斎藤佑樹 撮影/廣瀬靖士

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ついに2019年4月末で平成の時代が終わる。平成の世を彩り、輝きを放ったスターはそのとき何を思い、感じていたのか? 当時と今、そしてこれからについてインタビューで迫っていくこの連載。5回目は北海道日本ハムファイターズに所属する斎藤佑樹さんです。

Vol.5 斎藤佑樹

「週刊女性さんに嫌な印象は持ってないですよ(笑)。今日は、当時の話をたくさん? いいっすね〜」

【写真】真摯にインタビューに受け答えする斎藤佑樹

 斎藤佑樹はノリよく、愉快そうに笑った。

 '06年夏の甲子園決勝。延長15回でも決着がつかず、引き分け・再試合となった早稲田実業vs駒大苫小牧。田中将大との壮絶な投げ合いの末、早稲田実業が初の栄冠に輝いた。間違いなく、平成の高校野球史に残る名勝負だ。

これが甲子園か!

「野球を始めたのは小学1年生のとき。兄の影響です。甲子園を意識し始めたのは、小学校4年生のとき。

 松坂大輔さんが横浜高校で優勝した('98年)のを見て、“やっぱり、松坂さんってすごい!”と思ったのがきっかけですね」

 中学時代は、群馬県大会準優勝、関東大会ベスト8。地元の太田高校に進もうと受験勉強をしていたとき、早実からスポーツ推薦の声がかかり、進学を決めた。甲子園が夢から目標に変わったのは、

「高校1年生のとき。メンバーに恵まれたのがいちばんですね。僕らの代は、スポーツ推薦組だけじゃなく、中等部からの内部進学や一般入試からも、いい選手が入ってきていたので」

 2年秋の都大会で優勝し、春の選抜に出場する。

「感動的でしたね。“これが甲子園か!”と。相手どうこうではなく、自分がどういうプレーをできるのか。楽しみでもありましたし、不安でもありました。

 春はベスト8でしたが、“もっと行けたな”という思いはあった。ただ、そのためには何かが噛み合わないといけないし、このままじゃダメだとも思っていました」

 そして迎えた夏。“行ける”という手ごたえや自信は、初戦ではまだなかった。

「最初に自信をつけたのは、2回戦の大阪桐蔭戦。(現在のチームメートの)中田翔と戦って、11-2で勝って。そこから“もしかしたら、行ける”と。僕だけの力じゃなく、チームに気運があったというか、本当に噛み合った。

 もし、僕のワンマンチームだったら、絶対に無理だった。チームメートのレベルが高いと実感しました」

 投球中に尻ポケットからタオルハンカチを取り出して、汗をふく……。それまでは汗と泥にまみれるのが当然の高校野球において、斎藤のその姿は斬新だった。早稲田という名門校のブランドや端正な顔立ちも手伝って、大会途中から“ハンカチ王子”と呼ばれるように。

ナイス俺!

「ハンカチは、高校時代も練習のときはずっと使っていて。試合で初めて使ったのは多分、夏の甲子園。春は汗をかかないから、選抜では使ってないですね。

 最初にその名前を聞いたときは“何だそれ?”“まあ、いっか”くらいでしたが、勝ち進むほどにハンカチが先行し始めて。自分のアイデンティティーが、まるでハンカチにあるかのようになっていったときに“ちょっと違うぞ”と思った」

 ただ、試合をするうえでは邪魔にならなかったという。決勝戦の翌日に行われた再試合については、

「再試合になってからのほうが、むしろ行けると思いましたね。何だろう? その感覚はどう言っていいのかわからない。理屈はないんですけど、それはありましたね」

 あの甲子園から13年弱。ハンカチを使ったことを、今、改めてどう捉えているのだろう?

「“ナイス俺!”ってすごい思いますよね。ハンカチがあったから、あの大会自体がクローズアップされた。

 もしハンカチなしで、ただ単に“早実の斎藤佑樹vs駒大苫小牧の田中将大”だったら、あそこまでは注目されなかったんじゃないかと思う」

 たしかに、女性週刊誌がこぞって“佑ちゃん”と騒ぎ立て、追いかけだしたのは甲子園直後からだ。

「ですよね(笑)。自分で言うのも変な話ですけど、ただの野球選手だったら追わないじゃないですか。甲子園での優勝は僕が今、野球ができている状況において、本当に大きな財産です」

 甲子園後に訪れたのは“ハンカチ王子フィーバー”。当時のことを振り返ってもらうと。

「あのフィーバーは、嫌だったというより、ちょっと冷めた目で見てましたね。“何だこれ?”みたいな。客観的に見て異常だなと思っていました」

 高校生、大学生に連日群がるメディアを、小バカにするような気持ちも、ぶっちゃけあったのでは?

