「そのVRヘッドセットが65万円でも“高くない”と言える、たったひとつの理由」の写真・リンク付きの記事はこちら

夜のベルリン。駐車スペースに停められたコンセプトカーの曲線が、街の光を反射する。ボンネットの横にかがみこむようにして、その形を愛でた。ボディーの塗装がきらめき、タイヤに刻まれた「SPEED-GRIP」のロゴが目に入る。ロゴはぼやけているが、汚れや傷は見えない。まるで秘密の工場から空輸されたばかりで、道路をまったく走っていないかのようだ。

こんな光景は、いままで見たことがなかった。仮想現実(VR)のヘッドセット越しには、とりわけそうだと言えるだろう。VRの世界において、文字の視認性は常に犠牲にされてきたからだ。

そんな状況を変えたのが、フィンランドのヘルシンキに本社があるVarjo(ヴァルヨ)である。同社が開発したVRヘッドセットの試作品を初めて見た約2年前は、まだその場しのぎ的な代物だった。この試作品はオキュラスのVRヘッドセット「Oculus Rift」を改造したもので、超高解像度のマイクロディスプレイが視界の中心部に表示されるようになっていた。

それは、これまで体験したなかで最も鮮明なVRだった。そこにさらなる改良が加えられ、このたび完成されたデヴァイスになったのだ。

青ざめるほどの高値

世界でたったひとつのプロ用VRヘッドセット。それは人間の眼と同等の解像度を備えている──。今年2月に発売した「VR-1」について、ヴァルヨはそう謳っている。

ここで鍵を握るのは「プロ用」というフレーズだ。鏡面仕上げのアイボックスと、かつてないほどに本物さながらの迫力は、まるで未来の人々が築き上げた遺物を目前にしているような感じすらする。

一方で5,995ドル(約65万円)という値札を見れば、それは万人のためのデヴァイスではないことを実感するだろう。これは消費者向けの商品ではなく、ヴァルヨのベータプログラムに1年にわたって参加した企業を対象とした製品なのだ。

そしてエアバスやアウディ、英国の大手設計事務所フォスター・アンド・パートナーズなど、プログラムに参加した企業にとっては、長期的に得られる恩恵を考えれば、その青ざめるほどの高値は大きな問題ではない。

ビジネスツールとしてのVR

企業にとって、VRヘッドセットはゲームや社会的体験に使うものではなく、仕事の道具である。このため求められる機能も消費者向けの商品とは少し異なる。

まず、ワイヤレスであることは重視されない。なぜなら、複雑な数値計算や高度な画像作成などのタスクを処理できるワークステーションの前に座って使用することを、企業は想定しているからだ。

むしろ、プロ用のデザインソフトやレンダリングソフトと連動させることを重視している。例えば、CADソフトウェアを開発するオートデスクの3Dヴィジュアライゼーションソフト「VRED」、エピック・ゲームズ(Epic Games)のゲームエンジン「Unreal」、ロッキード・マーティンが開発したフライトシミュレーションソフト「Prepar3D」などだ。

また、訓練やシミュレーションに利用する場合は、眼球の動きを追跡できるアイトラッキングの機能もあったほうがいいだろう。

こうしたパートナー企業のニーズを、ヴァルヨはベータプログラムが始まったころから吸い上げ続けてきた。そのかたわら、従業員が12人から100人超の規模にまで成長したのである。これはシリーズBの資金調達ラウンドで3,100万ドル(約35億円)を18年に手にした影響が大きいだろう。

「プロのために、プロとともにつくり上げた製品です」と最高マーケティング責任者(CMO)のユッシ・マキネンは言う。「消費者向けの製品をプロ市場用に改良したものではありません」

プロ市場を制する鍵

ところが、ヴァルヨが17年にステルスモードから脱した瞬間に、各社はある機能を声高に求めるようになった。その機能とは解像度だ。「この問題を解決できればプロ市場を制することができます」と、同社の最高技術責任者(CTO)ウルホ・コントリは語る。

ヴァルヨは課題解決に取り組むことにした。VR-1は、『WIRED』US版が取材したOculus Riftをベースとした試作品と同じように、従来の有機ELディスプレイの中心にソニーのマイクロディスプレイが映す映像を投影している。このマイクロディスプレイは0.75インチ足らずのサイズでありながら、フルHDのディスプレイだ。

