『鉄道員(ぽっぽや)』をはじめ、高倉健氏が主演する数々のヒット作を世に送り出してきた巨匠、降旗康男氏が5月20日鬼籍に入った。『高倉健ラストインタヴューズ』(プレジデント社)の取材などで降旗監督と親交のあったノンフィクション作家・野地秩嘉氏の追悼文をお届けしよう――。

■高倉健さんの「たったひとりの友人」

高倉健さんは親しくなったら、人を「ちゃん」付けで呼んだ。沢木耕太郎氏のことは「沢木ちゃん」と呼んだし、わたしも「野地ちゃん」と呼ばれた。

そして、さらに親しい人たち、身内になったら、呼び捨てだった。札幌にある寿司店「すし善」社長の嶋宮さんのことは「おい、嶋宮」と呼んでいた。高倉さんは嶋宮さんが好きなんだなとわたしは感じた。

降旗康男監督(撮影=山川雅生)

そうして、呼び捨てよりもさらに上位の人がひとりだけいた。それが「カントク」と呼ばれていた人だ。降旗康男さんである。高倉さんは時に「降さん」とも呼んでいたけれど、わたしがそばにいた時はつねにカントクと呼んで、楽しそうにふたりで話していた。

高倉さんにとっての「カントク」はたったひとりの友人だった。他にも「親友」とされる人はいたけれど、高倉さんが仕事のこと、家庭のこと、その他もろもろの人には言えない話をしていたのは降旗さんだけだったと思う。

■美空ひばりさんに「バン」をかけられていた

ある時、わたしは質問した。

「どうして、高倉さんと親しくなったのですか?」

カントクは「僕は(美空)ひばりちゃんから救い出す役だったからね」と答えた。

「健さんはひばりちゃんの相手役をやっていて、撮影が終わると横浜のひばり御殿に連れていかれる。そこで、お父さんが作った寿司を食わされるんだよ。つまりね、バンをかけられたわけ」

「バンをかける?」

「あれ、知らないの? 今風に言えば、ナンパされるってことかな」

「美空ひばりさんが高倉さんをナンパした?」

「そう、健さんはまだ江利(チエミ)さんと結婚する前だからね。それはそうと、健さんはひばりちゃんのバンを払いのけたくて、同席していた僕を見るわけ。助監督だった僕は『すみません、撮影所に戻ります』と頭を下げて、健さんとふたりで東京に戻る」

「一度だけですか?」

カントクは首を横に振った。

「撮影の後は、ほぼ毎晩かな」

■どんな撮影でも「役者の演技」だけを見る

わたしは『鉄道員』『ホタル』『単騎、千里を走る。』『あなたへ』の撮影を見学した。『鉄道員』は毎日のように大泉の撮影所を訪ね、ロケもすべて見た。

どんな撮影の時でも、カントクは終始、役者の演技だけを見ていた。キャメラの横にモニターはあったけれど、カントク自身は一度もモニターを見なかった。

どうしてと思ったので、聞いた。

カントクは言った。

「僕はモニターは見ません。ラッシュまで見ないことにしています。今の人たちはみんな見てますね。それは俳優さんの芝居の質よりも、どういった画面になったかが気になるからでしょう。演出者として、画面に気が行っちゃってるんでしょうね。でも、僕は画面を気にするのはキャメラマンの仕事だと思っているから、俳優さんの演技を見ることにしています。うん、昔風の演出なんです」

カントクはNGを出す。それは画面の映り具合がダメなのでなく、俳優の演技がいまひとつだからだ。俳優にとっては、「キツイ」ことかもしれない。

それでも、カントクは「もう一度、お願いします」と指示を出す。そして、たとえ高倉健であっても、カントクから「もう一度」と言われたら、素直にやり直す。

■俳優の演技を「やさしい目」で見ている

それはカントクが俳優の演技をやさしい目で見ているからだ。大半の俳優はカントクがカメラ写りでなく、演技の質を求めていることをよく知っている。

「俳優さんが一回目からちゃんと演技するのは難しいことだと思います。演技は裸の人間がやっていることです。動きや声を発するのは、撮影が始まったばかりでは難しいんです。やろうと思ってから、肉体がいうことを聞いてくれるまでには時間がかかる。ですから、初回から、気の入った演技ができなくても、それは仕方がないことだと僕は思います」

