幼い頃から悩まされた父親のギャンブル依存。ついに決別した息子が今思うこととは(写真:筆者撮影)

12月の昼下がりなのに外気は2℃。新幹線で盛岡駅に降り立ったときはそれほど寒さを感じなかったのですが、しばらく外を歩くと身体がじわじわと冷え、北の地を訪れていることを実感しました。今回話を聞かせてもらったのは、濱田瑛太さん(仮名、26歳)。

高校を出てからずっと、岩手県内のある役場で働いています。酒癖が悪くギャンブル依存の父親に、小さい頃から悩まされてきました。母親はがんと闘った末、東日本大震災の翌年に他界しています。

「父親からの金の無心から逃げるため、6年前に家を出た」という瑛太さんに、これまで何を感じてきたのか、聞きました。

まるで「一種の宗教」のような家族関係

瑛太さんが生まれたのは、両親が出会って結婚した神奈川県。幼稚園の頃、両親の故郷である岩手県に移り、3人で暮らしてきました。


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父親は酒に弱く、飲んで帰ってきては母親や瑛太さんに説教をし、ときには2人に手を上げることもありました。自分がつねに正しく、母親や瑛太さんの言うことは間違っていると断じるその様は、「一種の宗教みたいな感じだった」と言います。

親戚が経営する会社で土木の仕事をしていた父親は、茶封筒で給料を渡されていました。もらった封を開けるとお金が半分以上減っており、母親が嘆いていたことを覚えています。父親はギャンブル依存症で、パチンコにお金を注ぎ込んでいました。

母親は一度、瑛太さんを連れて、東京に住む妹のところに家出したことも。瑛太さんが9歳のときでした。おそらく離婚を考えたのでしょうが、1人では「生活できない」と判断したのか、親戚の仲介もあり、結局は父親の元へ戻ることに。

お酒を飲んでいないときの父親はテレビを観て笑ったり、冗談めいたことを言ったり、おどけたところもあったようですが、あまりよく思い出せないそう。その後の嫌な思い出が塗り重ねられ、楽しい記憶が消されてしまったのかもしれません。

母親は「自分(瑛太さん)が部屋を片付けないでいると『片付けといたから』と言う」ような、「肝っ玉母ちゃんだった」と言います。調理師免許を持ち、近所のお弁当屋さんで長く働いていた母の料理は「手抜きでもおいしかった」そう。「近所からもよくおいしいと喜んでもらっていた」と話す瑛太さんは、ちょっと誇らしげでした。

母親のがんが見つかったのは、瑛太さんが高校2年の終わりの頃。近所の開業医から県立病院、さらに東北地方のある大学病院へと紹介され、子宮頸がんと判明します。

治療が始まったのが4月。この頃ちょうど、父方の祖父が急性心不全で亡くなります。祖父の遺産は当初、祖父と同居している長男(瑛太さんの父親の兄)が受け取るはずでしたが、母親の治療費や瑛太さんの進学費を考えた伯父のはからいで、父親も受け取れることに。以前、祖父が購入していた土地の売却金も含め、現金で400万円ほどを相続したと聞いています。

翌2010年4月、高校を卒業した瑛太さんは、地元の役場で働き始めます。ずっと貧しい生活を送ってきたので、将来は安定した公務員になろうと中学の頃から決めていたそう。高校は商業科で、2年のうちに簿記2級に合格していたため、担任の先生からは大学の推薦をとることも可能だと言われましたが、初志貫徹しました。

祖父の遺産を使い切った揚げ句、自殺を図った父親

父親が祖父の遺産を使い切っていたことがわかったのは、この年の暮れ、父親が自殺を図ったときでした。遺書を書いて睡眠薬を1週間分まとめて飲み、車内で練炭をたいたのです。発見されたとき車窓に目張りはなく、父親はタオルをかぶっていたため、「本当は死ぬ気がなかったのでは」と瑛太さんは言います。死にたい気持ちと生きたい気持ち、両方あったのかもしれません。

思い返してみれば瑛太さんが高3の秋、国家三種公務員試験の面接を受けるため、父親に東京への旅費を出してくれるよう頼んだところ、顔を平手打ちされたことがありました。相続から1年ほど経ったこのときすでに、400万円の遺産はなかったのです。

瑛太さんは就職1年目にもかかわらず、母親の入院費に加え、閉鎖病棟に入った父親の入院費まで払うことに。車の購入資金として貯めてきた50万円も支払いにあてざるをえませんでした。

さらに運の悪いことに、父親が入院した精神科の閉鎖病棟は、母親が入院する病棟のすぐ隣でした。父親はたびたび母親の病室を訪れては金をせびり、瑛太さんが渡していた小遣いも持っていってしまいます。母親の病気が悪くなったのは、そのストレスのせいもあったと瑛太さんは考えています。

瑛太さんは次第に追い込まれていきました。職場では上司の激しいパワハラがあり、母親の看病に父親の自殺未遂も重なり、多額の入院費の支払いまでも背負わされ――。ふと気付くと車を林道に走らせ、何時間もぼんやりしていたこともありました。

