【巻誠一郎の転機】たった一度だけ妻に相談したこと

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2019年、元日本代表FWの巻誠一郎が引退を発表した。巻は2003年、ジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)に加入し、イビチャ・オシム監督の指導を受けた。活動量を要求する監督の方針に巻は合致し、土臭く走り続ける姿で台頭する。

その活躍ぶりに目を付けた日本代表ジーコ監督は巻を招集。さらに2006年ドイツワールドカップのメンバーにも巻を選出し、テクニシャン揃いのチームの中にあって一人だけ異色な存在となった。

だがワールドカップでは惨敗。主力が続々と流出するジェフに残留したものの、2009年にはJ2へと降格してしまう。2010年にはロシア、2011年には中国へと渡り、同年帰国して東京ヴェルディに加入。さらに2014年には故郷・ロアッソ熊本に移籍した。

現役生活を振り返った巻が「転機」として思い出すのはどのときか。そして「転機」を支え続けた妻への思いはどうなのか。巻はいつもどおり、飾らずに自分自身のことを語ってくれた。

【取材:日本蹴球合同会社・森雅史/写真:Backdrop・神山陽平】

「プロってあんまり練習しない」と思って入ったジェフ

まず2003年、ジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)に入ったときのイビチャ・オシムさんとの出会いが、自分のサッカー選手としての転機でした。オシムさんじゃなかったら、たぶんここまで現役生活ができなかったですね。

大学生からプロになるとき「プロってあんまり練習しないんじゃないかな?」と思ってたんですよ。高校生のほうがよく練習するんじゃないかって。高校っていっぱい練習しますからね。

ところがプロに入ってからのほうがきつかったんです。全然休みないし。ホント、最初3カ月間ぐらい休みないんですよ。そういうところでプロのベースというか、基準を学びました。

プロってこんなに厳しいトレーニングをして、こんなに自分を戒めながら自分と向き合って、自分を成長させなきゃいけないんだって。それが、1番最初に感じたことです。あれでもし最初のスタートラインが「なんだプロってこんなものか」というレベルだったら、僕は2年ぐらいでサッカー選手を辞めてたかもしれないですね。

最初にプロという基準をどこに持つかっていうのはすごく大事だと思うんですよ。その基準が当時のジェフはすっごい高いところでした。最初にそう設定していただいたし、もちろん要求も高いし。いろんな意味でのレベルが高かったので長くできた。この現役16年間というサッカー人生を送れたのかなぁと思います。

オシムさんの言葉で覚えてるのは、練習についてお願いしたときに言われた台詞ですね。自分はすごくへたくそで、練習についていけないときもあったんで、居残り練習や自主練習をやらせてくれとオシムさんに言いに行ったんです。

オシムさんは個人練習をするのが好きじゃないんですけど、まず「わかった」って。でも続けて、「ただ、今お前がやりたいと言ったような練習は俺のメニューの中に全部詰まっている。だから解決できる。俺のトレーニングをまず全力で毎日やれ」と。

それで僕は「はい」と言って帰ったんです。その「まずは普段のトレーニングから」って言葉は、僕の中でサッカー選手としての基本になりましたね。今、練習後に残って自分のトレーニングをやったり、筋肉トレーニングをする選手が多いじゃないですか。そのプラスアルファのほうにより力を使ってたりする選手もいて。トレーニングをもっと一生懸命やればいいのに、って思うんですよ。

僕はまず与えられたことに対して向き合って取り組むのが大切というのを学んだし、そのスタンスもここまで長くできた秘訣じゃないかと思います。

2つ目の転機は……やっぱり日本代表に選ばれたときと、そこからワールドカップのメンバーに選ばれて出場したときですよ。あれで僕のサッカー人生は大きく変わりましたからね。

日本代表になったことは、僕の人生を狂わせたのか、よくしたのか難しかったです。熊本の田舎から出てきた人間なので人に注目されることにも慣れてなかったですし、どう対処していいのか戸惑ってました。

でも日本代表がなかったら、正直、今の僕はなかったと思っていて。あのとき選ばれて、世間のいろんな人から注目してもらってたおかげで、僕のことを知ってくれてるんですよね。サッカーを知らない人でも、僕を「なんか見たことある」って。そんな人がたくさんいてくれたのが、いろんな場面でよかったんです。