「それはないですけど(笑)。ちょっと嫌だったのは、大学1〜2年のとき。周りの友達が、僕と一緒にいると写っちゃうから、だいぶ嫌がられましたね」

 早稲田大学入学後も、東京六大学野球で次々に記録を樹立するなど順風満帆だった斎藤だが、3年時に左の股関節を痛める。

「3・4年は調子がよくなかったのに“こんなに注目してもらえるんだ”って、すごく感じた。それこそ、ハンカチ王子じゃなかったら、注目してもらえなかったと思う」

 注目されることが、うれしくなっていたという。そして、それは野球を始めたときの気持ちに通じるという。縄跳び跳べたら親が褒めてくれる、足が速かったら仲間がすごいと言ってくれる。成功体験は、楽しさを実感させ、成長を促す。

「そんなことの繰り返しで、僕らは野球を続けてこられている。失礼な言い方かもしれませんが、メディアをそんなふうに思うと、僕はすごく楽になった」

プロ野球選手として

 '10年のドラフトで4球団が1位指名。交渉権を獲得した北海道日本ハムファイターズに入団する。

 1年目は6勝、2年目は5勝するが、3年目の勝ち星はなく、8年目となった昨シーズンまでで62先発、15勝……。期待された成績は残せていない。正直、プロでもっと活躍できると思っていたのでは?

「それは思ってたけど、それはやっぱり願望でしかないですよね」

 優等生な答えに、意地悪く問い返す。プロでの華々しい活躍を思い描いていた自分を甘かったと思うか?

「そうは思いませんね。変な言い方になるかもしれませんが、“僕の人生を誰か代わりにやってみろ”と思うことはあります。

 やっぱり今の自分に対して、ずっとそうやってプライドを持って生きているし。やっぱり自分じゃないと、この人生は絶対できないとも思っているから」

 やはり、負けん気は強い。“輝きが失われた”などの言葉には、こう思うようにしている。

「“ここからでしょ!”。中学3年生で群馬県の田舎から、大都会・東京に出てきたとき、僕はそんな気持ちでいたので。だから、あのころの気持ちにまた戻ったような気がしています」

 現在のコンディションはいいが、思い描くイメージと身体の歯車が合わないことのほうが、まだ多いという。

「ケガの影響だと思いたいんですけど、やっぱり変なクセもついてて。それも含めて、今の自分だから、うまいこと自分で落としどころをつけないといけない」

 無名選手だったら、戦力外通告をされていてもおかしくない。それでも“今シーズンこそ”と悲願に近い期待がファンからは寄せられている。ほかの選手であれば箸にも棒にもかからないことが、斎藤であれば今でもニュースになる。

「そんなに実績も残してない選手に対して、そこまで注目してもらえて、僕自身としてはすごいモチベーションになるし、ありがたいと思っています。

 でもその分、成績が出なかったときの落とされ方もわかっている。だから、それも含めて、一喜一憂しないようにしています。それに、どう扱われようと、プロ野球選手としてやらなきゃいけないことは変わらないので」

 斎藤の今の目標は、この'19年のシーズンで1勝でも多く挙げることだ。

「もう本当に、1年1年が勝負。クビって言われたら、クビ。“お願いします。どうしても野球がやりたいんです”と言ってやれる世界じゃない。

 だから、その日が来るまでは、本当に1試合1試合、野球を楽しみながらやりたい」

これが僕の人生

 もし、タイムマシンがあったらどこに戻りたいか? その答えに、後悔が浮かびあがるであろう質問をしてみると、

「戻りたい、はあんまりないですね。タイムマシンが本当にあったら、未来に行きたい。60歳の自分が何をしているのか、とか。どんな大人になっているか見てみたいですね」

 “あのとき、こうしていればよかった”というような後悔は、あまりしない性分のようで。

「よく“大学行かないでプロにそのまま行っていれば”って言われるんですけど、それも“だったら何だ?”みたいな感じで。

 僕は、ほかの人生を知らないし、これが僕の人生。もし、正解があるならその道を選ぶだろうけど、正解はないから」

 昭和63年生まれの斎藤にとって、平成という時代は、人生のほぼすべてに当たる。そして、新たなる元号(令和)を迎えてからも、野球人生は続く。どうありたいと考えているのだろう?

「今までの人生を生かして、1年でも長く野球選手として頑張りたい。“昭和生まれ最後の野球選手”になれるように、ね」

PROFILE
●さいとうゆうき●'88年6月6日生まれ。群馬県出身。早稲田実業高校3年時“ハンカチ王子”と呼ばれ、甲子園の優勝投手に。早稲田大学卒業後、北海道日本ハムファイターズに入団し、プロ9年目