」

――2006年あたりから度重なるケガとも戦ってきましたが、振り返っていかがですか?

「ケガによって『引退しなくちゃいけないのかな』と思うことはたくさんありました。最初に左ひざをケガした時は、手術やリハビリの大変さをあまり知らなかった分、すごく前向きに考えることができたんです。でも、2回、3回とケガ重ねていくごとに、『前の体とは違う体なんだな』『またやってしまった。コートに戻れるだろうか』という不安が増していきました。それでも、病院のリハビリ室に行くと、同じくリハビリを行なう方たちには『大丈夫、治るよ』『メグちゃん、いつも見てたよ』と声をかけてもらえて。そこで狭くなっていた視野を広げることができ、コートに戻ることができたんだと思います」

――ここ数年は、日立リヴァーレ、JTマーヴェラスでも存在感のあるプレーを見せていましたし、まだ現役を続けると思っていたファンもたくさんいたと思います。

「確かに、傷が癒えたことでコンディションが上がってきて、プレーの幅も少しでも広げることができた数年間でした。トレーニングもしっかりやってきましたし、『年齢は関係ない』と胸を張って言えます。JTの吉原(知子)監督からも留意いただけて、現役を続けることもできたと思いますが、ベストな体の状態で引退するのが理想としていた引き際だったんです。

 もちろん、限界ギリギリまでやり切るという考えも尊敬しています。自分がケガで苦しんでいた時にそんな選手が頑張っている姿を見たら、きっと勇気をもらえたと思います。選手それぞれに美学があって、私にとってはそれが、『まだやれる』と思ってもらえる中で引退をすることでした。長くケガで苦しんできたからこそ、そういう考えが生まれたのかもしれませんね」

――今後についてのビジョンはありますか? Vリーグや海外のクラブ、全日本で経験と実績を積んだ栗原さんであれば、解説者などのオファーも届くのではないかと思いますが。

「自分の経験が生かせる場をもらえるとしたら幸せですね。確かに、私はいろんなチームでプレーさせてもらって、それぞれスタイルがまったく違うことを肌で感じることができました。そんなチームごとのよさなどをファンの方たちに伝えることが、バレーボールへの”恩返し”のひとつではあると思います。それが向いているかどうかはわからないですけど、これからいろんな勉強をしていこうと思っています」

――指導者になるという道も考えていますか?

「いや、そんな器じゃないかなと思います(笑)」

――JTの吉原監督も、現役引退時に「絶対に指導者はやりません」とか言っていましたが、今では名監督になっています。

「それこそ器が違いますよ(笑)。私は”プレーすること”が大好きで、それでここまでやってこられましたが、指導者はそれ以上の難しさがあると思うんです。チームのすべてを担う上での悩み、それを共有できない苦しさなどがあるんだろうなということも、現役時代にいろんな監督と接してきた中で感じてきました。私にその役割ができるかと考えたら……やっぱり難しいかな(笑)。とにかく今は、さまざまなことに目を向けて、自分のできることを探しながら前に進んでいきたいです」