たとえば僕のことを知ってもらっていたからこそ、2016年の熊本地震のとき世の中に僕が熊本の情報を発信できましたし、活動ができました。そこで多くの人たちから支えてもらったというのは、僕に日本代表に入ったという転機があったからですよね。

僕は人見知りなんですけど、地震のときに「日本代表に入ってて良かったなぁ」と初めて思えましたね。そこで自分が日本代表だったということに、やっと向き合えるようになりました。遅かったですね(笑)。

海外移籍で気付いた自分が今後したい仕事

3回目の転機は、2010年7月にジェフを辞めて、そこからロシアや中国に移籍したときですね。ロシアに行くまで、僕はジェフでサッカー選手を辞めるものだと思ってました。

2007年のシーズン終了後、ジェフからいろんな選手が出ていく中で僕はクラブに残りましたから。サポーターのみなさんたちと一緒に歩んできてたので、どんなオファーがあっても僕はこのままジェフで引退すると自分の心に決めてたので。

とはいえ、2010年の終わりには戦力外になるとわかって、それはあまりにも早すぎる、突然すぎると思ったんですよ。それで海外に行くことにしたんです。ただ海外に行って気付いたんです。なんで自分はこんなにジェフに執着したのかなって。海外でいろんな経験して感じました。

ロシアでは100万人の都市に住んだんですけど、日本人は僕しかいなくて、誰も僕のことを知らないんです。食事に行ってもロシア語がわからないから、レストランではメニューの写真を見ながら頼んだりとか、メニューに写真がなかったら店を出ちゃうとか。頼めたと思っても全然違う料理が出てきたり。

あるとき日本料理屋さんを見つけてソバを頼んだら、ツユの中に麺が10本ぐらいしか入ってないんですよ。それでメニューを見たら確かに「ソバスープ」とは書いてあったんですけど。でも「これソバじゃないよ」って一応教えたら、コックさんは「麺がもったいない」って。

中国で住んだのは、経済的にもすごい栄えている地域でしたし日本人とは違う国民性というか、生命力豊かだなと思うことがたくさんあって。いろんなことを吸収してやろうというギラギラ感がありました。「できる」と言って、実際やってみたらできないんですよ。でも「とりあえず行動してみる」という姿勢は覚えました。

そういう場所に1人でいると考えることが多くなるんです。僕はなんであんなにジェフに執着していたんだろう、って。世界に行って気づいたんですよ。自分の小ささとか、自分は1人じゃ何もできないということとか。

そこから人間的に大きく成長できたと思います。あの経験がなかったら、ジェフの中でもてはやされて、そのまま気持ちよく引退して、ということになったんじゃないかなぁと。それが、人から何かしてもらうんじゃなくて、自分でいろんな行動を起こして、自分の影響力を使って仕事をしたいと思えるようになりましたから。特に地震のときの活動にそう感じました。

サッカーに関することだけで言ったら、ロシアでも中国でも試合にはあまり出ていないので失敗ということになるんでしょう。けど巻誠一郎という人間として見たときに、非常によかった、人間的に大きくなれたかなぁと。ロシアと中国での経験がなかったら、きっと地震のときに行動はできなかったですね。

そういう経験をしたんで、日本に帰ってきてからもいろんなことに興味が湧きましたね。帰国して、日本の社会をもっと知りたいと思ったんです。だから東京ヴェルディにも毎日電車で2年半、1回も遅刻することなく通いましたし。

僕はサッカー選手も満員の通勤電車に乗るべきだと思いましたよ。そこで得られるものもたくさんあったので。ハングリー精神もかき立てられたし、スタジアムに来る人がどういう生活をしながら週末の試合を待ってるかわかって。大変な一週間を終えて週末の歓喜やいろんな感情を覚えたくてスタジアムに来てるんですよ。

だったら負けると愚痴も言いたくなるしブーイングしたくなるでしょう。そういう気持ちが分かるじゃないですか。勝ったときはうれしいし、楽しくお酒飲んで帰ろうという気持ちになりますよね。

試合のあと、ヴェルディのサポーターと一緒に電車に乗って帰りましたし、そういう気持ちはものすごく分かって。そういうのがあって、今の僕というスタンスができたのかなと思います。いい転機でしたね。

