萩原健一追悼 女優A「前貼りなし」本番秘話
ロックンローラーの内田裕也さん(享年79)とは双璧の破天荒さで昭和、平成時代を駆け抜けた“ショーケン”こと萩原健一さん(本名・敬三)が、3月26日、消化管間質腫瘍のため都内の病院で死去した。68歳だった。“芸能界一の問題児”と呼ばれた萩原さんは、内田さんが亡くなった9日後に人生の幕を下ろした。
萩原さんは高校在学中にスカウトされ、『ザ・スパイダース』の弟分的位置づけの『ザ・テンプターズ』ボーカルとして1967年デビュー。『忘れ得ぬ君』『エメラルドの伝説』『神様お願い!』など次々ヒット曲を飛ばし大人気を博した。
『ザ・テンプターズ』解散後の1970年初頭には、『ザ・タイガース』沢田研二、岸部一徳、『ザ・スパイダース』井上堯之らが集結し、オールスターグループ『PYG』(ピッグ)を結成したが、それぞれ人気者であるがゆえにソロ活動が増え、自然消滅した。
「グループサウンズで一世を風靡したショーケンはその後、俳優に転身した。斬新な演技でドラマや映画で活躍し、晩年はいぶし銀の演技力で新境地を切り開いた。一方で、他人の演技に厳しく、エキセントリックな性格だったから、共演者には密かに恐れられていたんです」(ドラマ関係者)
俳優業に力を入れ始めた萩原さんは『太陽にほえろ!』(’72年、日本テレビ系)のマカロニ刑事役で一気に話題をさらった。『傷だらけの天使』(’74年、同)では、共演の“相棒”水谷豊が「アニキ〜」と連呼する場面が伝説として語り草になっている。
映画では『青春の蹉跌』(’74年)でキネマ旬報最優秀主演男優賞を受賞、『恋文』(’85年)で日本アカデミー賞優秀男優賞など数々の映画賞に輝いている。
「一昨年に芸能生活50周年を迎えたショーケンは、自ら原案を手掛けた『明日への誓い』(’18年3月25日放送、テレビ朝日系)で2年ぶりのドラマ出演を果たした。数多くの映画監督やドラマのプロデューサーから絶賛されていた演技力は衰えていなかった。それどころか、年を重ねるごとに深みが増していた」(映画製作関係者)
“芸能界一の問題児”とされる萩原さんの私生活は、女性関係、ドラッグ、暴行事件などトラブルには事欠かなかった。
「内田さんより芸能界では活躍しましたが、私生活では内田さん以上にハチャメチャな人生を送ってきたんです」(夕刊紙記者)
内田さんは不倫を数々したが、機転の利いた妻・樹木希林さんのおかげで離婚歴はなし。萩原さんは4回結婚しているバツ3だ。
まず、’75年にモデルの小泉一二三と結婚、女児を授かったが、3年で離婚。
「その後、女優のいしだあゆみと’80年に結婚したんですが、4年で破局したんです。ショーケンは“共演者キラー”と言われて、女優との噂が絶えませんでしたね」(女性誌記者)
当時を知るベテラン映画関係者は「若手の女優はショーケンのある強要にビクビクしていたんです」と意外な事実を打ち明ける。
「ショーケンは濡れ場のシーンになると“リアリティーを出さないといけない”として前貼りなし。本番を拒否すれば無名の若手女優などすぐ降板させられる。女優Aらは泣く泣く受け入れていましたよ。今の時代だったら、セクハラどころか強制性交で訴えられてもおかしくありません」
闇に葬られた拉致暴行事件
’85年11月には、アントニオ猪木の妻で女優の倍賞美津子と不倫密会。現場を押さえようとした写真週刊誌の記者とカメラマンに暴行を働いたとして、書類送検された。
「その後も、ショーケンは同様の暴行を働いているんです。’85年に公開された映画『恋文』の打ち合わせを新宿区内の旅館で倍賞、監督らとした際、張り込んでいた週刊誌の記者を拉致して暴行を加えているんです。これは事件化していません。ショーケンの暴力沙汰は日常茶飯事だったんです」(フリーライター)
萩原さんは高校在学中にスカウトされ、『ザ・スパイダース』の弟分的位置づけの『ザ・テンプターズ』ボーカルとして1967年デビュー。『忘れ得ぬ君』『エメラルドの伝説』『神様お願い!』など次々ヒット曲を飛ばし大人気を博した。
「グループサウンズで一世を風靡したショーケンはその後、俳優に転身した。斬新な演技でドラマや映画で活躍し、晩年はいぶし銀の演技力で新境地を切り開いた。一方で、他人の演技に厳しく、エキセントリックな性格だったから、共演者には密かに恐れられていたんです」(ドラマ関係者)
俳優業に力を入れ始めた萩原さんは『太陽にほえろ!』(’72年、日本テレビ系)のマカロニ刑事役で一気に話題をさらった。『傷だらけの天使』(’74年、同)では、共演の“相棒”水谷豊が「アニキ〜」と連呼する場面が伝説として語り草になっている。
映画では『青春の蹉跌』(’74年)でキネマ旬報最優秀主演男優賞を受賞、『恋文』(’85年)で日本アカデミー賞優秀男優賞など数々の映画賞に輝いている。
「一昨年に芸能生活50周年を迎えたショーケンは、自ら原案を手掛けた『明日への誓い』(’18年3月25日放送、テレビ朝日系)で2年ぶりのドラマ出演を果たした。数多くの映画監督やドラマのプロデューサーから絶賛されていた演技力は衰えていなかった。それどころか、年を重ねるごとに深みが増していた」(映画製作関係者)
“芸能界一の問題児”とされる萩原さんの私生活は、女性関係、ドラッグ、暴行事件などトラブルには事欠かなかった。
「内田さんより芸能界では活躍しましたが、私生活では内田さん以上にハチャメチャな人生を送ってきたんです」(夕刊紙記者)
内田さんは不倫を数々したが、機転の利いた妻・樹木希林さんのおかげで離婚歴はなし。萩原さんは4回結婚しているバツ3だ。
まず、’75年にモデルの小泉一二三と結婚、女児を授かったが、3年で離婚。
「その後、女優のいしだあゆみと’80年に結婚したんですが、4年で破局したんです。ショーケンは“共演者キラー”と言われて、女優との噂が絶えませんでしたね」(女性誌記者)
当時を知るベテラン映画関係者は「若手の女優はショーケンのある強要にビクビクしていたんです」と意外な事実を打ち明ける。
「ショーケンは濡れ場のシーンになると“リアリティーを出さないといけない”として前貼りなし。本番を拒否すれば無名の若手女優などすぐ降板させられる。女優Aらは泣く泣く受け入れていましたよ。今の時代だったら、セクハラどころか強制性交で訴えられてもおかしくありません」
闇に葬られた拉致暴行事件
’85年11月には、アントニオ猪木の妻で女優の倍賞美津子と不倫密会。現場を押さえようとした写真週刊誌の記者とカメラマンに暴行を働いたとして、書類送検された。
「その後も、ショーケンは同様の暴行を働いているんです。’85年に公開された映画『恋文』の打ち合わせを新宿区内の旅館で倍賞、監督らとした際、張り込んでいた週刊誌の記者を拉致して暴行を加えているんです。これは事件化していません。ショーケンの暴力沙汰は日常茶飯事だったんです」(フリーライター)