『かんさい情報ネット ten.』ホームページには、お詫びの文章が掲載されている(画像:『かんさい情報ネット ten.』のウェブサイトをキャプチャ)

読売テレビが5月10日の夕方、関西ローカルの報道番組『かんさい情報ネット ten.』でのロケ取材の映像で一般の人に対して性的なプライバシーを暴露するような放送をした問題が波紋を広げた。

番組中の「迷ってナンボ!」というコーナーでお笑いコンビの藤崎マーケットの2人が阪急電鉄十三(じゅうそう)駅の近くの飲み屋街を「ディープな街」として探検するという企画だった。

VTRの中の1シーンとして、2人が居酒屋の女主人から「性別がわからない人がいるので調べてほしい」と頼まれて、その居酒屋の常連客で長髪の人物に対して「下の名前は?」「胸はある?」と尋ね、保険証の性別欄を確認した後で「男」だと本人が明言するまで聞き続けた。

公共の電波で性別を強引に確認

この人物の性別問題については本人がはっきり明言したところで、2人は別の店に行き、また違う話が展開された。しかしVTRが終わってからのスタジオではコメンテーターの若一光司氏が「個人のセクシュアリティーにそういう形で踏み込むべきじゃないです。そんなものをよう平気で放送できるね。どういう感覚ですか、これは報道番組として」「ご本人がテレビに出ることを了解していたとしても、個人のセクシュアリティーに関してそういうアプローチをすること自体が、人権感覚、人権認識にもとります」と怒りのコメントをした。

だが、スタジオにいた報道局の解説デスク、アナウンサー、それにテレビ局のアナウンサー出身の弁護士などの出演者はとくにコメントをしないままに次のコーナーに進んでいた。

実際に性別不明として登場した人物が性的マイノリティーだったのかどうかなどは放送を見る限りは確認できない。本人が名前を問われて姓だけ名乗ったものの下の名前は答えようとせず、そうしたプライバシーをテレビカメラの前で明かすことに抵抗を示していたことは間違いない。それにもかかわらず、藤崎マーケットの2人はズカズカと「男なのか女なのか」を聞いていった。

「男なのか女なのか」という質問は「性の自認」に関する個人のプライバシーである。もし、この人物が「トランスジェンダー」など性的マイノリティーであった場合、そうしたことを堂々とテレビカメラの前で述べることに抵抗がない人ばかりではないだろう。本人にとっては誰にも知られたくないデリケートな問題である場合も十分にありうることだ。

テレビ番組の放送の中で「性別」を強引に確認しようとすることは、電波を使ってアウティング(他人の秘密を暴露)を行うことと同じような行為だと言っても過言ではない。

VTRに登場した性別不明に見える人物(番組内では「男」であるとカメラの前で表明した)が実際にLGBTなど性的マイノリティーに属する人でなかったとしても、そういう人が近くにいる場合にその「性別」を他の人間が無神経に確認してもいいのだとテレビが助長し加担することにほかならない。いわば、子どもへの「いじめ」行為を、電波を使って助長し加担する場合と同じように、人権侵害になりかねない放送だとも言える。

だからこそ、コメンテーターの若一氏がスタジオで声を荒げて「人権感覚、人権認識にもとります」と抗議して問題性を告発したことは当然だった。

若一氏が問題を投げかけたことがツイッターで拡散して多くの人の知るところとなって社会問題化し、「まずい放送」だったことを認識した読売テレビは週明けの13日の同番組の冒頭で報道局長らが頭を下げた。「プライバシー、人権への配慮を著しく欠いた、不適切な取材・放送」だったとして謝罪し、『迷ってナンボ!』のコーナーを休止する判断を示した。

若一氏という外部のコメンテーターのおかげで放送中に「不適切な取材・放送」であることを自ら示すことができたのは、結果的に不祥事になったとはいえ、傷を最小限に食い止めることができたものと言えるだろう。番組制作の最高責任者が登場して頭を下げ、この種の不祥事としてはかなり迅速に対応したほうだと言える。

「報道番組」としての意識の欠如

確認しておくと、同番組はニュースも放送すれば、ファッションやグルメなども扱う、いわば「ごった煮」の「夕方ワイドニュース情報番組」である。

筆者の見るところ、読売テレビでこの問題が起きてしまった背景には「報道番組」としての意識の欠如があると考える。市井に生きる人たちの性的プライバシーを暴露するような取材や放送は、仮に報道番組でなくバラエティー番組であったとしても当然ながら許されることではない。

