母を自宅で看取った54歳一人息子の思いとは。写真左より看取り士の岡亜佐子さん、井上直記さんと妻の恭子さん(写真:筆者撮影)

人はいつか老いて病んで死ぬ。その当たり前のことを私たちは家庭の日常から切り離し、親の老いによる病気や死を、病院に長い間任せきりにしてきた。結果、死はいつの間にか「冷たくて怖いもの」になり、親が死ぬと、どう受け止めればいいのかがわからず、喪失感に長く苦しむ人もいる。

一方で悲しいけれど老いた親に触れ、抱きしめ、思い出を共有して「温かい死」を迎える家族もいる。それを支えるのが「看取り士」だ。

連載6回目は約5年間の介護の末、86歳の母親を自宅で看取った54歳の1人息子の、最後の約1週間をたどる。母親のベッドで添い寝をして、生まれて初めて母親を抱きしめ、その手をさすった。看取り終えた彼が大きな達成感に包まれて、悲しくなかったのはなぜか。

息子は「母親が死ぬ準備を始めた」と直感した

「生まれて初めて抱きしめた母親は、言葉ではうまく表現しづらいんですが……、とても懐かしい匂いがしました。母の手触りや、その老いた体から伝わってくる何かを全身で感じ取りたかったんです」

井上直記(54)はそう振り返った。

母親が亡くなるまでの約1週間、直記は緊急入院から実家に戻った母親と同じベッドで、添い寝をして過ごした。どうして50歳を過ぎた彼が、命の瀬戸際にある86歳の母親に、添い寝をしようと思ったのか。


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「実家に戻った母親は、いったん元気を取り戻したんですが、私はふいに母が旅立つ準備をしていると直感しました。だから、最後の時間をしっかりと受け止めたいと思ったんです」

2019年5月、直記は母親の逝去から約4カ月後にそう話した。

直記は小さくなった母親を抱きしめたり、その手足を「大丈夫」と言ってさすったりしながら、子どもの頃からの思い出を一つひとつ振り返った。

「母が元気な頃は、感情を人一倍ぶつけてくることもあり、よく親子げんかもしました。反面、私が会社を辞めて、自然食品などを扱うお店を始めたときは、母もかなり心配したはずですが、私を信じて応援してくれました」

直記は一連の出来事を、母親の立場で振り返ってみて気がついたという。

「母はいつも無条件に、私のやることをすべて肯定してくれていたんだなぁと。ああ、ありがたかったなぁという気持ちがこみ上げきましたね」

人生のいいときもつらいときも、自分のことを全肯定してくれる母親という存在に、今さらながら直記はただただ圧倒された。

男性は母親の看取りで「いのち」を体感する

直記の母親は、車椅子ながらデイサービス施設に元気に通っていた。その状態が急変したのは2019年の元旦のこと。ひどくつらそうにあえぎ始めたので、直記は緊急入院をさせた。

約5年間の介護生活中、寝たきりになった母親と、直記たちが実家で同居を始めてから3年ほどが過ぎていた。

「入院してからも母の意識は戻らず、顔はむくみ、急性腎不全と心不全を併発しました。私は担当医に『医療は最低限だけでお願いします。自宅で看取るつもりでいますから』と伝えました」(直記)


自宅の居間に置かれたベッドで過ごす母親と家族(写真:直記さん提供)

8日に退院して自宅に戻ると、病院の6人部屋にいた頃は土気色だった母親の顔は穏やかなピンク色に戻り、目を開けて、周囲の声がけにも小さくうなずけるようになった。

直記の妻である恭子(50)は、その様子に再び元気になってくれるんじゃないかと内心思ったというが、直記は正反対のことを感じていた。

退院2日後から、直記は母親のベッドで添い寝を始めた。さらに経営する店のことは従業員に任せて、ほぼ飲まず食わずで向き合うようになった。

母のベッドは、ちゃぶ台のある8畳の居間の奥に置かれていた。たとえ寝たきりになっても、母親と食事や団らんの時間をともに過ごす。直記たちが同居を始めてから続けてきた習慣だった。

