江戸城外濠の上を走る東京メトロ丸ノ内線の四ツ谷駅。「〇〇谷」といった駅名はJRや地下鉄には例が見られるが都内を走る私鉄の駅にはあまりない(筆者撮影)

東京周辺の地形と駅名の関連性を見ていくと、いくつもの興味深い点に気づく。

地形的に高い所を示す語が含まれている駅名は、○○山駅、○○が丘駅、○○台駅などが代表例である。一方低い所を示すものには、○○谷駅、○○窪(久保)駅などが挙げられる。

2019年3月19日付記事「自由が丘駅が『丘』でなく『谷』にある駅名の謎」では、高い所を示す駅名が本当にそうした所にあるのか検証してみた。すると予想外の事実が現れてきた。今回は東京で、低い所を示す駅名を見ていきたい。

都内の「〇〇山駅」は私鉄だけ

まず前回の話をまとめると以下のようになる。

1)「○○が丘駅」というのは、丘の上というより、むしろ低い場所にある場合が多い。

2)低い所に駅があるのに「○○が丘駅」という命名は、東急の自由が丘駅が最初(昭和4年改称時は「自由ヶ丘」)である。こうした命名は東急(の前身会社)の発明といっていい。この点では、沿線開発で手本にした阪急(の前身会社)のまねではない

3)都内に数多くある○○山、○○が丘、○○台という名の駅は、私鉄だけにしかなく、都内JR駅には1つもない

以上のことから、今回考察する「○○谷駅」など低い所を表す駅名にも一定の傾向がありそうな気がしてくる。

「丘」は日当たりのいい高台の住宅地をイメージしやすいが、「谷」はそうではない。旧国鉄(現JR)や地下鉄(東京メトロ、都営)と異なり、不動産事業として沿線開発を行ってきた私鉄の駅では、○○谷という駅名は少なさそうだが、実際のところどうだろうか。

都内の「谷」が付くJR線の駅を列挙してみる(カッコ内は開業年)。

山手線…渋谷(明治18年)、鶯谷(明治45年)
中央線…市ケ谷(明治28年)、四ツ谷(明治27年)、千駄ケ谷(明治37年)、阿佐ケ谷(大正11年)

これらのうち、自然にできた谷の中にあり正真正銘の谷駅といえるのは渋谷駅だけである。


JR四ツ谷駅。江戸城外濠(真田濠)の中にすっぽりはまる形でホームがある(筆者撮影)

江戸時代に造成された外濠(真田濠)の中にあるのが四ツ谷駅、谷に立地しないが近くに谷があるのが鶯谷駅、市ケ谷駅(外濠)、千駄ケ谷駅(旧渋谷川)、阿佐ケ谷駅(旧桃園川)である。なお開業時は、日本鉄道(山手線)、甲武鉄道(中央線)という私鉄だった。

鶯谷は、江戸時代、鶯が放たれて鶯谷と呼ばれた地(谷中銀座南側などの説がある)が近くにあったことにちなむ。関東の鶯はなまりがあり京都の鶯が音色に優れるとされ、寛永寺の門主などにより関西から多数の鶯が取り寄せられたという話も伝わっている。

こうした話があるのなら、少し離れていても、鶯谷という駅名を付けたくなるのもうなずける。

「谷」の由来はいろいろ

四ツ谷の語源は、付近に千日谷、茗荷谷、千駄ケ谷、大上谷という4つの谷があったためとの説のほか、梅屋、木屋、茶屋、布屋の4軒の茶屋があるので四ツ屋と呼ばれ、後に四ツ谷と記すようになったとの説もある。


御茶ノ水駅付近。JR中央線は典型的な谷の中を走る(筆者撮影)

後者が事実なら、最初から世田谷の三軒茶屋のように、四軒茶屋と名乗ってほしかったと言いたくなる。四ツ谷駅は甲州街道(新宿通り)沿いなので、当時は茶屋がたくさんあってもおかしくない。

市ケ谷駅も外濠をはさんだ向かい側に、長延寺谷(別称一ノ谷)と呼ばれる大きな谷があり、それが市ケ谷となったという説のほか、市の立つ場所で、市買(いちがい)と書かれそれが市ケ谷に転訛したという説もある。

ここでも谷とは関係ない説が存在している。

次に都内の大手私鉄7社で「谷」が付いた駅名を見ていく。

東急池上線…雪が谷大塚(大正12年、当初は雪ヶ谷)
東急世田谷線…世田谷(大正14年)
京王線…幡ヶ谷(大正2年)
小田急小田原線…世田谷代田(昭和2年、当初は世田ヶ谷中原)、祖師ヶ谷大蔵(昭和2年)
西武池袋線…保谷(大正4年)
京急空港線…糀谷(明治35年)
東武…なし 
京成…なし

※東急渋谷駅のように、先に開業している国鉄駅に接続させた○○谷駅は除く

以上7駅だが、都内の私鉄で○○山駅、○○丘駅が20カ所以上あるのに対して、やはりかなり少ない。

東京周辺の地形は丘も多いが谷も多い。だが駅名は山や丘だけが数多く付けられている。隣接県に対象を広げると、傾向はさらに顕著になる。

昭和戦後以降で○○谷駅は、探した限りでただ1つ、東急田園都市線の梶が谷駅(昭和41年)だけのようだ(新越谷、新鎌ケ谷など、昭和戦前以前に越谷、鎌ケ谷など重複地名の駅が開業している場合を除く)。