試しに今回の番組を若い20歳前後の若者たちに視聴してもらったところ、かなり辛辣な批判が相次いだ。バラエティー番組などお笑い番組を見慣れた世代の若者は、「笑えない」という反応を示した。

つまり相手の「生き方」へのリスペクトがある「笑いがある番組」ではなく、ただ、何かを暴露しようという、品のない「笑えない番組」だという認識を示したのだ。

『かんさい情報ネット ten.』を毎日見ていたという関西出身の女子学生は「本当に不快な気持ちになった。十三は下町なので、百歩譲って町の人が下品で理解がないのは仕方ない。そういう人もいると思うので。でも、それをテレビで放送するのは違う」と非難した。

さらに、インタビューをした芸人の聞き方も問題視した。「男性なのか女性なのか普通に聞けばいいものを『苗字は?下の名前は?』と、触れちゃいけないものみたいに聞いているのがまず不快。そういうふうにコソコソ聞くのは嫌らしい感じ」と答えた。「最後に『おっさん!』と呼びかけたのも、見るに耐えなかった」と性的マイノリティーかと思われる人に対し、「人を傷つけても、『冗談』ですませようとするところにマジョリティーの押しつけを感じてそこもイヤだった」という。

「尋問のような映像、なにが楽しいのか」

また別の女子学生も「単純に人の性別に関する尋問のような映像を見せられて、視聴者はなにが楽しいのか」と番組制作の意図について疑問を投げかけた。

読売テレビに性別確認をされた人物に対して、朝日新聞が改めて取材して記事を書いて5月31日に配信している。記事によると、当人は自分の「性」について自問自答してきた人物だった。性指向では「アセクシュアル」(恋愛感情や性欲がない)、性自認ではどの性別にも当てはまらない「Xジェンダー」に近いと自覚しているという。ただ「説明がややこしい」ので「男ですよ」と答えたと話している。

つまり、実は当人はカメラの前ではそうとは言わなかったものの性的マイノリティーの1人だったのだ。そのことを想像もできなかった読売テレビのスタッフや映像を監修したプロデューサーも含めて、学生と比べてもあまりに鈍感と言うほかない。

性的マイノリティーの人たちを傷つけかねない今回の放送がなぜ起きてしまったのか。その再発を防止するためには「報道番組」であるという原点を思い起こして、番組制作にかかわる人たちが性的マイノリティーなどの実際の声を聞く機会を数多く設けるほかはないだろうと思う。

参考までに例を挙げると、筆者は大学で「多様性」が求められる「社会の実態」を学生たちに取材させて映像ドキュメンタリーを制作させる授業を行っている。その第一歩として、多様性のリアルを学んでもらおうと、大型連休中に東京・代々木公園で実施されているLGBTの祭典「東京レインボープライド」を学生たちと一緒に取材している。

そうしたプロセスを通じて、学生たちは一口にLGBTといっても、実はひとくくりにできるものでなく、ゲイもいればレズビアンもトランスジェンダーもいるなど、一人ひとりで違っていることを体験的に学んでいくことになる。そのうち、親しくなって関係を持った人たちを後日、自宅を訪問するなどしながら、ドキュメンタリー取材を深めていくのである。

読売テレビが今後考えていくべき「再発防止」の取り組みにはぜひ「当事者への取材」をプログラムに加えてほしいと思う。LGBTの当事者も一様ではなく、「性」についての扱われ方次第で自殺を考えるほどに悩む人がいることを理解する研修にしてほしい。

その一方で、今後はLGBTにかかわることに絶対に触れないようにするなど、過度に萎縮することはあってはならないし、声を上げた若一氏もそんなことを望んではいないと考える。

報道番組は多様性、共存を伝えよ

もともと社会に一定の割合で存在するはずのLGBTの人たちのことが当事者によるさまざまな努力で可視化されつつある。勇気を振り絞って「カミングアウト」する人も次第に出てきている一方、まだまだそれができない人も少なくないというのが現状だろう。

そういう人たちの実情をテレビの「報道番組」で伝えていくことは折に触れてやらなければならないし、多様性が求められる今日、さまざまな意味で社会のマイノリティーの問題をテレビで取り上げていくべきだと思う。

もちろん真面目なばかりのニュース的な、あるいはドキュメンタリー的なアプローチばかりでなく、時に笑いを織り交ぜながら、そうした人たちと共存している社会なのだということをもっと多様な形でテレビは伝えていってほしいと思う。

読売テレビには今回の出来事を教訓にして、そうした前向きな取り組みを一歩一歩、進めていってほしいと願っている。