東京の「自由が丘」といえば、誰もが聞いたことがある人気スポットで、その駅のすぐ近くに一軒のイタリアンレストランがあった。

 知人に連れられて行ったのが最初だったが、そこのオーナーシェフが”野球人”で、しかもかつてドラフト1位でプロの世界に進んだと聞いて、恐縮しながら入ったのを覚えている。だが、スラリとした細身の体、穏やかな語り口は、とても元プロ野球選手には思えなかった。

 オーナーシェフの名は、水尾嘉孝――福井工業大学の本格派サウスポーとして鳴らし、1990年のドラフトで横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)から1位で指名され入団した。


上武大戦で好投した福井工業大の1年右腕・立石健

 横浜大洋時代は3年間で20試合の登板に終わったが、移籍したオリックスでは1997年に68試合、翌年も55試合に登板するなど、中継ぎとして活躍。2001年からは3年間、西武でもプレーした。

 しなやかな腕の振りから140キロ台中盤のストレートにスライダー、チェンジアップを投げまくったその手で、前菜を鮮やかに皿に盛りつけ、トロトロになるまでビーフを煮込み、濃厚なトマトソースのパスタを和える……その”ギャップ”で余計に美味しく感じた。

 その水尾シェフが店を閉め、母校の福井工業大学の野球部の指導に専念すると聞き、驚きよりも「ああ、やっぱりなぁ……」と思ったものだ。

 なぜなら、野球関係者と店に行った時、ひと通り料理を出し終えると調理場から出てきて、私たちの”野球談義”をやや離れたところから聞いている。それも、ただ聞いているのではなく、いつその話に加わってやろうかと、その頃合を見計らっている様子が見え見えで、いったん参戦するや、穏やかさのなかにも熱を帯び、身ぶり手ぶり、野球話が止まらない。

 店にうかがうたびにそんな感じで、食事の後半はいつも”水尾嘉孝野球教室”状態になっていた。

「1年生なんですけど、誰が見ても立派なエースです。135キロぐらいの力感で140キロ台のスピードをコンスタントに出しますし、カーブで簡単にストライクが取れる。なにより物怖じしないのがいいですね。ランナーを背負ってからの落ち着いた投げっぷりは、ほんと見ていて頼もしいです」

 全日本大学野球選手権初戦(福井工業大×上武大)の試合前、水尾コーチはこの日先発のマウンドに上がる183センチの1年生右腕について教えてくれた。

 その水尾コーチの愛弟子である立石健が、全国大会常連の上武大に対して7回2失点、被安打3、奪三振7の好投を見せ、”金星”の立役者となった。

 初回からいつも投げているような顔で、初めての東京ドームのマウンドを楽しんでいるように見えた。球速表示は140キロ台前半でも、ほとんどのバッターが差し込まれていたのを見ると、おそらく150キロぐらいに感じていたのではないだろうか。

 また、フォークと思っていた鋭いタテの変化球は、あとで水尾コーチに聞いたら「あれ、チェンジアップなんですよ」と教えてくれた。そのチェンジアップをカウント球にも勝負球にもできる投球術。なにより、角度がすばらしかった。

「1年生で、しかもこの大舞台で、あのピッチング。すごいとしか言えない。ずっとドキドキでしたけどね。4年生までにどう変わっていくのか。楽しみしかないですね」

 いつもと変わらぬ穏やかな口調で水尾コーチは語った。そういえば、以前、こんなことを言っていた。

「今は非力でも、柔軟性があって、バランスがよくて、野球センスがあって……そういうピッチャーを見ると、体ができてパワーがついてくるとどうなるんだろうって……そう思うとワクワクしてしょうがないんです」

 まさに立石は、それにピタリと当てはまる投手だった。

「もう料理の世界には帰ってこないですね(笑)」と聞いたら、「いえいえ、また戻ります、戻りますよ。この子たちのメドがついたら、店をまた探します」と、ずっと”野球人”でいることを否定した。しかし、教え子たちの話をしているその表情は、充実感に満ち溢れていた。水尾シェフもいいが、やっぱり水尾コーチのほうがよく似合う。