【澤登正朗の転機】実は永遠のライバル・ジュビロ入りの可能性があった

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1992年、澤登正朗は大学を卒業するとできたばかりの清水エスパルスに入団し、2005年にユニフォームを脱ぐまで清水一筋でプレーを続けた。

Jリーグは発足当時こそ移籍に対してマイナスの反応もあったが、時代が変わってそんな感情が薄れた後も澤登は別のクラブのユニフォームに袖を通すことはなかった。

そんな「一本気」の澤登だが、実は清水に入らない可能性もあった。薄々周囲の期待を理解してはいたものの、まだ決断を下しかねていた時期もあったのだ。

ところがそんなとき、新聞を読むと知らないうちにレールが敷かれて発表されている。澤登はさすがに驚きを隠せなかったそうだ。

清水に入った後も、クラブの経営危機から他チームに移籍することも考えられた。年俸減に加え、熱心に誘ってきたクラブもあったという。それでも澤登は清水を離れることなく、クラブへの愛を貫いた。

「転機」にあって澤登は何を思ったのか。今、澤登は指導者として学生を育てながら何を考えているのかと併せて話を聞いた。

【取材:日本蹴球合同会社・森雅史/写真:高野宏治】

自分が知らないうちに「澤登、内定」

僕の最初の転機は東海大学を卒業してプロになるときですね。そのときエスパルス以外のチームからのオファーもありました。けれど、クラブを作ったのが堀田哲爾(てつじ・故人)さん、望月保次(やすじ)さんという、静岡県のサッカーはこの人たちを置いて語れないという素晴らしい方々だったんですよ。望月さんは自分が卒業した東海大学第一高校(現・東海大学付属静岡翔洋高校)の監督でしたし、また一緒にやりたいという気持ちもあったんです。

でも、僕は「エスパルスに行く」と言ってないのにレールが敷かれてたんです。あるとき新聞を見ると「あれ?『澤登エスパルスに内定』って出てるよ」って。

それで、クラブに確認したんです。「ちょっと待ってください。僕はまだ行くとも何とも言ってないんですけど。お金の面なんかもまだ全然納得してないんです」って。そこから契約の話になったんですけど、「内定」って出ちゃったことで、他のチームは交渉しにくくなったみたいで。

僕もエスパルスに行く気持ちではいたんですよ。いたんですけど、何も言ってないのに「内定」って出たことには、ちょっと怒っちゃって。

でも、気持ち的にはエスパルス行きを決めようって思ってたんで、エスパルスというひとつのJリーグのチームに自分がプロとして行けるということが決まったことが、やはり、最初の転機でしょうね。

大学生のときはまだJリーグができる前で、当時は日本サッカーリーグというのが日本のサッカーの一番上のリーグだったんで、そのどこかのチームでプレーできればいいかなという気持ちがありました。

僕は高校生のころにヤマハ発動機、今のジュビロですけど、そことの関わりが強かったんです。ヤマハはアンドレ、アジウソンというすごいブラジル人がいて、タイトルを獲ったりして強いチームだったんですよ。

ちょうどそのころ、僕の高校と試合をしてくれていたので、「ヤマハに行きたいな」って。高校の先輩もヤマハに入ってましたし、そういう意味では、そんなレールもあったのかなって。

でも大学3年生のときにJリーグが発足する、エスパルスもできるようだという情報が入って、流れが一気に変わったんです。エスパルスができるのであれば入りたい。しかもヤマハはちょっとJリーグ参入が遅れたんですよ。

もしエスパルスができてなくて、ヤマハがJリーグに入ってたら、それで大学3年生のときに「ヤマハ、澤登内定」って新聞に出してたら、「ジュビロの澤登」が誕生してたかもわからないです。それくらい付き合いもありましたし、魅力のあるチームでしたからね。そうしたら、逆に名波浩が清水に入ってた可能性もあり得ましたよ。

ただ、恩師の方々が作ったチームだったので、何とかそのチームで一旗揚げたいという思いがあって。もうひとつは、僕が中学生のときに全国高校サッカー選手権大会で活躍していた長谷川健太さん、大榎克己さん、堀池巧さんがみんな来るっていうことを聞いてましたし。そういう方々と同じチームでプレーできるっていう楽しさがあったので、本当は進路の選び方って難しくはなかったですね。

