125キロはあろうかという巨体を乗り出し、鋭い視線で試合を見つめる男を県営大宮公園球場のネット裏で見かけた。その男の名は、かつて日本ハムに在籍していた元プロ野球選手の矢作公一だ。


山村学園の臨時コーチとして5年目を迎える矢作公一氏

 5月22日。グラウンドでは、高校野球の春季関東大会の準決勝、山村学園(埼玉)と東海大相模(神奈川)の試合が行なわれていた。山村学園・和田朋也と東海大相模の二枚看板・冨重英二郎、野口裕斗との緊迫した投手戦が続き、試合は1対1で延長戦に入っていた。10回表に東海大相模は、疲れの見えた和田から3連打と犠飛で3点を奪い、試合の勝敗を決めた。

 試合が終わると、矢作は大きな体を揺すりながら席を立ち、選手ミーティングのために球場下へと降りていった。矢作は5年前から山村学園の臨時コーチとして選手を指導しているのだ。

「最近、底力がついてきました。エースの和田は1年から投げているし、センターラインもしっかりしている。それでもケガ人が多く、チームとしては五体満足ではありませんが、そのなかでいい成績(関東大会ベスト4)を挙げられたことは大きな自信になりました。このまま驕(おご)ることなく夏に入っていければ、いい結果が出ると思います。油断すれば悪い方向にいってしまうので、そのあたりを引き締められるように導ければと思います」

 矢作は立教高校(現・立教新座高校)から立教大に進み、1学年上の長嶋一茂と3、4番を組み、神宮球場を沸かせたスラッガーだ。大学時代は故障もあったが、東京六大学リーグ歴代9位タイの17本塁打を放ち、ベストナインも2度受賞。1988年のドラフトで日本ハムから6位指名でプロ入りを果たした。

「(大学時代は)長嶋先輩にはいい経験をさせてもらいました。先輩がいたおかげで注目もされ、人に見られることの喜びも知った時期でした。お互い引退してからは別々の道を歩いていますが、いつでも連絡を取り合える仲です。大学では同級生より一緒にいる時間は長かったし、プロを目指すという同じ境遇で練習もしていましたし、夜遅くまで野球談義に花を咲かせたこともありました」

 プロに入ってからの矢作は、ケガに振り回された。右手首の腱鞘炎と背筋痛に悩まされ、痛み止めを打ちながらの代打出場ばかりで、思うような結果が出なかった。そして4年目のシーズンを終えると、悩み抜いた末に自ら引退を決意した。

 引退後は不動産管理と人材派遣の仕事をしながら、2014年1月に学生野球資格回復制度の資格を取得。ふたりの小学生の息子が軟式少年野球チーム に入ったことで、監督に就任。弱小チームだったが、就任3年目に高円宮賜杯全日本学童軟式野球大会に出場するなど指導力を発揮。2005年には全国ベスト16まで勝ち進んだ。

 それがきっかけとなり、埼玉県戸田市美女木にY・S・B野球塾を開設。仕事を終えた夕方から小・中学生に野球を教えている。同時に硬式野球クラブチームの強豪・浦和リトルシニアのヘッドコーチも任され、2010年の選抜大会では上林誠知(現・ソフトバンク)を擁し、全国制覇を果たした。

 その頃、山村学園で監督を務める岡野泰崇が矢作のもとを訪ねてきた。面識はなく、年齢は10歳ほど岡野のほうが下だが、立教大野球部の先輩・後輩ということで意気投合。高校野球にとって必要なものや、指導法について意見を交換した。ふたりとも大学野球のすばらしさを知っているので、大学まで野球を続けていく選手たちのケアなど、方向性が一致。手弁当で週2回程度、臨時コーチとして山村学園を指導することになった。

 岡野は茨城県立緑岡高校から一浪して立教大に進み、二塁手として活躍。卒業後はさくら銀行(現・三井住友銀行)に進むも、1年で休部となり、心機一転、指導者を目指し社会科教員免許を取得して茨城県立岩井西高校(現・岩井高校)に赴任。その後、体育教員免許も取得し、水城高校(茨城)、東洋高校(東京)を経て、2010年に山村学園の体育教諭兼野球部監督となり、今年で10年目を迎えた。