ちなみに梶が谷駅は、近くに「金山」という地名があり、金属を産出・生産した「鍛冶が谷」との関連が推察されている歴史的地名に基づく。

しかも○○谷駅は、昭和2年開業の2駅を除けばすべて明治、大正時代の開業なのも特徴的だ。

「丘」と比べ「谷」は少ない

一方昭和戦後以降、○○丘駅は、百合ヶ丘(小田急)、つつじヶ丘(京王)、ひばりヶ丘(西武)、藤が丘(東急)、ユーカリが丘(京成)、希望ヶ丘(相鉄)など10駅ほどが生まれている(名称変更含む)のとは対照的である。

また丘と同じように高い所を示す○○台駅も昭和戦後に激増する。とくに東武鉄道では、○○丘駅がない代わりに、○○台駅がお好みで、ときわ台、朝霞台、みずほ台、せんげん台、七光台、江戸川台、杉戸高野台といった駅ができている。

以上のことから、

・○○谷駅は、谷の中にあるか、近くに谷がある場合が多い
・昭和初期まで○○谷駅という命名は、とくに避けられていなかったが、昭和戦後以降、○○谷駅という命名が避けられている

という法則が導かれる。

大正12年の関東大震災以後、焼け野原になった東京下町から郊外へと移り住む人が多くなり、郊外の住宅開発が、私鉄会社や不動産会社によって進む。それと歩調を合わせるようにして、○○谷という駅名は付けられなくなったと言えるだろう。ここで思い出すのは、司馬遼太郎の言葉である。

「谷こそ古日本人にとってめでたき土地だった。
 丘(岡)などはネギか大根、せいぜい雑穀しか植えられない。(中略)
 村落も谷にできた」(『この国のかたち』19谷の国)

司馬は自分の中に古日本人的思考があると述べているので、大正時代くらいまで、司馬のいう古日本人的発想をする人が多かったのではないだろうか。

昭和の初期頃を境に、丘には郊外のモダンな住宅地が開発され、谷はめでたき土地といった感覚が消滅していくわけである。

「久保」「窪」も私鉄には少ない

また、窪地を表す久保、窪も駅名の採用には「谷」と同様の傾向が見られる。都内のJR駅には、中央線大久保駅、荻窪駅、西荻窪駅、山手線新大久保駅がある。一方、都内の大手私鉄駅では、西武国分寺線の恋ヶ窪駅(昭和30年)だけである。


恋ヶ窪の低地を見下ろしながら走る西武国分寺線国分寺―恋ヶ窪間(筆者撮影)

恋ヶ窪は、鎌倉時代初期頃に鎌倉街道の宿駅があり、そこには遊女がいた。畠山重忠に寵愛された遊女が重忠戦死という偽りの報によって悲しみのあまり命を絶ったという話があり、それにちなむ地名だとされる。

イメージのいい「恋」という字があるため、○○窪でありながら例外的に駅名に採用されたと推察できる。

ちなみに不動産事業と縁の薄い地下鉄では、昭和戦後以降の開業駅に○○谷の名が存在する。

<東京メトロ>
・茗荷谷、四谷三丁目、南阿佐ケ谷(丸ノ内線)
・入谷、日比谷、神谷町(日比谷線)
・王子神谷(南北線)
・雑司が谷(副都心線)

<都営地下鉄>
・なし(他社線との乗換駅の日比谷、市ケ谷は除く)

王子神谷と雑司が谷が平成の開業である。

茗荷谷など、例えば東急なら、駅の所在地である小日向とでも付けた気がしてくる。雑司が谷は墓地のイメージもあるので隣の町名だが南池袋としたかもしれない。雑司ケ谷霊園の住所は南池袋4丁目だ。

このほか関連して、私鉄ごとに異なる社風にも触れておきたい。

西武新宿線「下落合駅」と東急大井町線「緑が丘駅」。実は経営陣が逆だったら、駅名も逆に名付けたかもしれない。なぜなら、両駅周辺の地形がよく似ているためだ。

さらにいえば、現在の西武新宿線を東急(の前身会社)が経営していたら、乙女山駅と名付けていたかもしれない。自由が丘駅が、駅の近くに自由ヶ丘学園があることからそう命名したように、下落合駅は、駅のすぐ北側に、おとめ山があるからである。下落合駅と乙女山駅、ずいぶんと駅およびその周辺のイメージが異なる気がするのは、私だけだろうか。


神田川と妙正寺川が合流する西武新宿線の下落合駅付近(筆者撮影)

落合とは、2つの川が合流(落ち合う)する場所を示す。その下流の場所が下落合である。現在、下落合駅は神田川と妙正寺川が落ち合う場所の上流にある。なのに上落合駅とならなかったのは、開業時の駅は現在より約300m東にあり、河川改修が進む以前の両河川の合流点は現在より西側にあった。当時の駅は合流点の下流にあったわけである。

昭和2年開業時の鉄道会社は、愚直というと叱られるかもしれないが、地形どおり、また字名どおり下落合駅と名付けた。

「上落合」でなく「緑が丘」

緑が丘駅はといえば、呑川と旧九品仏川の合流点のすぐ上流、まさに上落合駅という立地である。しかし東急(の前身会社)は、ここにイメージ戦略として「緑ヶ丘駅」(のちに緑が丘へ変更)と名付けた。地元の地名とまったく関係なく、相当強引なというか、ある意味見事な命名といえる。

それだけの手腕をもった命名者が、もし西武新宿線下落合駅開業時に関わっていたら、駅のすぐ北側にある「おとめ山」という名を見逃すはずはない。現在も駅の東側、丘の上から丘下にかけて「おとめ山公園」が広がっている。

ここでの「おとめ」とは「御留」。江戸時代この付近は徳川家の狩猟地で立入禁止(御留)になっていたことにちなむ。だがそんなことにはお構いなく、臆面もなく当て字を使い乙女駅としたことだろう。

駅名と地形との関係を追っていくと、日本人の自然感の変化、私鉄の社風にも考察が及び興味は尽きない。