ここまでやさしく見守っているカントクなのに、なかには「もう一度」と指示しても、演技しようとしない女優もいるらしい。

一応、わたしは「誰ですか?」とたずねた。

「ああ、『どこが悪かったのか教えてくださいっ!』って答える人ね? うん、○○○○さん」

「ありがとうございました」

あ、この女はゴネるやつなんだとわたしは妙に納得した。カントクはこう言う時、はっきりと教えてくれる。気持ちがいい。

そして、カントクは撮影の間じゅう、ずっと俳優の演技と表情を見ている。

■山口百恵さんの「表情がよかった」

「山口百恵さんと仕事しましたね」

「『赤い迷路』。赤いシリーズの最初のやつでね。僕は山口百恵という人を知らなかったんです。僕が彼女を気に入ったところは何だと言われたら、それは表情です。不幸な表情がよかった。あの頃は彼女にとって一番、仕事が入っていた時でしょう。忙しくて、車で移動して、飯を食う間もないというスケジュールでやっていたから、演技を考える暇なんかなかった。だから、僕は百恵ちゃんの顔だけを撮ることにしたんだ。それでも、彼女の表情がよかったから40分なり、50分、なんとかなったんです」

もうひとり、カントクが「いい表情をしている」といった俳優が志村けん。カントクはサウナのなかのテレビで志村さんを見ていて、表情がよかったから、『鉄道員』に出演をオファーした。

■ものすごい迫力だった暴力シーン

「健さんの映画で僕がいちばん気に入っているのは、あまり考えたことないのだけれど、『冬の華』のあそこじゃないかなと思います。東映育ちの監督が東映育ちの俳優を撮ると、ああいう風になるんだなと思っていただければ……」

「路上でやくざをたたき伏せる、おっかないシーンですか?」

「そうです」

「あんなに高倉健さんが暴力が似合う人とは思いませんでした。ものすごい迫力でした。同じスターでも石原裕次郎さんとは違いますね。裕次郎さんはケンカのシーンでも怖いとは感じません」

「石原裕次郎さんは俳優、歌手で売れたけれど、本質的にはプロデューサーですよね。『オレは石原裕次郎というスターを演じる』と考えられる人です。健さんは違う。俳優です。芝居をするだけです」

■カントクの家の向かいに住んでいた

カントクの話はいくらでもできる。取材で会ったこともあるけれど、わたしは数年間、カントクの家の向かいに住んでいた。散歩のときに出会って、「飲みに行きますか?」と誘うと、「ええ」とOKしてくれた。たいていは学芸大学の近くの居酒屋、寿司屋、焼鳥屋だった。家まで迎えに行くと、革のジャケットとジーパンという格好がほとんどで、しかし、なぜか足元は下駄だった。カランコロンと音をさせるカントクとふたりで酒を飲みに行った。

家に呼ばれたこともある。

「森伊蔵があるよ」「カンパチを送ってきたから」とごちそうになった。

何かお礼がしたいと思ったわたしはカントク夫妻と出会うたびに、次のような挨拶をくり返した。

■「革のジャケットとジーパンで旅立った」

「奥さん、おきれいですけれど、やっぱり撮影中に出会ったんですか?」

「ん」

「女優さんでしょ?」

奥さんは「いやだ―」と言って、朗らかに笑う。カントクは頰を緩めるだけで、ひとこともしゃべらない。

奥さんは作家のお嬢さんで、女優ではないのだけれど、わたしは出会うたびにしつこく「やっぱり女優さんですよね」とお約束で、そう言った。

もうそれができなくなった。

亡くなったと聞いた日にお宅へ伺ったら、奥さまが「革のジャケットとジーパンで旅だった」と教えてくれた。下駄は履いてなかったようだ。仏壇に線香はあったけれど、戒名もなく、花と写真だけだった。「香典は絶対に受け取るな」と言っていたとのこと。そして葬儀もせず、骨は散骨する。散骨するには抽選に申し込まなきゃいけないらしく、カントクは「今年になってやっと当たった」と喜んでいたという。

カントク、そうなんだ。そういう好みだったなとあらためて思った。(敬称略)

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野地秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉 撮影=山川雅生)