今季でプロ4年目。思っても見なかったトップ昇格を勝ち取ったユース時代を振り返る。写真:金子拓弥(サッカーダイジェスト写真部)

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 2020年に開催される東京五輪。本連載では、活躍が期待される注目株の生い立ちや本大会への想いに迫る。
 
 3回目は、抜群のドリブルテクニックを誇り、局面の打開力に優れる遠藤渓太が登場。横浜F・マリノスの下部組織出身で、ユースでの最終学年ではクラブユース選手権でチームの優勝に大きく貢献、自身は大会MVPと得点王を獲得し、トップ昇格を勝ち取った。
 
 プロ入り後は1年目から出場機会を得て、早い段階でA契約を勝ち取る。背番号が18から11に変わった3年目の昨季には、ルヴァンカップのニューヒーロー賞を受賞。迎えた今季も左サイドを主戦場に、横浜の『アタッキング・フットボール』を支える貴重な戦力として、際立つパフォーマンスを披露している。
 
 チャンスメーカーにもフィニッシャーにもなれる成長著しいアタッカーは、ここまでどんなサッカー人生を歩んできたのか。中編では、プロになるための心構えを学んだ高校時代や、幼馴染でありライバルである和田昌士への想いを深く掘り下げる。
 
前編はこちらから
【連載・東京2020】遠藤渓太/前編「中学時代は『△』評価も、気がつけば“敵なし状態”に」
 
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――トップ昇格が決まったのはいつ頃でしたか?
「クラブユース選手権が終わって、1か月くらい経った頃ですね」
 
――どんな経緯で?
「クラブユース選手権で得点王とMVPを獲ってから、多くの大学からオファーをもらったんですよ。その頃は大学に行く気満々でした。クラブユース選手権が終わった後の(川崎)フロンターレとの練習試合では2失点に絡む酷い出来で、これではトップ昇格はできないだろうって勝手に思っていましたから。それで、どこの大学にしようか迷っていた時に、クラブ側から待ったがかかって、昇格が決まったんです」
 
――当然、第一希望はトップ昇格だったわけですよね?
「それはもちろん」
 
――だからこそ、夏のクラブユース選手権まで進路を決めなかったのですか?
「そもそも大学から話が来ていなかったんですよ。特待生としてではなく、指定校推薦で来てくれとしか。それが、クラブユース選手権が終わった途端に、やっぱり特待枠で来てくれ、って言われるようになって。やっぱりスポーツ推薦で入るのと、指定校推薦では全然違いますからね」
 
――ではトップチームに昇格できると決まった時の気持ちは?
「本当にビックリしました。ただ嬉しかったのは確かです」
 
――当時ユースの監督だった松橋力蔵さん(現トップチームコーチ)からは、何を学んだ?
「リキさん(松橋監督)は、どれだけ能力があっても、気が抜けていたり、集中していなかったりする選手は使わないから、チームに正当な競争が生まれていたんです。自分もしっかりやらないとメンバーから外される。そういう危機感を持ちながらやれたから精神的にも鍛えられました」
 
――実際にメンバーから外されたことは?
「ないです。結構真面目にやっていたんですよ。僕個人では怒られたこともあまりないです。実は(和田)昌士(編集部・注/現秋田のMF。遠藤とは小学生時代からのチームメイトで横浜のトップチームにはともに昇格を果たした)はよく怒られていて。たぶんあいつは怒られて伸びるタイプだったから。そういうのを分かっていたんじゃないですかね、監督も」
 
――怖い監督でしたか?
「はい。気持ちの入っていないゲームをしてしまった時には、やっぱりかなり怒られるし、怖かったですね」
 
――今まで一番影響を受けた監督は?
「やっぱりリキさん(松橋監督)ですね。あの人が担当していた頃のマリノスユースって強いし、日本一に何度も輝いている。それってなかなか簡単ではないし、やっぱり凄いなって」
 
――指導を受けている時に感じた凄みは?
「選手一人ひとりの性格を事細かに理解していて、それを踏まえて起用するタイミングを決めているんですよね。『この選手は今使えば奮起してくれるだろう』とか、そういうのをすごく分かっていた。人を見る力がすごくあるっていうか」
 
――選手によって指導法を変えていると。
「今も結構話す機会が多いんですけど、そう言っていました。上級生と混ざって練習している時に、納得いかないことがあってボソッと愚痴を言う選手っているじゃないですか。リキさんいわく、そういう選手は上に大成するらしいです。僕も言われました。『お前も隠れてでグチグチ言っていたからな。でもそういう選手が上にいくんだよ』って」
――和田選手も愚痴を言うタイプでしたか?
「そうでしたね(笑)」
 
