世界2位の快挙から20年……
今だから語る「黄金世代」の実態
第8回:永井雄一郎(1)

「そんなに気にしなかった」

 1999年のFIFAワールドユース(現在のU−20W杯)・ナイジェリア大会の初戦、カメルーン戦に1−2と逆転負けを喫したあと、永井雄一郎は、そう思っていたという。

「残り2試合勝てばいいやって感じだったし、97年大会も初戦のスペイン戦に負けたけど決勝トーナメントには行けた。なんとかなるでしょ、っていい意味で開き直るメンバーだったんで、負けたけどそんなに深刻ではなかったですね」

 永井が感じたとおり、日本はその後、グループリーグの残り2試合を勝ち、決勝トーナメント進出を果たした――。

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「まさか自分がまた代表に入れるなんて、思っていなかったですね」

 永井は20年前を回想して、そう言った。


1999年ワールドユースについて振り返る永井雄一郎

 永井がナイジェリアワールドユースに向けて、フランス&ブルキナファソ合宿へ招集されたのは本大会開催の2カ月前だった。ワールドユースは1999年大会からレギュレーションが変更され、年齢をクリアしていれば複数回出場が可能になったため、前回大会に出場していた永井も呼ばれることになったのだ。

「97年大会のビデオをトルシエが見て、『これは誰だ。Jリーグにいないじゃないか』って言ったらしく、スタッフが『今ドイツにいる』と言うと、『合宿に呼ぼう』ということになったらしいです。ちょっとビックリしましたが、うれしかったですね」

 当時、永井はドイツ2部リーグのカールスルーエに所属していた。

 97年に浦和レッズに入団。そのシーズンのワールドユース・マレーシア大会に出場し、チームでも30試合出場3得点という結果を残した。だが、2年目のジンクスなのか、永井は伸び悩んでいた。

「よく一流選手が2年目のジンクスとかいうけど、自分の場合は、1年目は自分の実力がないのを周囲がごまかしてくれて、うまく使ってくれていたんです。でも、2年目はその実力のなさがハッキリと出てしまった。試合になかなか出られないし、このままいても先が見えない。だから、海外でやってみようと思ってドイツに行ったんです。ドイツでプレーしたものが、代表でどれだけ出せるのか、世界とどれだけやれるのか、チャレンジしたかった。そのチャンスを与えられたと思って行きました」

 久しぶりに日本人のチームに入り、年齢的にひとつ下の小野伸二たちとプレーすると、永井は愕然としたという。

「当時のドイツは、1対1の戦いに勝つ、相手のよさを潰す、というサッカーだった。技術よりもフィジカルの要素が強くて、その中でも自分は技術が高い方だと思っていたんです。でも、伸二たちとプレーしたら正直、ヤバいって思いました。技術がめちゃくちゃ高いんですよ。いつの間にか、すごく差がついているなって思いましたね」

 トルシエに高い評価を受けた永井は、最終的にナイジェリアワールドユースを戦う18名のメンバーに選出された。そして、レギュラーとして試合に出場するが、なかなか結果を出せずに苦しむことになる。

 初戦のカメルーン戦は逆転負けを喫したが、つづくアメリカ戦には3−1で勝った。そして、グループリーグ最終戦のイングランド戦を迎えた。永井は、準決勝で決勝ゴールを挙げたウルグアイ戦ではなく、この試合が最も印象に残っているという。

「イングランド戦で1対1を外したシュートシーンがすごく頭に残っているんです。『やっちゃったなぁ……』みたいな。夢中で走って裏に抜けたのはいいんですけど、シュートを流れのままポンと適当に打ってしまったんです。周囲から見ても、絶対に適当に打っただろうなって感じだった。もっと何かできたはずなのに流れで打ってしまって、『なんだかなぁ』と思いましたね」

 イングランド戦は、グループリーグ3試合目の最終戦だった。

 大会前は、好調を維持していた。事前キャンプでの練習試合やブルキナファソ合宿での練習試合でもゴールを奪い、点を取れる感覚が自分の中にあった。

 だが、大会に入るとピタリと快音が消えた。

 そして、決勝トーナメントに入っても永井は沈黙したままだった。

「前回も大会に入る前は点が取れていたけど、大会に入ると取れなくなって、ナイジェリアでもその状況とかぶり始めてきたので、『これはまずいぞ』って思っていました。あんまり動けていないし、結果を出せていない。自分がチームの役に立っているのかなぁって思っていて……。みんなの高い能力を感じていたので、自分が置いていかれるような感覚もありましたね」

 チームメイトの本山雅志は、左サイドをドリブルで切り裂いていった。その姿を見て、「よく抜けるなぁ。すげぇな」と思い、ちょっとかなわないと感じた。タイプは違うが、本山には明確な武器があった。永井は、今ひとつ自分の良さを把握できていなかった。

「当時は、ゴールを量産できる、自分で打開できる、チャンスを作れて、起点になって、最終的にパスも出せる。いろんなことができないとダメ、というのが自分の中にあった。そういう選手にならなければサッカーを長くできないと思っていたんです。でも、ワールドユースでなかなか点が取れなくて、準決勝のウルグアイ戦で決勝ゴールを奪った後、これだなって思ったんです。大事なところで点が取れる選手になりたい。そう思い、それからはそういう選手になることを目標にしていきました」

 永井がその境地に至ることができたのは、指揮官のフィリップ・トルシエが大会中、結果が出ない中でも起用し続けたことが大きい。

「トルシエは、よく我慢して使ってくれたなぁと思います」

 永井は当時を思い出して苦笑する。たしかに、永井が点を取った準決勝は6試合目だ。それまで5試合無得点だと、普通の監督なら起用を考えるだろう。だが、トルシエはブレなかった。

「なんだかんだとスタメンで起用してくれた。だから、ウルグアイ戦で点が取れた時にベンチに向かって行ったんです。トルシエからは、けっこうひどい扱いを受けていたんですけどね。髪の毛をつかまれて頭を水の入ったバケツに入れられたり、散歩しているといきなりフォーメーションの練習を始めて、水がないとトレーナー陣を怒鳴り散らしたり、初戦に負けたら『日本食ばかり食っているから負けるんだ。現地のものを食え』って怒鳴ったり。いろいろありましたけど、自分を信頼してくれているのは感じていました」


準決勝のウルグアイ戦で決勝ゴールを決めた永井

 永井は、トルシエが非常にシンプルで、イメージしやすいサッカーを展開したことを評価している。例えば『フラット3』という言葉だ。選手をはじめメディア、ファンにまでこの言葉は浸透した。トルシエは自らのサッカーの言語化に成功していた。

「『トルシエのやろうとしているサッカーってなに?』って聞かれた時、みんな『フラット3』と明確に言えるじゃないですか。それくらい、自分のやろうとしているサッカーを選手が表現できるまで植え付けた。だからこそ、結果が出たんだと思います」

 トルシエの特殊なサッカーに慣れ、チームは勝ち上がるにつれてまとまっていった。だが、永井はこのチームに97年大会のチームとは違うものを感じていた。

(つづく)

永井雄一郎
ながい・ゆういちろう/1979年2月14日生まれ。東京都出身。FIFTY CLUB(神奈川県社会人1部)所属のFW。三菱養和SC→浦和レッズ→カールスルーエ(ドイツ)→浦和→清水エスパルス→横浜FC→アルテリーヴォ和歌山(関西1部)→ザスパクサツ群馬