三十路を迎えて現れた現象とは…

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なんてことないことがなくなったら、なんてことあることしかなくて大変だ。これは、カルチャー誌『ケトル』の副編集長である花井優太が、生活の中で出会ったことをざっくばらんに、いや、ばらっばらに綴り散らかす雑記連載です。おそらく毎週更新されます。おそらく……。第二回目は、思い出したいことだけが思い出せないあの現象の話。

 * * *
歳が30を過ぎてから、記憶の引き出しがスムーズに開いてくれない。物覚えも悪い。固有名詞が覚えられない。昨日読んだ本の内容も頭に入っているんだか入ってないんだか。新作映画の話を思い出そうとしたときなんて悲しかった。

えーと、『ダウン・バイ・ロー』の……『コーヒー・アンド・シガレッツ』の……ビル・マーレイも出演するらしくて、次作はゾンビ映画で、あの、その、ダメだ、監督の名前出てこねえ。結局、二重括弧のキーワードを検索窓にぶち込んで、やっとジャームッシュまでたどり着いた始末。酷いですなあ。極めつけは、さっき買った切符がどこにいったかわからず、ズボンの両ポケットをまさぐり、カバンをひっくり返すなんてことも……おっと、これは子どもの頃からでした。お恥ずかしい。

ところで、先の思い出したいものの名前が出てこずに、その周りだけがポンポンと浮かぶ現象を、「ベイカー・ベイカー・パラドクス(Baker-Baker Paradox)」と呼ぶらしい。思い出したい人物の職業がパン屋さん(ベイカー)だってことは思い出せても、名前がベイカーってことは思い出せないというギャグがネーミングの由来だそうだ。

早速Amazonで現象名を検索したら、バッチリ何冊かひっかかった。ご丁寧にベイカー・ベイカー・パラドクスと冠している。クリックしてみると、おっふっ、それはぼくが欲しがっているようなものではなったみたい。誇り高き貴腐人たちにおくります。仕方なしに「記憶」で検索をかけると『なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか』という本があったので購入。概要を読む限り、欲しい情報はありそうだ。

しかしながら……今後ベイカー・ベイカー・パラドクスという名称に対してベイカー・ベイカー・パラドクスが起きる場合、此度の一連が思い出されるんだろう。なんだっけ、Amazonで調べたら「おっふっ」して、あー、えーっと。そして、肝心な内容は蘇らない。ガーン! 中学1年生の時に、コナン・ドイルによるシャーロック・ホームズ・シリーズ一作目『A STUDY IN SCARLET』を読んでから、人一倍記憶の整理というやつには気を使ってきたつもりなのに。

<そもそも人間の頭脳は、何もない屋根裏の小部屋のようなもので、選りすぐりの家具を揃えておかなければならない。未熟者は出会ったものすべてを雑多に取り込むから、役立つはずの知識が詰め詰めになるか、せいぜい他とない交ぜになって、挙げ句の果てには取り出しにくくなる。しかし腕の立つ職人なら、頭脳部屋にしまい込むものにはとても敏感になる。仕事の役に立つ道具だけを置いておくのだが、各種全般を揃え、完璧に整理しておこうとする。この小部屋の壁が伸縮自在で、際限なく膨らませると思っているなら、それは違う。いいかい、知識が一つ増えるたびに、前に覚えたものを忘れることになるのだ>(『緋のエチュード』大久保ゆう訳)。

こんな風にホームズ大先生が宣うものだから、都合の良いように覚えるものを選んできた人生だ。後悔はない。それが良かったと思っている。だが、この体たらく! 思い出せないなら何も意味がない。学もなければ雑学もない。情けないったらありゃしない。“12歳の細胞に流れ込んだまままだ抜け切れちゃいない”、アーバンブルーズたちに申し訳ない!!

そんなことを考えていて、あることに気がつく。覚えたいなら、忘れたくないなら、自分だけの外付けハードディスクがあればいいじゃない。それはYouTubeのリンクをストックしまくることなのか、ブレーンをつけることなのか、それともひたすらメモすることなのか? どれも違う。単純に、物を捨てないで並べまくる(KonMariさんゴメンナサイ!)。データではなくて、物体! 今ときめかなくたって、いつかときめくんです。と、言いたい物は全て棚に並べていく。これが神棚ってやつだろ(は!?)。

棚を一瞥すれば、万事解決。バッと情報が入ってきて、生活から外れてしまって彼方に消えかけた知識もよみがえってくる。また、文脈ごとに整理しておけば、なお良い。カリフォルニアの音楽の本の横には、ビーチボーイズの本、そして『グリンプス』が並んでいるといった具合に。これが目に入って、ヴァン・ダイク・パークスやフォー・フレッシュメンが聴きたくなったら、まだぼくの脳も捨てたもんじゃないわけだ。新たに覚えるものにだって文脈は必要、すでに棚に組まれた文脈に新しいピースがハマる。その行為が記憶の整頓に役立つ。ピースをハメるたび、思い出す行為も同時に行う。映画のDVDだって、レコードだって同様だ。“素敵じゃないか”。

この手法さえとれば、部屋の空間が許す限り知識を詰め込めるんじゃないか⁉︎ なんて思ったが、ここでホームズの言葉がよみがえる。愚かだねえ。詰め詰めはダメなんだってねえ。いやでも、そういう話でもない。そもそも、僕はもう必要なことが思い出せない頭なんだから。ただ、ホームズくんには言いたい。『A STUDY IN SCARLET』のときのあなた、27歳でしょ。これから現れるんだぜ。記憶を吸い込む恐怖の谷ってのが、きっとあるんだぜ。いずれはディレッタントとサヨウナラ、養蜂場で隠遁するようになるんだぜ。などと思いながら、カールハインツ・シュトックハウゼン『ミヒャエルの旅』をホルガー・シューカイのCDの横に刺すのだった。


