スタートして、最初のコーナーを回って、馬の並びが落ち着き始めた頃、ファンの多くは「なんか違う……」と思い始めていた。

 1991年6月9日、阪神競馬場の全面改築工事によって、この年は京都競馬場で行なわれたGI宝塚記念(芝2200m)。10頭立てで、単勝1倍台の支持を集めたメジロマックイーンが単枠指定されたレースだった。

 メジロマックイーンとは差があったものの、2番人気も同じ「メジロ」のメジロライアン。メジロ勢が上位人気を独占したことから、この時のレースは「メジロ記念」とも言われた。

 ファンが感じた「なんか違う」の原因を作ったのは、2番人気のメジロライアンのほうだった。

 ここまでに両馬はGIで2度対戦し、勝ったのはいずれもメジロマックイーン。そして、そのときの位置取りは、どちらもメジロマックイーンが先行して、メジロライアンが後方から追い込む、というものだった。

 ところが、この時は、追い込むはずのメジロライアンが逃げ・先行勢に次ぐ2〜3番手を追走し、直後にメジロマックイーンが続いていた。つまり、いつもと位置取りが逆だったのだ。

 もともとメジロライアンは、豪快な末脚を武器としていた。新馬、未勝利の頃を除けば、ずっと後方一気の追い込み策をとって結果を出し、一流馬にのし上がっている。

 このときの先行策は、その”プロフィール”とは明らかに違う。ゆえに、多くのファンがある種の違和感を覚えたのだ。

 しかし、この先行策こそ、それまでにメジロライアンが抱えてきた鬱憤も、無念も、一気に晴らす起死回生の一手だった――。


宝塚記念で念願のGI制覇を遂げたメジロライアン

 メジロライアンは、早くから「大器」と言われ続けていた。1990年のGI日本ダービー(東京・芝2400m)では、1番人気に支持されている。

 だが、このダービーも、その前のGI皐月賞(中山・芝2000m)も、善戦したものの、勝ち切れなかった。ともに強烈な追い込みを見せるが、皐月賞は3着、ダービーは2着と一歩及ばなかった。

 三冠最後の菊花賞(京都・芝3000m)では、皐月賞馬、ダービー馬も故障で不在。「今度こそ」と願ったファンの期待は大きく、単勝は2.2倍。ダービーに続いて1番人気に支持された。

 しかし、メジロマックイーンという同じ牧場で育った”新星”の登場によって、またしても3着と苦杯をなめることに。

 おそらくこの頃から、メジロライアンの「大器」という評価について、ファンも少しずつ疑いを持ち始めたのではないだろうか。おかげで、「大器」というよりは、むしろ有り余る才能を持て余して、結果につなげられない「イマイチ馬」といった声まで聞かれるようになっていた。

 そうして、この菊花賞を最後に、メジロライアンがGIで1番人気に支持されることはなかった。

 菊花賞のあと、メジロライアンはGI有馬記念(中山・芝2500m)に駒を進める。

 馬主としての「メジロ」はもうなくなってしまったが、この頃の「メジロ」は日本競馬界屈指のオーナーブリーダーだった。その「メジロ」が、メジロライアンの”イマイチぶり”に、大きな危機感を抱いた。

 このままでは「未完の大器」とか「無冠の帝王」と呼ばれ、1.5流の馬で終わってしまう。なんとか有馬記念を勝たせたい。

 そんなオーナーの思いを、同じ「メジロ」のメジロマックイーン陣営は察したのだろう。今で言う”忖度”をして、メジロマックイーンは確実に勝ち負けできる有馬記念の出走を回避した。

 こうして、メジロライアンを勝たせるお膳立ては整った。

 だが、そこにまた、思わぬ強敵が登場する。

 オグリキャップである。

 前走のGIジャパンC(東京・芝2400m)では11着と惨敗。一世を風靡したかつての輝きを失って、「もう終わった」という声も囁かれていたオグリキャップだったが、引退レースとなったこの有馬記念で奇跡の復活劇を披露したのである。

