-この人だけを一生愛し続ける-

そう心に誓った日はもう遠い昔…。

結婚生活が長くなれば、誰にだって“浮つく瞬間”が訪れるもの。美男美女が行き交う東京で暮らすハイスペ男女なら尚更だ。

では、東京の夫/妻たちは一体どうやってその浮気心を解消し、家庭円満をキープしているのか。

これは、既婚男女のリアルを紡いだオムニバス・ストーリー。




最終話:「誰も私を褒めてくれない」若くして結婚したセレブママ・小宮千里の苦悩


「私…離婚するかも」

そう耳元で小さく囁いた時。圭介の目の色が変わったのを、私は確かに見た。

男なんてみんな同じ。“いつもいる女”より“たまにいる女”が好きで、“誰のものでもない女”より“誰かのもの”に惹かれる。

そして…誰かのものであるはずの女が、ふいに孤独をチラつかせた時。それを無視できる男などいない。

つい先ほどまで妻への惚気を語っていた圭介だって、結局は同じだった。

思わず私にキスしたあと、わかりやすく狼狽える圭介を眺めながら、私は自らが発したキラーワードの効果をしみじみと実感するのだった。

「わかってる。これは、二人だけの秘密ね」

言いながら、私はなんだか楽しくなってしまった。まだ独身だった頃、蝶よ花よとチヤホヤされた昔を思い出す。

もう10年以上前の話…しかし34歳になった今でもこの通り、まだ私は女として需要があるのだ。

興味ないフリしてたって、愛妻家だなんだと言ったって、私がちょっと弱さを見せただけでコロッと靡くのだから。

ちなみに「離婚するかも」と言ったのは、真実かと言われると微妙だ。「離婚したいと思っている程度」というのが正しい。

しかし丸っ切り嘘をついたわけではないし、非難されるほどの罪ではないと思う。

少なくとも私は、こうでもしないとやっていられなかったのだ。


「離婚するかも」というキラーワードで圭介を誘惑した千里。彼女が抱える苦悩とは?


若くして結婚することの弊害


今の世の中「若くして結婚した女が勝ち組」かのような風潮がある。

実際、25歳で結婚した私も世間的には“勝ち組”なのかもしれない。夫の実家は大手自動車メーカーと取引のある老舗の部品メーカー。夫自身も家業を継ぎながら、飲食業界で一定の成功を納めている。

結婚翌年には子宝にも恵まれ、娘はすでに小学生だ。

「幸せね」と言われるし、実際そうなのだと思う。…側から見ているぶんには。




20代後半の思い出といえば、子育てに追われた記憶しかない。

仕事でほぼ家にいない夫は結局、オムツ替えさえ一度もしなかった。唯一の救いは、夫の実家が所有するマンションに住んでいたこと。すぐ上の階に義両親が住んでいるため、何かの時には頼ることができた。