■NOTES
1●『ダウン・バイ・ロー』
1986年公開のジム・ジャームッシュ監督作品。自主制作映画。主演は酔いどれ詩人のトム・ウェイツ。

2●『コーヒー・アンド・シガレッツ』
2003年公開のジム・ジャームッシュ監督作品。11の物語で連なるオムニバス。モノクロ。イギー・ポップとトム・ウェイツ出演「カリフォルニアのどこかで」が中でも有名。

3●ビル・マーレイ
アメリカのコメディアン、俳優、映画監督、脚本家。1950年生まれ。近年の出演作ではウェス・アンダーソン『犬ヶ島』が話題に。ゴールデン街で酔っ払った観光客がはっぴいえんどを歌っているのは、半分ぐらいこの人のせい。たぶん。

4●ジャームッシュ
アメリカの映画監督、脚本家。1953年生まれ。新作ゾンビ映画『ザ・デッド・ドント・ダイ』は6月全米公開予定

5●ベイカー・ベイカー・パラドクス
Amazonで出てきた本は<ちょっとおバカな兄・秀征と、しっかり者の弟・秀臣は二つ違いの同級生。弟の臣は、だめだめで甘ったれな兄のお世話で毎日忙しい。今日も今日とて、振られたと泣きついてきた兄を、兄弟ルールで慰めるが!? 訳アリ兄弟の、少し変わったゆるふわ日常生活スタート☆>という感じです。

6●『なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか』
日常的なもの忘れからアルツハイマーまで記憶の不思議に迫る。ダニエル・L・シャクター著。日本経済新聞社。1458円

7●「おっふっ」
漫画『斉木楠雄のΨ難』に登場する超絶完璧美少女・照橋心美を見たときに思わず出てしまう言葉。驚いたり感動したりした時に使う。おっふっ……。

8●コナン・ドイル
サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル。イギリスの作家、医師。1859年生まれ。

9●シャーロック・ホームズ
ドイルが書いたホームズシリーズの主人公。顧問探偵。ストラディヴァリ製のヴァイオリンを所有。ボクシングも強い。ベイカー街に住んでいる。貴腐人人気も高い。

10●『A STUDY IN SCARLET』
有名な邦題は新潮文庫の『緋色の研究』。青空文庫では『緋のエチュード』となっている。

11●12歳の細胞に流れ込んだまままだ抜け切れちゃいない
ブランキー・ジェット・シティが1998年にリリースしたシングル「小さな恋のメロディ」より。同名の映画があるのでそっちもぜひ!

12●KonMari
近藤麻理恵。片づけコンサルタント。1984年生まれ。2019年Netflixで、彼女が米国の家庭を訪れる片づけ伝授番組『KonMari 〜人生がときめく片づけの魔法〜』公開。

13●ビーチボーイズの本
『ビーチ・ボーイズとカリフォルニア文化』(スペースシャワーネットワーク)と『ブライアン・ウィルソン&ザ・ビーチ・ボーイズ 消えた『スマイル』を探し求めた40年』(心こーミュージック)が本棚に刺さっています。

14●『グリンプス』
ルイス・シャイナー著。ビーチ・ボーイズと『スマイル』を完成させちゃったり、ビートルズとセッションしちゃったりする、60年代ロックが舞台のファンタジー。ちなみにグリンプスの意味は「一瞥」。筑摩書房。1512円。

15●ヴァン・ダイク・パークス
アメリカの作曲家、編曲家、音楽プロデューサー。1943年生まれ。ビーチ・ボーイズ『スマイル』の製作に携わった。1973年、はっぴいえんどのアルバム『HAPPY END』ではプロデューサーを務める。なんだかんだデビューアルバムの『ソング・サイクル』が特に好きです。

16●フォー・フレッシュメン
ドン・バーバー、ロス・バーバー、ボブ・フラニガン、ハル・クラッチにより1948年に結成されたジャズ・コーラス・グループ。山下達郎先生が「フォー・フレッシュメン・スタイル」と呼ぶ彼らのコーラスは、ビーチ・ボーイズに受け継がれています。

17●素敵じゃないか
ビーチ・ボーイズが1966年に発表した楽曲「Wouldn't It Be Nice」の邦題。

18●カールハインツ・シュトックハウゼン
ドイツの現代音楽家。1928年生まれ。2007年没。暗譜で演奏しないと怒られます。

19●『ミヒャエルの旅』
買ったのは2013年リリース、ムジーク・ファブリーク演奏のもの。トランペット‼️

20●ホルガー・シューカイ
ドイツが生んだクラウトロックの雄、カンの元メンバー。1938年生まれ。2017年没。ギター、ベース、キーボード、ドラムなんでもござれ。

■筆者プロフィール
花井優太(はない・ゆうた)
プランナー/編集者。太田出版カルチャー誌『ケトル』副編集長。エディトリアル領域だけでなく、企業のキャンペーンやCMも手がける。1988年サバービア生まれサバービア育ち。昨年一番聴いたアルバムはSnail Mail『LUSH』。タイトルが載った写真は関口佳代さんに撮っていただいたものです。Twitter : @yutahanai