たむけん罵倒に激怒する無関係な一般人の心理
たむらけんじさんをめぐる騒動を整理します(写真:日刊スポーツ新聞社)
お笑いタレントのたむらけんじさんが、プライベートで訪れたラーメン店の店主に写真撮影を頼まれ、その後、店主が「マイク、カメラなかったらおもろ無い奴でした」などとTwitterで呟いて、いわゆる炎上騒動にまで発展した問題。
お店への電話は1日1000件を超えた
インターネット上だけでは収まらず、無言電話がひっきりなしに架かってくるなど、お店に対する直接的な嫌がらせが行なわれている。7日放送のフジテレビ系「とくダネ!」の取材によると、お店への電話は1日1000件を超えたそうだ。また、真偽のほどは不明であるが、店主の個人情報までが拡散されている。
異様なまでの個人攻撃の加速化である。
なぜこんなことになったのか。
それは、店主の身の程をわきまえない“暴言”とずさんな対応ぶりに皆我慢がならなかったからだろう――模範解答はこんな感じになるかもしれない。しかし、世の中を見渡してみれば、不条理な出来事は山ほどある。人命を左右しかねない案件も多い。
にもかかわらず、インターネット上では、どう見ても緊急性がそれほどあるように思えないものの周辺から不意に火の手が上がる。そして、いつの間にか紅蓮の炎に包まれる。不思議な現象である。これは直接的な原因を探るだけでは何もわからない。もっと深層を掘り下げる必要がある。
炎上騒動の背景に潜んでいるのは、一言でいえば、私たちの不安な主体だ。
箇条書きにすると、主に2つに要約できるだろう。
もちろん、これ以外にもさまざまな要因が考えられるが、紙幅の関係上最低限のポイントに絞らせてもらった。
・SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の発達とインフラ化によって、私たちはインターネットのコミュニケーション空間からのデタッチメント(分離の意)が困難になり、「どうでもいいこと」に粘着しやすくなっている
・社会的なつながりの希薄化、社会的な承認の不足によって、私たちは自己肯定感が持ちにくくなっており、不安やストレスにさらされた際の避難所(シェルター)的な場所が限られる状況下で、SNSへの依存度合いが高まっている
最近、知り合いから、問題行動を起こした人々についての話を聞いた。
仮にAさんとしよう。複数の人物のエピソードを再構成したものだ。
著名人の炎上騒動に便乗するのが楽しくなっていた
Aさんはとある政府系シンクタンクの職員で、年収は推定600万円。妻子がいて、ワイン好きで、おとなしいキャラクターだ。普段の生活も、仲のよい大学の同期たちと月に1回飲み会を開くなど、傍から見れば特に問題があるような人物には見えない。
しかし、数年前、Twitterであるタレントのアカウントに悪質なリプライを送り続け、さらにそのタレントの発言を支持するファンの何人かともケンカになった。相手に直接DM(ダイレクトメール)で暴力的な行為を示唆するメッセージを送り、それをスクリーンショットで撮られて拡散されたりもした。
現在は、TwitterもFacebookもやめ、もっぱらInstagramで食べ物や観光地の写真をアップする程度だという。
興味深いのは、Twitterで問題行動を起こしていた際の状況だ。
会社で同僚の出世が相次ぎ、内心かなり傷ついていたことと、子どもの進学をめぐって妻と対立していて、最終的には自分が折れたものの、実はまったく納得できておらず、鬱憤が溜まっていたという。しかも、これらのことを気軽に相談できる相手もなく、逆に誰にも弱みを見せたくないとの思いのほうが強かった。
気が付くと、Twitter上で不適切な発言をした著名人の炎上騒動に便乗して、リプライや引用リツイートをして叩いたりするのが楽しくなっていた。多いときはリプライに数百のリツイートやいいねが付くこともあった。ちょっとした罵倒のリプライで、著名人が本気で怒り出すのが痛快だったそうだ。
