『スイス・アーミー・マン』:引きこもりから見た世界/純丘曜彰 教授博士
アーミーナイフのように何にでも役立つ死体とともに森から生還する青年の物語。とにかく下品で悪趣味。おまけに、わけがわからない。だが、妙な説得力がある。それで、じわじわと話題になっている。見えるものにとらわれると、見るべきものが見えない。『去年、マリエンバートで』(1961)や『マルホランド・ドライブ』(2001)などと並ぶ怪作として、映画史に残るだろう。これは、じつは、引きこもりから見た世界だ。
表向きの物語では、ハンクという青年が船の難破で無人島に流され、あまりの孤独に苛まれ自殺しようとしているところに、人が流れ着く。だが、残念ながら、すでに死んでいた。ところが、屁を噴射。ハンクは、この死体に乗って海を渡り、故郷への生還を試みる。
このひどい設定だけで、試写会の席を立つ人が続出。この先は、もっとひどい。ようやく海岸に着いたものの、そこから先は道も無い森。ところが、ここでもこの死体はやたら役に立つ。口から水を出し、銃のように獲物を撃ち落とし、木を切り倒すのにも使える。おまけに、死体のくせに、話相手までし始めた。
古雑誌の水着の写真を見た死体は、なんと、そのチンポで人里の方向を指し示す。そこで、ハンクは、この死体に自分の故郷まで導かせようと、森の中のゴミや廃物を掻き集め、女装までして、その様子を死体に教え込む。映画館、バス、そして、サラ。ハンクの計略どおり、死体は、サラに会ってみたい、と言い出し、大冒険の末、ついにはサラの家へ。
しかし、ここまですべて、ハンクの語る物語。森だの、海岸だの、無人島だの、じつは、サラの家の裏、歩いてすぐのところだった。そこに築かれていた気味の悪いガタクタの町と人形たち。それを見て、サラや父親、マスコミは驚愕し、警察もハンクを死体暮らしの変質者として逮捕。一方、死体は、屁を噴射し、再び海の彼方へ。
この物語、全体で四つのパートがある。最初、ハンクのミッションは、故郷へ帰ることであり、そのために死体を利用する。ところが、死体が話相手になったあたりから、ミッションが、この死体を担いで故郷へ連れて行ってやることに変わっている。そして、不条理な現実そのものともいうべきクマの襲撃を受け、ハンクが初めてリアルな血を流してからは、死体の方がハンクを担いで、サラの家まで連れて行く。ここで死体はついに動かなくなったが、これを処分するということになると、ハンクは死体を奪って再び森へ。
なんの話なのか。わずかに生の執着が残る体が、死んだ心にウソの思い出を盛り付け直し、騙して現実世界に帰ろうとする。見た目には二人だが、ハンクと死体は、同一人物。一方、サラは、もともとハンクの恋人ではないし、声をかけたことさえない。それどころか、人妻で子供までいる。にもかかわらず、死体は、ハンクの策略のせいで、サラこそが自分の運命の相手と信じ、サラの写真があるハンクのスマホも、自分のものだ、と思っている。
ハンクが森の中に創り上げた世界。ゴミと廃物でできたガラクタの町と人形たち。ハンクは、それらを見せ、死んだ心を騙し続ける。自分の殻に引きこもり、アニメやアイドル、パソコンやゲーム、ガキのオモチャに溺れ続ける連中と同じ。そして、それらに親しむことで、現実に戻れると勘違いしている。いや、ハンクは、ほんとうはそれは無理であることも知っている。だから、死体に、ずっと森の中でいっしょに暮らそう、などと言う。
ヨーロッパや北米でも、じつは、子供部屋おじさん、おばさんが増えていて、問題になってきている。若者に仕事が無く、独立も、結婚もできない。終わりの無い自分探し。それで、高齢化する親と同居のままだったり、さらには都会から郊外の家に呼び戻したりするのが珍しくなくなった。だが、こうなると、いよいよ就職にも恋愛にも縁が薄くなり、ただ徒に老いていくばかり。
物理的に部屋から出るかどうか、など、問題ではない。ニセモノのガラクタでできた自分の世界を絶対として、それを否定する者を拒絶しているなら、握手会やコミケ、秋葉原に出て来たところで、人里離れた「森」の中を彷徨い続けている引きこもり。かなわなかった夢、死んだ心と決別しない限り、この不条理な、血の流れる現実の中で、自分を立てることなどできない。
(by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論、映画学。最近の活動に 純丘先生の1分哲学、『百朝一考:第一巻・第二巻』などがある。)