「ゆりかごの歌を
カナリヤが歌うよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ」

北原白秋作詞「ゆりかごの歌」の、ピアノの旋律だけの音楽CDが居間に静かに流れていた。直記が赤ん坊の頃、母親がよく歌ってくれた童謡だ。

恭子はある日、義母に添い寝する直記の姿が、かつての自分と生まれたての1人息子の姿と重なり、夫のきりきりした切実さが腑に落ちたと話す。

「まだ赤ん坊だった息子が泣くと、私も2、3時間おきに母乳をあげなければいけませんでした。もちろん眠たいし、体力的にもきつい。でも、小さないのちと向き合っている以上は手を抜けません。一方で男性は母親を看取るときが、目が離せないいのちと初めて向き合う時間で、主人は今それをやっているんだなって」

「もう、そろそろだと思うよ」

恭子が生と死の共通点に気づいた数日後、直記が自宅からお店に電話をかけてきて短く、静かにそう言ったという。

「主人に心の準備ができたんだなと思いました。お義母さんに添い寝するようになった当初は、泣いているところを何度か見ていましたから。でも、お義母さんの容態が落ち着き、主人も冷静さを取り戻していました」

直記の心境には1つの変化が生まれていた。

「当初は息子として、母の死をしっかり見届けようという気持ちでした。ところが、母と向き合っているうちに、これは私自身が母の死を受け入れる覚悟を決めないと、ちゃんと見送れないぞと考えるようになりました。物言わぬ母が私にそう伝えようとしてくれている、そう感じたんです」

実は、直記は13年ほど前、柴田久美子(現・日本看取り士会会長)を山梨県甲府市に招き、講演会を開いていた。まだ一般社団法人になる前で、柴田が島根県の離島で高齢者たちを抱きしめて看取っていた頃だ。

看取り士とは、余命告知を受けた人の家族から依頼を受け、納棺までの時間を本人と家族に寄り添う仕事。家族には直記のように、老いた親の手足をさすったり抱きしめたりして、死への不安をやわらげることを勧める。

直記は昔、恭子とインド旅行に出かけている。その際、修道女マザー・テレサが運営する「死を待つ人々の家」(看取りの施設)に、ボランティアとして数日間滞在した。帰国後、柴田がマザーを目指して、高齢者を抱きしめて看取る施設を始めたことを知り、講演会に招いたのだ。

しかし、直記は母親の介護が始まり、やがて寝たきりになって実家で同居を始めてからも、柴田に連絡を取るのをためらっていた。

「母を家に連れて帰りたいので、お手伝いをお願いします」

直記が以前からの知人で、同じ山梨県甲府市に住む看取り士の岡亜佐子(54)に、意を決して電話したのは、母親が退院する2日前だった。

「看取りの主役は本人と家族」という考え方

看取り士の岡は入院中に1度と、母親が自宅に戻った日に訪問して、看取りの考え方と、基本的な作法を直記と恭子に丁寧に伝えた。

「以降、直記さんから1日に何度も、お母様の様子を伝える電話がかかってきました。当初はかなり不安なご様子でした。私も何かお手伝いしたいと思い、柴田会長に電話で、『(ご実家に)うかがったほうがよろしいでしょうか』と相談しましたが、会長は『待機お願いします』と言われたので、動けませんでした」

日本看取り士会の考え方は、看取りの主役は死が迫ったご本人とご家族。看取り士の仕事は、1人の死を前にして何もできない無力な自分と向き合い、そのうえで依頼者に寄り添うことだ。契約を結んだ後も依頼者からの要請がないと動けない。たとえ看取りであっても、だ。

「ですが、あの時点の私は、会長の真意を受け止め切れていませんでした。依頼者から『来てほしい』と言われるまでは、お母様とご家族で過ごされる時間。それを邪魔してはいけないという程度の理解でしたから」(岡)

今まで約200人を看取ってきた柴田会長と、毎回、個々の依頼者を担当する看取り士2人がチームで動く。依頼者の要望があれば、いつでも、どちらかの看取り士が駆けつけられるためだ。岡のパートナーは看護師でもある看取り士だった。


母のベッドにあぐらをかいて座り、右太腿の上に母親の頭をのせる直記さん(写真:直記さん提供)

しばらくして、直記から1本の動画が岡のスマホに届いた。彼が母親のベッドにあぐらをかいて座り、右太腿の上に母親の頭をのせ、首を曲げて呼吸合わせをしている映像だった。