 そう、今やすっかり伝説となったオグリキャップの「感動のラストラン」は、実のところ、周りが寄ってたかって「メジロライアンに何とかGIを勝たせよう」とお膳立てした舞台だったのだ。

 メジロライアンは、1番人気のホワイトストーン(3着)こそクビ差でかわしたものの、オグリキャップには4分の3馬身差及ばなかった。

 ただ詰めが甘い、というだけではない。メジロライアンがいた頃の競馬シーンには、メジロマックイーンにしろ、オグリキャップにしろ、競馬史の中で名馬と語り継がれるような強力なライバルがいた。

 その意味では、確かに詰めも甘かったが、運もなかった。

 年が明けて挑んだGI天皇賞・春(京都・芝3200m)でも、再びメジロマックイーンの後塵を拝した。

 またダメか……。

 何度期待されても、期待に応えられない。メジロライアンに注がれるファンの目は、ますますシビアなものになっていく。

 そして、迎えた宝塚記念――。

 スタート後、2〜3番手につけたメジロライアンは、道中ずっとその位置をキープし、虎視眈々と抜け出すタイミングを計っていた。

 やがて、勝負どころとなる3角手前を迎える。メジロライアンは徐々に前をいく馬を捕らえにかかり、3〜4角中間あたりで、早くも馬群を割って先頭に踊り出る。

 メジロライアンのいつもとは違う戦法と、いつになく強気な姿勢に、場内のファンは鋭く反応。「ウォーッ!」とも「ドゥオーッ!」ともつかない大歓声が競馬場にこだました。

 4角から直線を向くと、さらに後続を引き離しにかかるメジロライアン。2番手以下との差がみるみる開いていく。あとは、ゴールまでまっしぐらだ。

 そこへ、メジロマックイーンが追いかけてくる。外、外を回りながら、一完歩ごとに差を詰めてくる。

 だが、このときばかりは、メジロライアンの「負けてなるか」のファイティングスピリットは衰えない。真っ先にゴール板を駆け抜けていった。

 終わってみれば、2着メジロマックイーンとの間には、1馬身半の差がついていた。

 完勝だった。菊花賞、天皇賞・春と、まったく歯が立たなかった相手にそれだけの差をつけて勝ったのだ。

 かくして、メジロライアンは”無冠”を返上。晴れてGI馬の仲間入りを果たした。

 後方一気を得意としていた馬が、好位・先行に戦法を変えた途端、それまでの”詰めの甘さ”が解消。想像以上の強さを発揮する――こうしたことは、競馬では少なからずある。

 けれども、GIの大舞台で、これほど鮮やかにそれをやってのけた、という例はあまり聞かない。

 それにしても、この戦法の転換はどのようにして生まれたのだろうか。

「馬が、そうしたがった」

 主戦の横山典弘騎手は、レース後にそう語っている。

 それは、本当に馬の意思なのか。いや、もしかすると、そのコメントは表面上のことで、実は名手・横山典騎手が騎手としての”引き出し”にしまい込んでいた、とっておきの挽回策だったかもしれない。

 メジロライアンはその後、脚部不安に悩まされ、翌1992年のGII日経賞(中山・芝2500m)を勝ったのを最後に引退する。

 そのドラマチックな競走馬としてストーリーのせいか、実際の競走成績以上に、多くのファンに愛された馬だった。

 もうすぐ、今年の宝塚記念(6月23日/阪神・芝2200m)。

 このレースは、メジロライアンをはじめ、GIを勝ち切れなかった馬たちが、煮え湯を飲まされてきたライバルに一矢報いる舞台として知られる。テイエムオペラオーの前にGI5戦連続2着という屈辱を味わわされた、2001年の覇者メイショウドトウもそうだ。 はたして今年も、そんな逆転劇が見られるのだろうか。