奈良県橿原市の橿原神宮。初代天皇である神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされる地に、明治天皇により官幣大社として1890(明治23)年に創建された(写真:トミ/PIXTA)

現在、世界で「エンペラー(emperor・皇帝)」と呼ばれる人物はたった一人だけいます。それは日本の天皇です。世界に王はいるものの、皇帝は天皇を除いて、残っていません。国際社会において、天皇のみが「キング(king・王)」よりも格上とされる「エンペラー」と見なされます。

「天皇」は中国の「皇帝」と対等の称号であるので、「キング」ではなく、「エンペラー」であるのは当然だと思われるかもしれません。これは日本人にとって、当然かもしれませんが、欧米人もこうしたことを理解して、「エンペラー」と呼んでいたのでしょうか。

一般的な誤解として、天皇がかつての大日本帝国 (the Japanese Empire)の君主であったことから、「エンペラー」と呼ばれたと思われていますが、そうではありません。1889(明治22)年の大日本帝国憲法発布時よりも、ずっと前に、天皇は欧米人によって、「エンペラー」と呼ばれていました。

17世紀、すでに天皇は「エンペラー」だった

江戸時代に来日した有名なシーボルトら3人の博物学者は長崎の出島にちなんで「出島の三学者」と呼ばれます。「出島の三学者」の1人で、シーボルトよりも約130年前に来日したドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルという人物がいます。ケンペルは1690年から2年間、日本に滞在して、帰国後、『日本誌』を著します。

この『日本誌』の中で、ケンペルは「日本には2人の皇帝がおり、その2人とは聖職的皇帝の天皇と世俗的皇帝の将軍である」と書いています。天皇とともに、将軍も「皇帝」とされています。1693年ごろに書かれたケンペルの『日本誌』が、天皇を「皇帝」とする最初の欧米文献史料と考えられています。

ケンペルは日本の事情に精通しており、「天皇」の称号が中国皇帝に匹敵するものであるということ、さらにその歴史的な経緯をよく理解したうえで、天皇を「皇帝」としました。

1716年にケンペルは死去します。その後、『日本誌』の遺稿はイギリスの収集家に売られ、1727年、その価値が認められて、『The History of Japan』というタイトルで英語訳で出版されます。この本は話題となり、フランス語、オランダ語にも翻訳出版され、ヨーロッパ中で大ヒット・ベストセラーとなりました。18世紀後半、ドゥニ・ディドロが『百科全書』を編纂(へんさん)した際、日本関連の情報のほとんどを『日本誌』に典拠したことが知られています。

ケンペルの『日本誌』が普及したことで、日本の天皇および将軍が「皇帝」と呼ばれることがヨーロッパで完全に定着しました。

こうした背景から、1853年、ペリーが黒船を率いてやって来たとき、天皇と将軍をともに「emperor(皇帝)」と呼んだのです。ペリーのみならず、日本にやって来た欧米各国の学者や外交官たちも天皇と将軍を「皇帝」と呼び、日本には「2人の皇帝が存在する」などと記録しています。

また、ケンペルは『日本誌』の中で、天皇は紀元前660年に始まり、当時の1693年まで続いていることに触れ、「同じ一族の114人の長男の直系子孫たちが皇帝位を継承しており、この一族は日本国の創建者である天照大神の一族とされ、人々に深く敬われている」と説明しています。ケンペルは、皇統の「万世一系」が日本で重んじられていることに言及したのです。

宣教師たちは天皇をどのように呼んだのか?

では、戦国時代の16世紀にやって来たイエズス会の宣教師たちは天皇をどのように呼んでいたのでしょうか。

フランシスコ・ザビエルとともに日本にやって来て、18年間、日本で宣教したコスメ・デ・トーレスは「日本には、聖権的な絶対指導者が存在する」と記録し、その存在を三人称的な「彼」と表記しています。トーレスが「彼」としたのは天皇のことであると考えられています。

織田信長と親交のあったルイス・フロイスは天皇を「Dairi」(ポルトガル語原文)と表現しています。「Dairi」とは 「内裏(だいり)」のことで天皇を指し示します。

「天皇」という呼び名は、明治時代以降、一般化しました。「天皇」は中国などの対外向けに制定された漢語表現で、また、法的な称号でもあり、日本国内では、普段から使われていた呼び名ではなかったのです。明治政府が天皇を中心とする新国家体制を整備する段階で対外向けの「天皇」を一般化させていきます。

それ以前、天皇は御所を表す「内裏(だいり)」と呼ばれたり、御所の門を表す「御門(みかど)」と呼ばれていました。「みかど」に「帝」の漢字を当てるのもやはり、中国を意識した対外向けの表現であったと考えられます。

こうした状況で、ルイス・フロイスは天皇を「Dairi」と表記しました。いずれにしても、16世紀の段階で、天皇を「エンペラー」とする表記はありませんでした。

天皇は本来、「キング」に近い存在

皇帝は一般的に、広大な領域を支配する君主で、複数の地域や国、民族の王を配下に持ちます。つまり、王の中の王が皇帝なのです。その意味では、天皇は明治時代以前、日本一国の君主でしかないので、皇帝よりも王に近いと思われます。

「王」を意味する英語の「king(キング)」やドイツ語の「König(ケーニヒ)」は、古ゲルマン語の「kuni(クーニ)」が変化したものです。「kuni」は「血族・血縁」を意味します。英語やドイツ語などの「王」には「血族・血縁」という意味が表裏一体のものとして内在されています。王は「血族長」として、1つの部族をまとめ、さらに1つの民族をまとめ、一定の領土を支配領域とすることで、最終的に一国の君主となります。

一方、皇帝は血縁に関係なく、実力者がなるという前例が数多くあります。ヨーロッパでは、ローマ帝国時代から優秀な者を養子に迎え、帝位を引き継がせ、実力者が武力闘争やクーデターによって皇帝となることもありました。

しかし、王は違います。王になるためには必ず、血統の正統性が要求されます。例えば、ナポレオンなどは皇帝になれても、王になることはできませんでした。皇帝は王よりも格上の存在です。ナポレオンが格上の皇帝になることができて、格下の王になれなかったというのは一見、矛盾した話のように聞こえますが、こうした背景があるのです。

ただし、神聖ローマ皇帝位をハプスブルク家が世襲しはじめる15世紀には、皇帝位にも、血統の継承性が重んじられるようになり、各国の王位の継承性とバランスを取ることが慣習的に定着します。そのため、ナポレオンが19世紀初頭に突如、皇帝になったことはヨーロッパの保守派の間では到底、認められるものでないばかりか、ほとんど嘲笑の的でした。

「万世一系」の皇統を持つ(諸説あり)天皇は、血統による正統な君主という意味でも、「キング」の訳を当てたほうが適切かもしれません。しかし、天皇という「キング」とは異なる言葉の意味や、天皇が中国皇帝に対抗したという歴史的経緯もあり、前述のケンペルをはじめとする欧米人たちは天皇を「エンペラー」と見なし、そのような称号で扱うことを一般化し、国際儀礼としたのです。