以前と異なる点もある。例えばVR-1は、ヘッドセットの左右に1つずつ、マイクロディスプレイを組み込んでいる。この結果、独自の光学システムのおかげもあり、63角画素密度(角度あたりの画素数)を誇る「Bionic Display」の視野角が、18度増えて31度にまで拡大した。これはマイクロソフトの複合現実(MR)ヘッドセット「Microsoft HoloLens」の視野角に匹敵する。

大した数字に聞こえないかもしれないが、拡張現実(AR)ヘッドセットの強みは、仮想の物体の全体像を見られるスイートスポットだけである点を思い出してほしい。かたやVR-1の場合、スイートスポット以外(「周辺ディスプレイ」とヴァルヨは呼んでいる)の性能も最強だ。

台湾の液晶パネル大手であるAU Optronics(AUO、友達光電)の有機ELディスプレイ(1440×1600)を左右に配することによって、VR-1の画素密度はHTCのVRヘッドセット「VIVE Pro」を上回った。視野角はVIVE Proよりわずかに劣るものの、全体的にはHPが「Copper」というコード名で開発しているプロ市場向け次世代VRヘッドセットと同じ程度だと、コントリは説明する。

HTCのVIVE Pro(左)と、VarjoのVR-1に搭載されたBionic Display(右)でレンダリングしたアウディのクルマの内装。PHOTOGRAPH BY VARJO

鮮明さが生み出すリアル

しかし、これらは上辺の数字にすぎない。発売に先立ち、Bionic Displayによるいくつかのデモンストレーションを体験して、自動車メーカーや設計事務所、航空会社に大きな変革をもたらすかもしれない本当の理由を理解した。

まず、フライトシミュレーターで操縦席に座ってみた。ヴァルヨの試作品を初めて体験したときと同じように、計器パネルが鮮明に目に映っただけでなく、小さな数字やスイッチのラベルまで判読できる。VRヘッドセットを使ったことのある人であれば、文字を読み取るのが難しいことはよく知っているだろう。

スイートスポットが視野中央の大部分を占めていたため、どこを見ても現実世界のように鮮明に見えた。ただ、頭をあちこちに動かすと、まるで波のように錯視が起きる。これは2つのディスプレイの差異が原因だ。消費者向けのヘッドセットであればイライラするかもしれないが、VR-1がピントと細部の見え方を重視している点を踏まえると、重要な問題ではないか。

次にコンセプトカーを体験し、そのあとで建築・デザイン分野における活用例を見た。天窓のある部屋に立つと、採光の変化を感じとることができる。さらに屋外でのVRも体験した。

フィンランドのアーティストが使用するアトリエは、現場にいるのと見分けがつかないほどリアルだった。写真測量法によって再現しており、2時間で集めた画像を24時間でレンダリングしたそうだ。アトリエ内を歩き回って、テーブルの下をのぞきこんだり文字を読んだりしていたが、そのすべてが実物と変わらぬほど鮮明である。

続いて航空管制のシミュレーションを体験した。空港に近づいてくる航空機に色を付けることによって、着陸経路と空港ゲートまでの最適なルートを判断することができるという。

VRがもたらす未来

仕事のやり方が変わる、反復作業の処理速度が向上する、海を越えた共同作業が可能になる、労働者が従来とは異なる方法で経験を積むことができる──。そんな未来を、VRは企業に対して約束してきた。

コントリによれば、フルフライトシミュレーターは驚くほど高価なため、あまり導入されていない。このため、商用機のパイロットは外国で毎年の定期訓練を受けることもあるという。わざわざ外国に出向くことなく、会社でヘッドセットを装着してこうした訓練をたとえ一部でも受けることができたら、企業の経営者は間違いなく魅力を感じるだろう。

「航空会社や航空機メーカーと、わたしたちは連携しています」とコントリは言う。「ある航空会社は、パイロットふたり分の訓練費用でヘッドセットと専用PCのコストを回収できると話していました」

約6,000ドルという価格は誰にとっても大金だ。しかし、バランスシートに10億ドル単位の金額を書き入れるような資金力のある企業において、6,000ドルが建物の設計やクルマの開発、従業員の訓練などのあり方を変えるとしたらどうだろう? 高い買い物かもしれないが、それ以上の利益を生み出すよい投資であるはずだ。