当時は読売クラブと日産自動車、その後のヴェルディとマリノスが人気がありましたけどね。

そう言えば中学生のとき、カズ(三浦知良)さんに削られたんですよ。僕が中学1年のときにカズさんがブラジルから帰ってきてて、カズさんが僕の中学に練習に来て、ミニゲームをやったんです。それで僕がカズさんのマークに着いたら、カズさんに顔に肘打ちされました。そりゃ中学1年生なんで、涙出ましたよ。あとで考えると、ブラジルだったらそういうのは当たり前で、そういう中でやれなかったらダメだよっていう僕への洗礼だと。

だから当時ヴェルディはすごかったけど、カズさんがいたんでやめました、とうのは冗談ですが、やっぱり読売クラブは魅力がありましたね。

そうやって入ったエスパルスだったんですけど、1997年にクラブの経営が苦しくなって、年俸がグンと下がりました。他のクラブに行ってたら倍はもらえてたと思います。今だから話せますけど、2チームからオファーがありまして、心が移籍に傾きかけました。

ただ、傾きかけたのは「エスパルスがなくなるんじゃないか」という話があったからで、存続するのであれば、収入が減ろうと残ろうという覚悟はありました。僕たちはプロで、プロは年俸で評価されるというのはあるんですが、静岡の人はちょっと違って。

やっぱりエスパルスというチームがひとつの「誇り」なんですよ。「存続すればお金じゃない、残る」っていうのがみんなの意見でしたね。「なくなったらしょうがない。でもあるんだったら残ろう」って。選手同士で集まったときはそういう話をしてました。

今の若い人が聞くと「社畜」という感じになるのかもしれないですけど、何というのかな、うーん……サッカーってひとつのエンターテインメントじゃないですか。もちろんお金をたくさんもらってエンターテインメント性をたくさん出す、というのがプロですけど、いいサッカーしてサポーターに喜んでもらって、勝ってフロントも喜ぶ、というだけでいいんじゃないかって。お金じゃなくてもエンターテインメント性を出せるだろういう考えだったんです

みんな家族があったし、年俸が下がると、翌年の税金って前年度の収入に対して決まるから余計に厳しいし。やっぱりお金は大事じゃないですか。でも、そんなことよりまずチームが存続して、そして勝っていけばそのぶん取り返せるだろうって。ビッグクラブではないので、クラブを強くしたいとか、もっとよくしたいとか、そういう気持ちをみんな持ってたんですよ——。

「この会社のために全力でやる」とみんな最初はそう思う

僕にはもう2つ転機があるんです。

それはどちらも現役を引退した後で。自分がプレーして得たものを伝えたいと考えたときに、1つはメディアの仕事だったんです。そしてメディアの仕事をやりながらS級コーチライセンスを取りに行きました。最初に何か現場のチームを持ってしまうとライセンスを取りに行くのは難しいから。

僕のときにはS級ライセンスを取るときに、日本代表としての実績によってB級からA級を飛ばしてS級が受けられるという「飛び級」制度があったんです。でも、飛び級したらわからない部分があるだろうと思って、あえてA級にも行きました。そこで勉強した後にS級に行ったおかげで、わかりやすかったですね。楽ってことじゃないですけど、S級が頭に入りやすかった。

もう1つの転機は現場を持ったことですね。メディアにいるだけだったらわからなかった部分がたくさんありました。今、常葉大学サッカー部の監督をやってるんですけど、チームのマネジメント、これはチームを持たないとできないですよね。

それで実際チームを持つことで、ここまでやらなきゃいけないんだ、ここまで指導しなきゃいけないんだ、指導以外もここまでやらなきゃいけないんだって身に染みましたね。選手の登録や、当然ですけど監督会議とか、「なるほど、こういうこともやらなきゃいけないんだな」というものを感じました。