もちろん2016年の熊本地震は大きな転機でしたね。サッカー選手としてもそうですし、人間としての転機にもなりました、本当は地震なんてない方がよかったんですけど、あれで僕もまた人としていろんなことを経験できました。

そして最近の転機はサッカー選手を辞めたことです。あまり辞める気はなかったんですよ。シーズンが終わるまではJ2残留のためにプレーしましたし、シーズンが終わったとき、2019年もやる気満々でした。

自分の価値を、クラブや見に来ている人たちに還元できなくなったら、そのときはクラブを辞めなければいけないというのは思っていたんです。でもクラブと話をして、僕の評価やクラブが今後どういうスタンスで活動するかを聞いて、僕がこのクラブにどういう形で還元できるのか考えたときに、リンクしなかったですね。

そこで、そういうタイミングなのかなと。……僕は1人のサッカー選手として自分と常に向き合いたいと思っていたので、ここがもうタイミングだと。……サッカー選手としてサッカーに真摯に向き合ってきましたし、自分自身にはウソがつけないので。

体はまだ動きますし、ケガも痛いところもなく、若い選手にはまだ負けないという気持ちもあり、なんで辞めたんだろうという思いもあります。……でも、そこは僕の生き方というか、サッカーに向き合うスタンスだったので。外からでもクラブはサポートできますから。

すべての転機は自分で決断した後で妻に報告

このすべての転機で妻に相談しなかった……ですね。ほぼ事後報告です。

両親は、僕が小さなころからある程度大きな物事をほとんど僕自身に決断させてくれてたんです。そうやって育ててくれたことには本当に感謝してます。だから何事も自分で決断してました。全部自分で責任を負いながらやってて。

だから結婚した後も、いろんな物事を決めるときは「行ってくるね」「行くから」という形での報告がほとんどだったんです。妻に甘えてた部分があるんですよ。大きく言えば、信頼しているというか。妻は全部受け入れてくれるって。

ロシアも中国も移籍が決まってから報告して、単身赴任で行ってましたし。ロシアにいるとき、日本にいる自分の子どもが入院したんです。元々ぜんそく気味だったからそれかなと思ってたんですよ。そうしたら後々聞くと敗血症で、あと数日遅かったら危なかったという状況だったと聞いてビックリですよ。

「なんで俺がロシアにいるときに言わないの!」って。そうしたら「だって、言ったら心配して帰ってくるじゃん」って。妻は肝が据わってますよ。これは一生頭が上がらんなぁって。そう思いながらも、だいたい物事が決まってから言うか、全然言わないっていうのが普通でした。

ただ、引退という決断は本当に大きな転機だったから、「これは妻の耳に入れておかなきゃ。言わんとな」と思って。自分の中ではもちろん「引退」だと決めてましたけど、一応ですね……一応というか、妻から生活のためにもっと現役を続けてほしいと言われたら、それはもう一回考えないとな、と。

でもどこかしら、「うん、いいんじゃない?」と言ってくれるだろうという思いを持ってました。正直なところで言うとね。それで話したら、「まぁいいんじゃない、いいんじゃん」みたいな感じだったんですよ。「あれ、あっさりだなぁ」って。あぁよかった……よかったというか、最後はね、ちゃんと伝えました。はい。先にね。一応(笑)。

妻には「辞めたからサッカー選手としての収入はなくなるので、1、2年は死ぬ気で働くから、また迷惑かけるかもしれないけどね」という話をしました。サッカーの試合を見て勉強するにしても、他のいろんな仕事をするにしても、土日が中心なので家族と過ごす時間がなくなるんです。

現役時代って、トレーニング以外の時間は家族と共有できたんですけど、サッカーを辞めるとそういう時間がまた少なくなるわけじゃないですか。だからそれを許してほしいという話をして。やっぱり頭上がらないですね。妻には。(了)


巻誠一郎(まき・せいいちろう)1980年8月7日、熊本県出身。泥臭く身体を張ったプレーでゴールを狙い続けたストライカー。2016年の熊本地震のときはチームのトレーニングの合間に自らで情報発信し、物資の受け入れ、配布体制を作り上げた。妻は元女優の北川智子。