とはいえ実の親ではないから気を使うし、頼れるのは“仕方がない”時だけ。ベビーシッターなどももちろん活用はしていたが、サービスも使い勝手も今ほどの充実はなかった。

ほぼワンオペ育児で、自身の半分以上を犠牲にしながら子どもと格闘した20代。

しかしその一方で、大学ゼミで一緒だった仲間の皆はというと、仕事帰りは連日のようにお食事会や女子会を楽しんでいる。休みのたびに海外旅行に出かけている。

#自分へのご褒美 などと言って高価なバッグやジュエリーを新調している。

もちろん私も夫とともに年に数回は海外に出かけるし、買い物だって自由にできる身分ではある。しかしそれは全て夫主導で行われること。

旅の行き先は全て夫が決め、私に選択権はない。「好きなものを買っていい」と言いながら、結局は口を挟まれる。

私には、同年代の女の子達が思う存分に享受する“自由”がまるでなかったのだ。

アラサーになり、頻繁に呼ばれるようになった友人の結婚式では、仲間の会話についていくことができない。

「この前お食事会で会ったって話した商社マンいるでしょ?こないだ初デートしたんだけど、帰り道にチュウされちゃってぇ」
「え、何その胸キュン展開!」

きゃっきゃっと盛り上がる女子たちの会話を、私は何のコメントもできずに聞く。下手に口を挟めば、場がしらけてしまうことがわかっているから。

そして散々盛り上がっておきながらも、しばらくすると彼女たちの会話は必ず「千里はいいよねぇ。(稼ぎの)いい旦那さんがいて」と締めくくられる。

しかしそれが本心でないことも、私は知っている。

「ああ、ホント早く結婚したい」
「いくら男にチヤホヤされたって、結局は一人に愛されるのが幸せだもんね」

口ではそんなことを言っていても、彼女たちは今を存分に楽しんでいるのだ。

そして自由を失い“母”として生きる私のことを、絶対に羨んでなどいない。どちらかといえば哀れんでいるに違いない。

そんな風に思うのは、私の被害妄想だろうか?

だが実際、私は随分と長い間、夫から「可愛い」とか「綺麗」とか「好きだよ」とか、そういう甘い言葉をかけてもらっていなかった。

若かりし頃は、誰よりもチヤホヤされていた私だったのに…。

完璧な妻を全うしても、素敵なママを演じても、誰も褒めてくれやしない。

-もっと、他の人生があったかもしれない。

そんな考えが頭にちらつくようになったのは、いつからだっただろう。

夫に対し、取り立てて主張するような不満があるわけではない。しかし女にとって、“無関心”ほど心を傷つけられる暴力はないのだ。


無関心な夫に「離婚したい」とまで考えるようになった千里。そこに、ある誘いが届いた


夫婦は合わせ鏡


“ゼミの皆で久々集まるけど、千里も来られる?”

仲間の中でもお人好しキャラの女友達から届いたLINEに、私は最初断りの返事を送ろうとした。

娘をお願いするため義両親に言い訳をするのも面倒だし、そこまでして仲間に会いたいわけでもない。

しかしそこでふと、ある考えが浮かんだのだ。久しぶりに顔を出し、男友達にチヤホヤされてみるのも悪くないな、と。

特に、昨年結婚したばかりの圭介。昔から私に興味を示さない稀有な男。

彼にちょっかいを出してみたら、面白いんじゃない?



そうして集まりに参加し、目的を達した私が麻布の自宅に戻ったのは、結局3時過ぎだった。

娘は「ばぁばの家に泊まりたい」と自ら言い、義両親の家に行ってくれていた。まあ、それも私が上手く言い聞かせたからだが。

夫は戻っているかもしれないし、いないかもしれない。

どちらにせよ「大学の仲間と会ってくる」と伝えてはあるから、帰ってきていたとしても気にせず寝ているだろうと思っていた。

しかし家に戻ると、意外にもリビングに電気がついていたのだ。

「…ただいま」

さすがに嫌味の一つや二つ言われるだろう。そう覚悟して、私は夫に声をかけた。

「随分と盛り上がったんだな」

遊び疲れて戻った妻を見て、夫は呆れ顔をしているに違いない。私は彼の表情を直視できぬまま「うん、まぁ」と曖昧に答える。

しかし夫があとに続けた言葉は、私の予想とまるで違っていたのだ。

「楽しかったなら良かったよ。千里だって、たまには息抜きが必要だよな。俺が普段まったく構ってやれないから…」

-え…?

思いがけないセリフに、私は咄嗟の返事が出てこない。黙ったまま、リビングの中央で立ち尽くした。

「じゃあ、俺はもう寝るよ。おやすみ」

夫は穏やかにそう言うと、呆然とする私の頭をポンと撫でて寝室へと消えていった。




-もしかして、私の帰りを待っててくれた?心配してくれてたの…?

ずっと無関心で、もう女として見てくれていないのだとばかり思っていた。私のことなど、気にもしてないのだと。

しかし無関心だったのは、お互い様ではなかったか。

私の方こそ自分と娘のことばかりで、こんな風に夫の帰りを待とうなんて思ったことすらなかったのだから。

夫が優しい言葉をかけてくれたおかげで、そのことに今、私はやっと気づくことができたのだ。

夫婦は合わせ鏡と言うが、本当にその通りかもしれない。

…しかしそこで、私はハッと気がついた。

ついさっき、私の側を通っていった夫の香り。あれは、家にあるシャンプーの香りではない。

誰もいなくなった深夜のリビング。妖しげに輝く夜景が広がる大きな窓には、何者でもない、孤独な34歳の女が映っていた。

Fin.