愛するためにも愛されるためにも、必要なのは自信ではなく、覚悟です

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ハウコレでも何度も取り上げてきた「愛されること・愛すること」というテーマ。


僕はここでは『自分に自信がなければ人を愛することができない。なぜなら人を愛するためには、まずは自分を愛する必要があるよ』と説明きました。


しかし、最近妻とのコミュニケーションをしていく中で、「誰かを愛するのに自信は必要ないのでは?」と思うようになりました。

■誰かを愛するために「自信」は本当に必要?

僕はハウコレでは一貫して“愛は主体的でなければならない”と主張してきたつもりです。


なぜなら、愛されることを目的に生きてしまうと、自尊心や自己肯定感を他者に依存することになるからです。




「愛されること」を期待して生きるとうまくいかないので、


「自分を愛する」→「自分を満たす」→「その後相手を満たす」→「相手が満たされると相手も愛してくれる」→「自分もさらに満たされる」


というサイクルを回そう、と説明していたわけですね。






しかし、よくよく自分のことを振り返ってみると、僕は妻に対してそんなサイクルを回そうなんて思ったことは一回もないんです。


ただプロポーズした時に「この人のことを愛そう」と決めただけなんです。




そのとき自信はむしろなかったですし、そのために自分を満たそうなんて発想もありませんでした。


そこでもう一度「愛すること」「愛されること」について考え直すことにしたんです。

■「愛されたい」という呪いからの脱却

人は誰しも「愛されたい」という欲求を持っています。


それは子ども時代の、「愛されないと」生きていくことができなかった体験に根付いています。




子どもが生を受けて独り立ちするのはほぼ不可能であり、「世話を焼いてもらい、ご飯を食べせてもらい、構ってもらう」ことで生命を維持しようと考えます。




つまり僕たちはみな、「愛されることで生きていける」ということを学習しているわけです。


そして同時にこの学習によって、「愛されなければ生きていけない」という呪いを自分にかけてしまうのです。

■真の自立とは「愛されることへの放棄」

一方で、僕の周りにいる「“依存”という言葉を1mmも感じない自立した人」たちをみると、彼ら・彼女らは「愛される」という発想をそもそも持っていません。




あくまで自分が「この人だ」と決めた人を自らの意志で愛そうとしているのです。




そこに「運命的な出会い」の概念もありません。
愛すべき対象が見つかったから愛そうとしたわけではなく、愛そうとしたから愛すべき対象になったのです。


そこで僕は、真の自立とは、子どもから大人になる過程で「愛されなければ生きていけない」という呪いを捨てることなのではないか、と考えるようになりました。

■幸せになることは、決して楽なことではない

僕らはどこかで「幸せになること」をゴールに置いているように思います。




「幸せになりたい」→「愛すべき人を見つけたい」→「そのためには自分を愛せるようになりたい」→「悲観的な考え方を直さないと」
…そんな風に逆算しています。




ところがこの思考は「愛すべき人さえ見つかれば幸せになれるはずだ」という短絡的な考えに至る危険性があるのです。


誠に残念ですが、愛すべき人が見つかった人の生活は「圧倒的なまでの日常の連続」です。




毎日23時までパソコンに向かって原稿を書き、近い将来生まれてくる子どものための引越しを考え、不動産屋に文句を言いながら、スーパーの特売日でお魚を買う。


ドラマチックな毎日でも「愛で満たされている」毎日でもありません。


しかし、その毎日に絶対的な安心感がある。それが(僕が今のところ感じている)幸せの正体です。

■あなたには人を愛する覚悟がありますか?

あなたには今きっと大好きな人がいますよね?




その人と未来永劫に続く幸せを築きたいと思いますか?


そのために「愛されること」を放棄し、ひたすら続いていく圧倒的な日常を守っていく覚悟は持っていますか?




能力も才能も自信も用意する必要はありません。ただ、「この人を愛そう」と決める覚悟だけあれば、あなたはその未来を作ることができます。(川口美樹/ライター)




(ハウコレ編集部)