仕事の最中も、スマホに表示される通知が気になり、自然とTwitterアイコンを押してしまうようになった。食事中もトイレのときも関係がなく、暇さえあればTwitterの画面を開いてしまう。ベッドに入っても、自分のリプライがどうなったかが気になって、なかなか寝付けない。相手の嘲笑的な言動に腹が立って仕方がない――。
これはほんの一例にすぎないが、私たちが抱えている問題が示されている。
オンラインとオフラインの切り替えがしにくくなっているということだ。
産業保健心理学の世界では、近年「サイコロジカル・ディタッチメント(心理的距離)」という概念が知られるようになってきている。インターネット化の進展に伴い、職場から物理的に離れていても、常時オンラインの状態にあると、終業後もなにがしかの対応に追われ、実質的に仕事のストレスからは解放されていないとの考えから、改めて「心理的に離れていること」の重要性に踏み込んだものだ。これに近いことが、私たちのSNSとの関係性にも当てはまる。
インターネットのコミュニケーション空間の主流はSNSだが、これが日常生活に欠かせないインフラと化して以降、心理的なデタッチメントが困難になっているのだ。
「見たいものしか見えない」フィルターバブルのことを知識として理解していても、タイムラインを流れる「どうでもいいこと」が「どうでもいいこと」に捉えられず、それを発信する「どうでもいい相手」が「どうでもいい相手」とは思えず、激しい怒りの矛先を向けて粘着しやすくなる。SNSのやり取りから「心理的に離れていること」ができないのだ。AさんのTwitterのリプライの反応が気になって眠れないというのがまさにそれを表している。
しかも、ここにはゲーム的ともいえる嗜癖の要素も絡んでいる。オンライン上では、特定のボタンを押せば、すぐに反応が返ってくる。リターンが迅速なのだ。それは、反論や罵倒であったり、言い訳や謝罪であったりするのだが、指先をちょっと動かすだけで、場合によっては、相手の心理に強烈なダメージを与え、相手またはその組織を簡単に窮地に追い込むことができるからだ。
オフラインでは物理的な制約があるためこうはいかない。分かりやすくいえば、それは「情報空間における遠隔操作によるドローン攻撃」のようなものだ。
そのような問題行動に至る動機を下支えしているのが、社会的なつながりの希薄化や、社会的な承認の不足である。
自己肯定感が一時的に満たされる
家族や企業はかつてのような盤石なものではなく、むしろトラブルの発生源としての側面があらわになっている。これには社会経済状況の変化も大きく影響している。さらに、家族や企業における人間関係以外に、私的な悩みなどを気軽に相談できる関係性や、適当に憂さ晴らしをできる場(機会)が乏しい現状が、不安と不満の感情が手当てされずに放置される不健康な精神状態を作り出してしまっている。
そのため、私たちは明らかに自己肯定感が持ちにくくなっており、生活の土台がさまざまな社会情勢の「気まぐれ」で移り変わる昨今、ストレスにさらされた際の避難所(シェルター)的な場所が期待できない中で、最も身近なコミュニケーション手段であるSNSへの依存度合いが高まっているといえる。
確かに、自分の人生がコントロールしがたい状況下において、自分がコントロールする側になれるという状況は魅力的に映るだろう。オンラインの世界では、気に食わない相手に罰を与え(罵倒)、好きな相手には報酬を与える(いいね)ことができる。このときだけ自己肯定感は、一時的に満たされる。炎上騒動がニュースにでもなれば、達成感のようなものも得られるだろう。
だが、限りある時間の中で本当に解決しなければならないのは、私たち一人ひとりの人生の「コミュニケーション環境」なのではないか。
たむらけんじさんは「ネットの皆様へ」と題した2月5日のツイートでこう述べている。
「向こう〔著者注:ラーメン店主のこと〕へのお言葉はもうやめましょう。皆さんの大切な時間を費やしてまでやる価値のない事です」
これ以上何も付け加える必要はないだろう。