――小学校から苦楽をともにした和田選手はやはり刺激に?
「はい。大きな存在でした。昌士は小学校時代から有名で、本当に凄かった。マリノスのジュニアユース、ユースにもトントン拍子で上がって。ジュニアユースの時には、ひと足早くユースの練習に参加していました。なかなか、いないんですよ、そういう選手って。ユース時代にはイングランドのマンチェスター・シティに留学したりとか、トップチームのプレシーズンマッチで点を取ったりとか……。あれは高1の時だったかな。僕はボールボーイをやっていたんですけど、あいつは普通に先輩の中に混じって試合でバリバリやっているんですよ。『こいつ、やっぱり凄いな』って思いましたね」
 
――身近に、ひとつ先をいく存在がいて、焦りもあったのでは?
「それは間違いありません。いつか追いつこうと必死でした。でも高3になってから、追いつけてきたのかなって実感も徐々に沸いてきました。だから俺らふたりでチームを引っ張って日本一になれるんじゃないかって」
 
――16年にトップチーム昇格後、より多くの出番を掴んだのは遠藤選手でした。逆転できた要因は?
「たぶん、運です。最初にチャンスが巡って来たのが僕で、その試合で勝てたのがなによりも大きかった(16年第1ステージの新潟戦。2−1で勝利)。その年は開幕から2試合勝てていなくて、どうしても落とせない試合だったから、あそこで引き分けたり負けていたりしたら、僕はそれから使ってもらえなかったかもしれません。そこでアピールできたからこそ、今の僕の立場がある。そういう運があっただけです、僕には」
 
――いわゆる“持っている”選手だったと。
「そういうことになりますね(笑)」
 
――とはいえ運があるのは、大きな強みです。
「それは自分でも思います」
 
――今は別のチームですが、和田選手とは今でも連絡を取っている?
「ラインはぼちぼちしますけど。会う機会はやっぱりほとんどないですね。昌士が横浜に帰ってきた時くらいです」
 
――プロになって高校時代に活きた経験は?
「左足の練習です」
 
――両足遜色ないキックは武器ですね。どんな練習を?
「これと言って特別なことはしていないですよ。ただシュート練習とかでは利き足だけではなく、逆足でも万遍なく打つように心掛けていました」
 
――高校時代に、試合とか出られない時期も精神的にブレなかった? 遊びたいと思ったりは?
「もちろん羨ましかったですよ。バイトをしたり、遊びに行ったり、放課後に教室に残ってみんなとおしゃべりしたり……、文化祭とかにも行きたかったですしね」
 
――辞めたいとは思わなかった?
「それはなかったですね。今だから思うんですよね。結局何かを失わないと、目標って成し遂げられないんじゃないかなって」
 
――高校生でどうやって、誘惑を断ち切ったのですか?
「気を緩めたら、他の同世代の選手から後れを取ってしまうって自分に言い聞かせていました。プロサッカー選手ってみんなそうだと思います。周りが遊んでいる時もサッカーに打ち込んできたからこそ、今があるんです」
 
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 高校1年生時から3年生に混じって試合に出ていた、いわばエリートの和田に負けじと、コツコツと練習を重ね、地道に力を着けてきた。そうしたライバルに刺激を受け、目利きの松橋監督の下でひたすらサッカーに明け暮れたからこそ、プロの道が拓けた。
 
 6月5日にお届ける後編では、プロになってから芽生えた意識や手応え、20年に開催される東京五輪への想いに迫る。

PROFILE
遠藤渓太/えんどう・けいた/1997年11月22日生まれ、神奈川県出身。175臓66繊F麕鸚SC―横浜Jrユース―横浜ユース―横浜。J1通算75試合・4得点。小学生時代は横浜のスクールに通い、中学からは横浜の下部組織でプレー。ユースでの最終学年では優勝したクラブユース選手権で大会MVPと得点王に輝く。10代から世代別代表に選ばれ、2017年のU−20ワールドカップ出場を果たす。クラブではプロ1年目から出場機会を得て、昨季にはルヴァンカップのニューヒーロー賞を受賞。今季も左サイドを主戦場に、アグレッシブな仕掛けで好機を生み出し、自らも果敢にゴールを狙うアタッカーとして活躍する。

取材・文●広島由寛、多田哲平(サッカーダイジェスト編集部)