そこへ起きたのが、東日本大震災です。父親の自殺未遂から3カ月ほど経った頃でした。自宅はかろうじて津波を免れましたが、役場に勤める瑛太さんは仕事に忙殺されていきます。それまで転職を考えていましたが、とてもそれどころではなくなりました。

母親が亡くなったのは2012年の2月。前年の10月に「余命1年」と宣告され、県立病院に転院したのですが、それからわずか4カ月でした。

母親が亡くなった翌月、瑛太さんは家を出ます。きっかけとなったのは、テレビを観ていた父親の言葉でした。

「1年後の3.11、というのはやっぱり大きかったと思います。役場の仕事も年度末で忙しくなり、残業で遅く帰る日が続いて。ただ、それは自分にとってはよかったんですよ。この時期、震災から1年ということで、テレビや新聞、雑誌でもいろいろ特集をやっていたんですが、それを見たくなかった。思い返してしまうから。

ところが一度、家に帰ったら父親がちょうどテレビを観ていて、地元でいちばん被害が大きかった地区の話をやっていた。すると父親が、『ここで何人ぐらい死んだのや』と、平気な顔をして聞いてきたんですよ。

そんなの、普通に聞けるようなことじゃない。震災のときは入院していて状況を呑み込めていなかったとしても、もう退院して半年は経っているわけです。『こんな人間といつまでも同居していられない』と思い、家を出ました」

このまま父親と暮らしていたら自分の給料も使い尽くされてしまい、いつになっても自分の人生を送れないだろう――。そんな危機感もつねに抱えていました。

背中を押してくれた母の言葉

家を出て父親と決別することができたのは、母親の言葉のおかげもあるかもしれません。

「亡くなるひと月前くらいですかね、成人式があって、その後、見舞いに行ったんです。意識のあるうちの最後のひと言だったと思うんですけど、『私が駄目になったら、やりたいことをやりなさい』と言われたんですね。『ああ、母親はやっぱり、やりたいこともできなかったんだな。母親がやりたかったことも、自分がやりたかったことも、思い切り正々堂々とやればいいんだ』というふうに思ったんです」

家を出てからは父親からの金の無心もなくなり、年に一度、旅行にも行くようになりました。何度も行ったのは湘南。母親も瑛太さんもサザンオールスターズが好きで、余命を宣告されたとき『最後にどこか行きたいところに行こう』と相談していたのが湘南でした。

また家を出てからは「父親の目にさらされることなく生活できる」ようになり、気持ちにも少しゆとりが出てきたそう。

とはいえ、すべてが解決したわけではありません。2018年のはじめ、弁護士事務所から突然電話がかかってきました。6年前、母親が最後にいた病院の入院費が一部未払いになっており、保証人だった瑛太さんのもとに督促がきたのです。瑛太さんはやむなく、この入院費をカードローンで立て替え払いして、今も返済しています。完済まで、あと約1年かかる見込みです。

また瑛太さんが家を出てから、父親は東京で出稼ぎをしているのですが、最近はこちら(岩手)に残した部屋の家賃を滞納している気配が。保証人にはなっていないものの、不安を感じるところではあります。

瑛太さんにとって父親は、「生きている以上は、重石のような存在」なのだといいます。

「親以外の大人」と関わりを持ったほうがいい

親に苦しめられる子どもたちは、たくさんいるでしょう。そんな人たちに、瑛太さんは「親以外の大人と関わりを持ったほうがいい」と言います。

「親からの教え込みや押し付けで子どもの価値観は変わるし、人生がいい方向に行くこともあれば、ひん曲がった方向に行く可能性もある。でも、いろんな大人の人たちの話を聞けば、自分が(親から)教え込まれていることが正しいのか間違っているのか、比べることができます。

自分は小学校のとき野球をやっていて、そのときの監督やコーチがずっと近くにいて、今も関わりを持てている。これは幸せなことと思います。高校のとき、担任の先生が『簿記2級に受かったんだから、大学進学や税理士を目指す選択肢もある』と教えてくれたのもありがたかった。子どもは目の前のことしか見えないので、選択肢を増やしてくれる大人の存在は大きいです」

親以外の大人の人たちに救われた――瑛太さんはそう強く感じています。野球部はお金がかかるため、中学高校時代は続けることができませんでしたが、小学校の一時期でも、瑛太さんが心ある大人の助けを得られたのは幸運なことでした。

「あとは、やりたいことをやってほしいと思いますね。たとえ誰かに、ああだこうだと反対されても。今はこの選択でよかったと思っていますけれど、『自分は進路を決めるとき、親の権力に逆らいきれなかった』という思いがあったので」

瑛太さんにはこれからもっともっとやりたいことをやってほしいし、世界中の瑛太さんのような子どもたちが、親に縛られずに生きてほしい。亡くなった彼の母親も、そう願っている気がします。

本連載では、いろいろな環境で育った子どもの立場の方のお話をお待ちしております。成育環境が変わっているからといって「かわいそう」なわけでもなく、傍目には恵まれた環境でも、本人はつらいこともあります。詳細は個別に取材させていただきますので、こちらのフォームよりご連絡ください。