呼吸を1つにすることで、旅立つ人の不安や恐怖を共有してやさしく包み込み、決して1人ではないと伝える。看取りの大切な作法(「幸せに看取るための4つの作法」)の1つ。岡が事前に直記たちに教えていたものだ。

しかし、その動画を見た岡はなぜか、「お母様が直記さんにその作法をさせている」と直感したという。

「私がお教えした作法でしたが、そのときは看取り士を依頼しながらも、心がまだ揺れている直記さんに対して、お母様が看取る覚悟を決めるように無言で促している光景に見えたんです。柴田会長が常々言われる『旅立つ本人が、自分の死をプロデュースする』とは、こういうことか、と」

先に書いた直記自身の心境変化とも重なる。依頼者と看取り士が別々の場所で、別々の過程を経て、同じ気づきを得ていたことになる。

「柴田会長の『待機お願いします』とは、直記さんの看取る覚悟が決まることまでを言い含んでいたことに、私はここでようやく気づくわけです。同時に、ご依頼者のおそばにいなくても、その心情には寄り添えるという、貴重な経験も積ませていただきました」(岡)

岡の一連の気づきから、看取り士という仕事の新たな一面が垣間見える。

かつて岡は葬儀社を軸に、冠婚葬祭業に長年携わってきた。彼女が看取り士養成講座を受けた際、最初の後悔は、葬儀社時代に遺体のお腹にドライアイスを置いてきたこと。看取り士会では亡くなっても温かい故人の体に家族が触れ、そのエネルギーを受け取ることが大切とされるからだ。

看取った後の「一体感」で悲しくなかった

1月17日深夜、井上夫妻がうとうとした頃に母親は逝った。結局、死に目には会えなかったが、直記は大きな達成感に包まれたと話した。

「言葉で伝わるかどうかはわかりませんが、母親が私の体内にすっと入ってきたような感覚がありました。いわゆる『旅立った』というのとは正反対の一体感で、だから少しも悲しくなかったんです」

直記は通夜と告別式でも泰然としていられた。自分も息子に看取ってもらい、この気づきを伝えていきたいと彼は話し、岡への感謝も口にした。


直記さんと母(写真:直記さん提供)

「私の情緒が不安定な頃は、岡さんに何度も電話をかけてしまいましたが、毎回穏やかに受け止めていただきました。人生で初めての体験でしたから、何かわからないことがあれば、すぐに聞ける人が近くにいるのは心強かったですね。お願いすれば、すぐに駆けつけてもらえるわけですし」

恭子は看取りを終えた後、自身のブログに1枚の画像と記事をアップした。同居を始めてから約1年半後、ちょうど認知症が始まった頃の義母と撮影したもので、からっとしたユーモアを感じさせる。

「人としての自我や執着がとれて、お義母さんはとてもかわいくなられたんです。まるで子どもみたいに『お腹が空いたぁ〜』と言われたりして……。当時のお義母さんの生きた証しを残したいと思いました」

今日1日をしっかり生きなきゃいけない


恭子さんと義母(写真:直記さん提供)

そう話す恭子は、長男のときに経験した自宅出産と、今回の看取りは似ていると思ったという。どちらも家族で取り囲んでいて、出産時はいのちが出てくるのを、看取りではいのちが逝くのを待っていたからだ。

「もちろん、人が生まれて死ぬのは当たり前のことです。でも看取りについて言えば、さっきまで息をしていた家族が本当に亡くなることに直面すると、自分も明日死ぬかもしれないから、今日1日をしっかりと生きなきゃいけないと、私は生まれて初めて痛感させられました」

恭子が手に入れた死生観だ。

多くの人はなかなか「明日死ぬかもしれない」と思って、今日1日を生きられない。恭子自身もそう実感することがあっただろう。しかし、頭ではわかっていても、そうできない苦味をかみしめられる人と、そうでない人の軌跡は大きく違ってくる。

日本看取り士会の柴田会長は小学6年生で、大人たちに交じって最愛の父親を自宅で看取っている。1976年までは過半数の日本人が自宅で肉親を看取り、子どもも大人もそれぞれに死生観を磨いていた。

(=文中敬称略=)