名波のように最初からプロの監督になる人もいますけど、大学生の現場を持つと、プロ以上のことをマネジメントしなきゃいけないんですよ。学生は学業が一番ですから。

まず単位が取れてるかどうかチェックしなきゃいけない。それからトラクターで天然芝を刈ったり、芝に水を撒いたりとか。練習は17時からなんですけど、10時には大学に行ってるんですよ。メディアの仕事がない限りはほぼ一日中大学にいて、家に帰るのが21時だから12時間近くいたりしてますね。

自宅から大学まで片道85キロあります。週だいたい6日行ってますから、6年で車の総走行距離が20万キロでした。ハイブリッドなのに週2回ガソリン入れなきゃいけないですから。残業手当ほしいですよ(笑)。

サッカー部は約120人をAからDの4つのカテゴリーに分けて、AとBは大学リーグ、CとDは社会人リーグに所属してます。僕はAとBのサッカーの指導をしてて、CとDは外部のコーチに任せてるんですけど、じゃあ僕はトップだけ見てていいかというと、それじゃダメなんです。全体、120人でサッカー部なんで、社会人チームのところも見ないとダメなんです。

就職の面倒も見てるんですよ。結局そこなんです。大学からJリーガーになるっていうのは数えるくらいの人間しかいないから。大半は就職するんで、じゃあサッカーに関連するような職種のところを探してあげなきゃいけない。

もちろん学生も自分で就職先を探さなきゃいけないですけど。サッカーに関するところってなると、僕たちを通さないと難しい部分もあるので。なかなか決まらない子は一般企業で自分が知っているところにお願いしたりします。

プロの監督だとトップチームだけ見てればいいんですけど、今は経営のところまで見なきゃいけないぐらいの、そういうところのマネジメントをやってることが勉強になってるかなって。結構大変です(笑)。けど、最初にそういうところを経験できたのはよかったかなって思ってるんですよ。

もし最初にプロチームの監督になってればそこはわからなかったかなと。そういうのもあったんで、そういう大学のカテゴリーから始めて、この先どうなるかわからないですけど何かのステップにうまくつながってくれたらいいなと思ってます。

今の子は真面目です。本当によくやってくれてます。僕たちの要求はプロでやって来たんで高いんです。うちに入学する学生は、最初は確かに関東や関西の大学の学生に比べるとちょっと劣ってたかもしれないですけど、でも今はもう変わらなくなってますよ。

高校のときに、ただ監督に選択されなかっただけで、力がある子たちを、何とか全国の中で活躍させて、Jリーグからのオファーを受けさせてあげたい。そんな彼らに何とか日の目を浴びさせてあげたいって、毎日やってるんです。

もちろんうまくいかないこともありますけど、だんだん学生の意識も高まってきて、練習が終わった後にどんな補食を取って夕飯までの時間を過ごしたほうがいいとか、食事も何を食べたらいいとか。あとはどういうリズムで一日過ごしたほうがいいとか、睡眠の部分まで、教えると本当に真面目にやります。

僕が大学のころはそんなことなかったです。食事もいい加減でしたし、もちろん夜遊びに行ってしまったりとか、そういうこともありました。でも今の子たちは本当に真面目で、基本的には忠実にいろいろやる選手が大半です。

あとは僕たちがこうやりなさいということを、自分の意志で応用して変えていってくれれば。そうしたら人間としても大きくなれるんじゃないかと思います。自分で考えて行動して判断する。それってサッカーも一緒なんですよ。判断が悪い選手はプレーが遅かったりミスが多かったりするんで。

その判断が柔軟になって、いろんなことができるようになれたら、たとえ会社の組織に入っても柔軟に対応できる。そういう人間になってほしいと思います。

それから会社に入ったときって「この会社のために全力でやる」と、みんな最初はそう思ってるんですよ。でもそれが続かない。サッカー部として活動している中で、僕はそういう気持ちが続く忍耐力は作れると思うんです。そういう子を僕は輩出したいと思ってます。(了)


澤登正朗(さわのぼり・まさあき)

1970年1月12日、静岡県生まれ。1991年12月に発足した清水エスパルスの大卒第1号選手として契約し、その後はずっと中盤の司令塔として君臨し続けた。高い技術力をベースとした正確なキック、精度の高いセットプレー、さらに労を惜しまない動きでチームを牽引。またキャプテンとしてチームをまとめていた。