「契約金泥棒」の斉藤和巳がエースになれた理由
対オリックス戦に先発したソフトバンクの斉藤和巳投手(当時)、2006年8月(写真:共同通信社)
プロ野球は、毎年100人がクビになり、入れ替わりにルーキーが100人入ってくるシビアな世界だ。大学、社会人の選手なら即戦力になること、高校生ならば将来のチームを背負うことが期待される。
ドラフト会議で1位指名される選手は当然、厳しい目で選別される。プロのスカウトも、チーム編成の責任者も野球の目利きだ。しかし、必ずしも彼らの見立てが正しいとは限らない。鳴り物入りで入団しながらも、数年でユニフォームを脱ぐ選手は数え切れないほどいる。
有望選手がドラフト1位指名されながら期待を裏切り、あっけなく消えてしまうのはなぜなのか? そこにはいくつかのパターンがある。
自らの才能を過信し、努力を怠る。
故障に見舞われ、本来のパフォーマンスができなくなる。
ライバルとの戦いに敗れてチャンスを失う。
練習態度や素行が悪くて、首脳陣に信用されなくなる。
それぞれの複合型もある。
野球の目利きであっても、ドラフト指名の段階で、1位選手の「未来」まではわからない。
1995年ドラフト会議で福岡ダイエーホークス(現・ソフトバンク)に1位指名された斉藤和巳は、高校時代には無名だった。甲子園出場経験はなし。
3年夏の京都大会準々決勝で5回コールド負けを喫している。にもかかわらず、ホークスがドラフト1位指名を敢行したのは、彼の才能を評価したからだ。身長は190センチ近くあり、ストレートの最速は143キロ。「鍛えれば伸びる素材」と見込んだから、球団は1億円もの契約金を用意したのだ。
少年野球からプロを引退するまで、斉藤和巳の野球人生を追った『野球を裏切らない――負けないエース 斉藤和巳』をもとに、沢村賞投手になれた理由を考える。
肩の手術・リハビリで人生を変える師と出会う
斉藤和巳という投手のキャリアを振り返ったとき、前述した「ドラフト1位が消える理由」に当てはまる可能性があった。それも限りなく、高かった。
プロ1年目は肩の故障のために、満足に投げられなかった(二軍でも登板なし)。それなのに、「本気を出せば自分はすごい」という根拠のない自信を持っていた。
寮の門限破りの常習犯で、夜な夜な中洲の街に繰り出しては遊びほうけた。先輩に「契約金泥棒」とからかわれても、右から左に聞き流した。
3年目に肩の痛みがひどくなり、手術をしなければならなくなった。その頃、「肩の手術をした投手は元どおりに投げられるようにはならない」というのが野球界の通説だった。
しかし、1998年のシーズンオフ、同時期に肩の手術を行った小久保裕紀が斉藤にプロとしての生き方を示してくれたことで、斉藤は覚醒するきっかけをつかんだ。
リハビリ中のトレーニングほど、地味なものはない。ゲーム的な要素はなく、ひたすら根気が必要とされる。それに、トレーニングの効果は目に見えない。
斉藤が当時を振り返る。
「どうしても気分が乗らないときがあるじゃないですか。そんなときに、横にいる小久保さんを見ると、前の日と変わらず黙々とトレーニングをしている。小久保さんほどの選手がこれだけやっているのに、僕が手を抜くわけにはいかない。だから、『オレも』と思うんです。トレーニングに取り組む姿勢を見て『やらなあかん』と」
肩の手術をした選手のリハビリは、故障個所を元どおりに回復させることだけにとどまらない。ほかの部位もイチから鍛えることになる。
「小久保さんを見習って真剣にトレーニングをしていたら、ある日、自分の体が強くなっていることに気がつきました。『おお! オレも強くなったな』と。ウエイトトレーニングも同様ですね。小さな積み重ねによって強くなれることを教えてもらいました」
それまでは、できたのにやらなかった
その後、斉藤は、小久保が行うシーズン前の自主トレーニングに帯同を許されることになる。ホークスの内野手だった林孝哉は言う。
「若い頃の和巳は、やんちゃと言ったらやんちゃですけど、度が越えていました。自分勝手でまわりを見ることができないというのが僕の印象でした。プロの世界では、『自分が一番』くらいの選手のほうが勝ち上がっていくのかもしれませんが、ちょっとひどすぎましたね。
僕は好き嫌いがはっきりしているほうなんで、和巳が加わった1年目の自主トレはほとんど口を利かなかった。少しだけ話をするようになったのは、2年目からですね」
だが、斉藤は小久保と自主トレを行うことで、大きく変わった。それを横で見ていた林は言う。
「小久保さんは本当に不器用で、『練習する』と決めたら実直に、とことんやる人。小久保さんと練習をするようになって、和巳は本当に変わりました。僕も和巳も、小久保さんに育ててもらった人間です。
小久保さんは1つのことを黙々とやるという能力を持っていた。もともと和巳も持ってはいたけど、やり方がわからなかった。小久保さんのやり方を間近で見て、一緒に実践するようになってぐんと伸びましたよね。それまでは、できたのにやらなかっただけ。小久保さんと違って和巳は器用で、何でも簡単にやる。器用な人間がそんなやり方をしたら、もう敵なしですよ」
もう1つ、一緒にトレーニングと生活をともにするようになってから、わかったことが林にはある。
「『絶対に一番になる』という気持ちが強かった。それが、小久保さんと和巳に共通するところでした。僕のほうが年上ですが、和巳のそういうところを勉強させてもらいました」
もし、あの出会いがなかったら…
斉藤よりも6歳上の小久保が振り返る。
「僕と出会って何を思ったのかについて本人に聞いたことはないんですが、練習量が多いことには影響を受けたんじゃないでしょうか。一軍でタイトルを獲った選手でもこんなに練習するのなら、自分もやらないと、と。僕自身、ホークスの先輩の秋山幸二さん、工藤公康さんが自主トレで自分を限界まで追い込むということを知って、『その練習を自分も取り入れよう』と思いましたから」
引退までに通算413本塁打(歴代16位)を放つことになる小久保からすれば、斉藤の体はプロのそれではなかった。しかし、自主トレメンバーに加わるようになってから、ぐんぐん成長していった。
「和巳はまだ細くて、プロの体になりきっていなかった。背は高いけど華奢な印象でした。一緒に練習をするようになって、ある年の冬を境に、尻まわりが別人のように大きくなったんですよ。『これはやるかもしれないな』と思ったら、球速も上がり、一軍に定着するようになりました。出会った頃とは、見違えるような体つきになりました」
2000年に5勝を挙げた斉藤は、その後、肩の痛みで苦しんだものの、2002年に4勝を挙げてエース候補に名乗りを上げた。
斉藤は自身の野球人生を振り返って言う。
「もし小久保さんとの出会いがなかったら、僕はもっと早くユニフォームを脱ぐことになったかもしれない。おそらく、大切なことに気づくことはできなかった。小久保さんのおかげで『このままじゃあかん、自分でしっかり考えよう』と思うようになりました」
開幕投手を任された2003年に20勝、2004年に10勝、2005年に16勝、2006年に18勝をマークした。この4年間の敗戦数は16しかない。勝率は8割。最多勝、最高勝率などのタイトルを総なめにし、沢村賞を2度獲得する大エースになった。
どれだけ才能のある選手でも、ひとりでは成長できない。そのことを斉藤と小久保が教えてくれる。
(文中敬称略)