2000年に亡くなった和歌山県の自治体職員。息子マー君がしたっていた「お父さん」はどんな人だったのでしょうか。写真はイメージ(写真:aijiro / PIXTA)

大きくなったら
ぼくは博士になりたい
そしてドラえもんに出てくるような
タイムマシーンをつくる
ぼくは
タイムマシーンにのって
お父さんの死んでしまう
まえの日に行く
そして
「仕事に行ったらあかん」
ていうんや

2000年にお父さんを亡くした6歳の男の子、マー君の言葉だ。「ぼくの夢」というタイトルの詩となり、20年近くたった今も大切に読み継がれている。

わたし自身、この詩を読むたびに涙がこみ上げてしまう。大好きなお父さんが急にいなくなってしまったマー君。愛する妻子を残して命を絶たざるをえなかったお父さん。2人の気持ちを思うと、胸が苦しくなる。

マー君の父、塚田浩さん(仮名)は、和歌山県橋本市の自治体職員だった。かかえきれない仕事の山に押しつぶされ、2000年3月に自ら命を絶った。当時46歳。働きすぎが原因でうつ病になり、最悪の結果に至る「過労自死」の典型例といえる。マー君が心からしたっていた「お父さん」は、どんな人だったのだろうか。

過労死 その仕事、命より大切ですか』では過労死遺族の「今」に迫った。

子煩悩なパパに訪れた転機

2015年10月、わたしは和歌山県橋本市にある塚田さん一家の住まいを訪ねた。浩さんの妻、美智子さん(仮名)が取材に応じてくれたのだ。

仏壇に案内してもらい、線香をあげると、浩さんの遺影があった。髪を七・三に分け、メガネをかけてほほえんでいる。自然体の笑顔は、これから大切な取材を始めようというわたしの緊張感を解きほぐしてくれた。

塚田浩さんは地元の橋本高校の出身。兵庫県の大学を1977年に卒業すると、地元の橋本市役所に入った。水道の管理や年金の事務などに携わったが、律義な性格が買われ、どの部署でも周りからの信頼は厚かった。  

家に帰れば子煩悩なパパだった。1988年に長女が生まれると、浩さんは「名前は生まれてはじめての贈り物だ」と言い、名付けの参考書を7冊も買いこんだ。数年後に美智子さんがマー君を授かったとき、飛び上がるほど喜んだのは言うまでもない。歴史が好きだった浩さんはしばしば、幼稚園児のマー君を近くの郷土資料館につれていった。小さな息子に昔の道具の使い方を熱心に教えていたのを、資料館の元職員が覚えていた。

幸せを絵に描いたような家族の暮らしが断ち切られてしまうとは、誰が想像できただろうか。転機は1996年春に「総務管理課文書係」に配属されたことだった。

職員の給料から市内の施設の運営まで、市政のルールは「条例」や「規則」で決まっている。それぞれに担当課はあるが、ともに条例・規則の文案をつくり、市議会に提出するのが文書係の主な仕事だ。行政文書に誤りやあいまいな点があってはならないが、担当課は条文の書き方には詳しくない。文書係が担う役割は大きかった。

最初の不調は1999年4月の胃潰瘍だった。心労が重なったものとみられ、2週間の病気休暇をとった。その後も医師からはさらなる静養を勧められたが、浩さんは「出勤する」と言い張った。

「お父さん、命と仕事とどっちが大事なの?」

美智子さんは必死で止めたが、浩さんは首を横に振った。

「あの仕事の山を思い出すと家でゆっくりと寝てられない。余計ストレスがたまる。すまん。仕事に行かせてくれ」

無理がたたり、半年後の1999年11月に胃潰瘍が再発した。それでも浩さんは働き続けた。

2000年3月の議会に提出する条例案は、山のようにあった。夜の8時、9時ごろまで役所で働き、帰宅後も1時間ほど休んでから深夜1時ごろまで書斎にこもった。翌朝は5時起床。一日の睡眠は4時間ほどだった。

異状は美智子さんの目にも明らかだった。顔色がめっきり悪くなった。温厚な人柄は影を潜め、イライラする機会が増えた。

「夢の中でも寝言で仕事の話をしていました。電話の応対だったり、条例のことを説明していたり。はっきりとした大きな声でした」(美智子さん)