 シートノックの時には、両手を上げて「いくぞー!」と大声で気合いを入れ、選手を鼓舞する。選手がフェンスに激突して転倒すると、ベンチから飛び出し、自ら背負って医務室に運ぶなど、気迫あふれる熱血監督として選手たちからも慕われている。

 山村学園は、県内の成績では矢作コーチが指導に加わった2015年秋にベスト8、2016年夏ベスト4、2018年秋ベスト4、そして今年の春が3位と急激に力をつけてきた。”埼玉4強”と言われている花咲徳栄、浦和学院、春日部共栄、聖望学園を脅かす存在になっている。

 県3位で臨んだこの春の関東大会でも、初戦の水戸商(茨城)は9回に平野裕亮の安打で6対5とサヨナラ勝ち。つづく2回戦は、今年春のセンバツ準優勝の習志野(千葉)に3投手へ16安打を浴びせて13対2で7回コールド勝ち。準々決勝でもセンバツ出場の国士舘(東京)に12安打10得点で勝利した。

 準決勝で東海大相模に敗れたが、岡野監督はたしかな手応えを得た。

「正直言って、できすぎです。初めて県外の強いチームと戦うことができたので、選手も私もいい経験になりました。とくに習志野、国士舘、東海大相模などの強豪チーム相手に臆せず戦えたことは大収穫でした」

 しかし山村学園には春に好結果を出すと、夏に勝てないという嫌なジンクスがある。岡野監督は言う。

「同じ失敗を繰り返さないためにも、もう一度、体を鍛え直し、6月いっぱいは苦しい練習を課して、新たな気持ちで夏に向かっていくつもりです」

 矢作コーチのことについては、次のように語る。

「矢作さんとの関係が深まるにつれてチームも強くなってきています。矢作さんの教え方は、第一に野球の楽しさを伝えようとしています。そこが一番大事なことかなと思います。選手たちが好きでやっている野球なのに、嫌いにしてしまう指導だけはしたくない。大会の時に、緊張しすぎて力を発揮できないのはかわいそうです。大会でもノビノビと、大好きな野球をいい環境でやらせてあげたい。そういうところを矢作さんから学んでいます」

 いかに選手たちを乗せて、楽しくプレーさせることができるか。普段の練習から楽しみながらも緊張感を持って取り組んでいけば「いつもどおりやろうぜ!」と試合に臨むことができると言う。

 一方、選手たちは矢作をどう見ているのだろうか。浦和リトルシニア時代は2番手投手だったエースの和田は、矢作には6年間指導を受けている。

「自分の野球を変えてくれた方です。言われたことをやっていれば間違いありません。野球だけでなく勉強も見てくれますし、尊敬しています」

 主軸を打つ外野手の櫻澤一哉は、次のように語る。

「技術的には、テイクバックの取り方を教えてもらい、長打が出るようになりました。一見怖そうですが、死球を受けると『ボールは大丈夫か?』と冗談を言って笑わせてくれたりもします。”野球のお父さん”のような存在です」

 キャプテンを務める坂上翔悟は、矢作から次のようなアドバイスを受けた。

「主将としてチームを客観的に見ろ」
「声を出して、マイナス面を少なくして明るく振る舞いなさい」
「追い込まれてからはバットを短く持って、空振りするのではなく、1球ファウルにしなさい。そうすれば必ず甘い球がくる」

 矢作自身は、コーチをすることに対してこう話す。

「長い間、野球を続けてきましたが、自分は選手ではなく指導者に向いているとつくづく思います。プレーするよりもコーチングするほうが楽しい」

 そして最後に山村学園について、次のように語った。

「これから先、県大会の1回戦で負けることがあるかもしれないが、毎年甲子園を目指せる位置にいてほしい。一度甲子園に出て、勝つということを子どもたちに味あわせてあげたい。高校時代、1学年下は甲子園に行きましたが、私たちの代は行けなかった。またケガで苦労したこと、悩んだことなど、同じ思いはなるべくしてほしくない。『高校野球は楽しかった』といい思い出をつくってほしい。そのお手伝いができればいいなと思っています」

 あと1カ月もすれば、夏の甲子園をかけた戦いが始まる。埼玉に新しい歴史を刻むのか。山村学園の戦いに注目したい。