忙しい父を支えるため、マー君もけなげにがんばった。休日になると「お父さんは寝ているから」と言い、自分から外に遊びに行った。幼稚園で発表会があった日、市役所勤めのほかのお父さんは見に来たのに、浩さんは来られなかった。そのときも文句一つ言わなかった。

家族一丸となって苦しい時期を乗り切ろうとしたが、2000年3月の議会の直前になって、疲れ切った浩さんをさらなるアクシデントが襲った。条例案の一部にミスが発覚したのだ。部下が担当した部分だったが、浩さんは大きな責任を感じた。

3月のある朝、自宅を出た浩さんは市役所に出勤せず、和歌山県と大阪府との境に位置する紀見峠に向かった。そして生まれ育った我が家が見渡せる峠の上で、自らの命を絶った。

浩さんが残していた遺書

亡くなる直前、浩さんはなにを考えていたのか。心境を推し量るため、遺書を紹介したい。

市長宛てにはこう書いていた。

〈何もかも押しつけられた状態で本当に苦しい毎日でした。私に相談にくる職員が何十人もいるが、私には相談できる人がいなかった。(中略)もう、疲れて、修正案を考える気力がなくなった。申しわけない。仕事が多すぎ、そこまで詰める余裕がなかった。もはや、死んで、おわびするしかない。お許しください〉

そして、マー君にはこんなメッセージをのこしていた。

〈親らしいことが何もできず許して下さい。貴方の無邪気な顔をみていると、本当に疲れがやすまりました。先週の発表会を見に行きたかった。お母さんから、貴方がものおじせず、堂々と話をしているのを聴いて、本当にうれしかったです。笑顔のマー君(※本当は実名。筆者注)の顔が忘れられない。こんな幼い子を残して、お父さんは! どうか、お母さんの言うことをよく聴いて、助けてやって下さい。本当に御免なさい〉

愛する家族の存在があっても生の世界に踏みとどまることができない、浩さんの絶望的な気持ちが、この文面にあふれている。ここからはわたしの想像だが、亡くなる最後の瞬間まで、浩さんの心には「生きたい」という気持ちが残っていたと思う。それでも生き続けられないほど、疲れ果ててしまったのだろう。命のガソリンを使い尽くしてしまったのだろう。


過労死、過労自死の記事を書いていると、「死ぬくらいなら仕事を辞めればよかったのに」という感想を聞くことがある。

いわゆる「自己責任論」の1つだと思うが、よく考えてみてほしい。塚田浩さんの心身がもし正常な状態だったら、愛すべき家族を残して命を絶つわけがない。

紀見峠に立ったとき、浩さんは「仕事を辞める」という選択肢が頭に浮かばないほど、深刻な心の病(うつ病)に陥っていた。それは間違いない。そんな状況の人に自己責任論を振りかざしても意味がない。もっともっと手前、働きすぎで心の病にかかる前に、手を打たなければならないのだ。

亡くなってから3年以上たった2003年12月、浩さんの死は公務員の労災にあたる「公務災害」と認定された。仕事が原因で亡くなったことを公式に認められたということだ。正式に認定された死亡前1カ月(2000年2月)の残業は117時間だったが、家での仕事を含めた遺族側の計算では200時間近くにのぼっていた。脳や心臓の病気について国が定める過労死ラインは「月平均80時間超の残業」である。少なくとも過労死ラインを超える働き方を世の中から一掃しない限り、過労死はゼロにならない。

〈ぼくはタイムマシーンにのってお父さんの死んでしまうまえの日に行く そして「仕事に行ったらあかん」ていうんや〉

幼い子どもにこんな悲しい思いをさせることは、2度とあってはならない。

過労死のない社会になって欲しい」残された妻の願い

浩さんが亡くなってから19年が経ち、マー君はいま、立派な青年になっている。

「タイムマシーンをつくる」と言ったころから、マー君は科学の本をたくさん読み始めた。小学校高学年になると、顔をしかめて「タイムマシーンは難しいみたい」と母の美智子さんにつぶやいたこともあった。

そうしたことが下地にあったのか、理系の大学に入り、大学院にまで進んで、新薬の開発などの研究をしてきた。昨年の春に民間企業に就職。タイムマシーンはあきらめたが、別のかたちで誰かの「命を助ける」という目標を持ち続けているという。

「息子が安心して働ける、過労死のない社会になってほしい」

それが美智子さんの切なる願いだ。